檻の中の獣6
「――残念です」
葉菜の言葉に、ネトリウスは溜め息混じりにそう告げた。
口調は柔らかいのに、その声はどこかぞっとする冷たさを含んでいた。
「ザクス様が貴方様に施した洗脳は、簡単に解けないほど強いもののようです。本当に口惜しい。私は貴方様を悲しませたくなかったのに……」
「悲しむ…?」
嫌な予感がした。
何か、とてつもなく恐ろしいことが起こるような、そんな予感が。
「えぇ」
わざとらしい嘆きの表情を浮かべていたネトリウスは、射抜くように葉菜を見つめながらつと口端を吊り上げた。
「勘違いさえ醒めていれば、ザクス様が亡くなっても、貴方様が嘆くことはないでしょう?」
「っ!?どういうこ…あああ゛あ゛ああああああああぁぁぁぁぁ」
ネトリウスの言葉に身を起こして檻際に詰め寄った葉菜は、鼻先が檻の隙間に入った瞬間絶叫しその場で転げまわった。
熱い。痛い。
鼻に焼きごてを押し付けられたかのような、体験したことのないような苦痛が葉菜を襲った。
痛みは檻から離れるなり、一分もしないうちに嘘のように消え去った。
だが葉菜にはそのごくわずかな時間が、何時間にも思えた。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに濡らしながら、葉菜は床に伏せて喘いだ。口端からはだらだらと涎が零れているが、いまだ残る苦痛の余韻に、口許を閉じることも、涎を拭うことも出来ない。
「…だからお気をつけて下さいと言いましたのに」
激痛に呻く葉菜を余所に、まるで粗相をした子供をたしなめるかのように軽く声をかけるネトリウスに恐怖感を覚える。
傷付けたくないなどと言っておきながら、結局この男はどうでもよいのだ。
魔力至上主義のこの男が、気にかけるのは、葉菜の魔力だけ。
そして、魔力を閉じ込めている「器」としての、葉菜の体のみ。
葉菜の心がどれだけ傷付こうが、葉菜が痛みを感じようが、魔力と肉体に支障がなければ気にも止めないのだ。
ネトリウスは誰よりも魔力を愛している。
狂信的に、他者から見たら理解できないまでに深く、強く。
彼はその魔力を深く愛し、また自身も自らが史上と高める魔力に恵まれた代償に、人間が当たり前として持っている物を色々と欠落してしまっているのかもしれない。
思いやりや、愛のような、人間として当たり前の感情も、魔力を基準にしてしか考えることが出来ない程に、彼は感情の全てを魔力に捧げてしまっている。
魔力の為なら、自身の命を捧げることも辞さないほどに。
(怖い)
葉菜は、未知の狂気を宿すネトリウスに怯える。
だが、葉菜は湧き上がった恐怖を押さえつけて、未だ涙が滲む目でネトリウスを強く睨み付ける。
「…ザクス、死ぬ…どういう、意味」
この男は、ザクスが死ぬといったのだ。
そんな言葉を前にして、脅えて怖気づくことなど出来ない。
怖気づいた結果、何も出来ぬままザクスを失いたくない。
ザクスを失うことの方が、ネトリウスの狂気なんぞよりも、葉菜にはずっと怖い。
ネトリウスはそんな葉菜の様子に愉しげに笑みを深めながら、言葉を続ける。
「貴方様が眠っている間、先王陛下が亡くなりました。先代が亡くなって12時間以内に戴冠式は遂行されなければ、次代は正式に王位を継いだとされない。間もなく、戴冠式が始まります。ゴードチスはザクス様が正式に王位を継ぐことを妨害すべく、私兵を率いて戴冠式に乱入することを私に打ち明けました」
ゴードチス。
葉菜は議会の時に、ザクスを馬鹿にした老人の姿を脳裏に浮かべる。
葉菜に飛び掛かられても、死の恐怖を味わっても尚、ザクスに謝罪の言葉一つ述べなかった老人。彼は枯渇人であるザクスを蔑み抜いていた。ゴードチスなら、そんな行動を取ったとしても不思議ではない。
「…ザクス、死なない。強い」
だが、ゴードチスの率いる私兵がいくら強かろうが、ザクスが簡単に死ぬはずがないと葉菜は確信していた。
ザクスは12歳という幼さで、処刑同然のように他国との戦争に駆り出され、それでも過酷な戦場を生き抜いて勝利をもたらした猛者だ。剣聖と讃えられる英雄だ。権力者の私兵程度に、簡単にやられるはずがない。
(これは、罠だ)
ネトリウスは、ただ葉菜に揺さぶりを掛けたいだけだ。ザクスが死ぬかもしれないという葉菜の不安に付け込もうとしているだけだ。
惑わされてはいけない。
「――ええ、ゴードチス程度の私兵では簡単に制圧されて終わりだったでしょうね。…ただし、ザクス様が貴方様に出会う前までは、の話ですが」
しかし続けられたネトリウスの言葉は、そんな葉菜の内心の余裕を吹き飛ばした。
「貴方様に出会い、エネゲクの輪による契約を交わしたからこそ、たかがそんな私兵程度を相手しただけでも、ザクス様は亡くなられるのですよ」




