33.狙うのは、顎か、鼻。(リリア視点)
「なに、忘れてるんですか、ほんとに」
ぼすんと、苛立ち紛れに拳をぶつけます。
腹筋硬すぎませんか。お腹にゼ◯シィでも入れているのかと思うレベルです。
力のない自分の拳を見下ろして、思い出しました。
拳を作る時に、親指を中に握り込んではいけないと、エリ様に教わったのを。
何でも殴った時の衝撃で、親指を骨折するからだとか。
骨折するような勢いで殴りたくないんですけど。とドン引きするわたしに、エリ様は言ったのです。
「そもそも君がちょっと殴ったぐらいでは誰も怪我しないんだから、殺すつもりくらいでちょうどいい」と。
「……リリア嬢。君の言う通り、なのかもしれない」
拳を握ります。
小指から順番に折り曲げて、きっちりと力を入れて握りしめました。
そして最後に、人差し指にふたをするように、中指の方に向かって押しつけるように親指を曲げて、固定します。
確かにさっきまでより、固く握れた気がする、ような。
「ずっと、ずっと。胸に何かがつかえたような。……いや、胸に穴が空いたような、そんな心地がするんだ」
殴るのではなく、突くようなイメージだと、エリ様は言っていました。
拳を突き刺すように、腕と手首と、拳が一直線になるように放つのだと。
「俺には大切なものがあったはずなんだ。そのために俺は、強くなりたくて、騎士に、憧れて」
狙うのは、顎か、鼻。服に隠れていない分、分かりやすくて狙いやすいから。
人体の真ん中には急所が集中しているそうで、少ない力で最大限の効果を得られるのだとか。
でも、結局は当たれば何でもいいのだと、エリ様は言いました。
威嚇でいいのです。
一目散に逃げて、それでも捕まってしまったら。
とにかくなりふり構わず、抵抗するしかない。
わたしに酷いことをすると痛い思いをするぞと分からせて、相手の動きを、判断を、遅らせる。
逃げるための隙を作る。それが大事なのだと、エリ様は言いました。
――そうしているうちに、きっと助けが来るよ。
エリ様の台詞に……「助けに行くよ」じゃないところがエリ様らしいなぁと、その時は思ったのです。
でも、違ったんですね。
きっと、これは。
助けが来るとか、来ないとかじゃなくて。
そう信じて、自分を奮い立たせるための……自分が折れないための、一撃。
「君は知っているのか? 俺が何を、忘れてしまったのか」
知っているか?
わたしが? エリ様のことを?
……そんなもの。
「知ってるに、決まってるでしょーがっ!!!!」
思いっきり、ロベルト殿下の顔面に全身全霊の、聖女パンチをお見舞いします。
ロベルト殿下は、避けませんでした。
ぐしゃり、という、ものすごく嫌な手応えがありました。
他人様を、しかも顔面を殴ったのなんて初めてで、その感触と衝撃に言葉を失います。
手が痛いです。めちゃくちゃ痛いです。骨とか折れてるんじゃないでしょうか、これは。
殴った方も心が痛い、とか言いますけども。心とかじゃなくて普通に手が痛いです。
心へのダメージもなかなかのものですけども。この手応え、トラウマになりそうです。
同じく衝撃の表情でわたしを見下ろすロベルト殿下。
拳の形に赤くなった顔と彼の鼻から垂れる血を見て、もう心底、二度とやりたくない、と思った、その瞬間。
彼の懐から、ぱっと青白い光が放たれました。
あまりの眩しさに、咄嗟に目を瞑ります。
その光は、次に目を開いた時にはなくなっていましたが……今度は別の異変に気がつきました。
ロベルト殿下の鼻血が、きれいさっぱりなくなっていたのです。
それどころか殴られたせいで赤くなっていたところも、すっかり元通りです。
「え?」
ロベルト殿下も違和感に気づいたようです。
自分の顔に触れて、そして懐に手を突っ込みます。
光は、たしかにそこから放たれていました。
彼は騎士団の制服の内ポケットを探って、何かを取り出します。
それは、ナイフでした。
わたしも見たことがあります。
エリ様が西の国のお土産に、ロベルト殿下にあげたアレです。
エリ様が魔女に操られた時、わたしの渾身の聖女の祈りビームを真っ二つにしたアレです。
エリ様がこれで自分の太腿を突き刺して、我に返ったアレです。
「これ、」
「大切なもの、なんだ」
わたしの問いかけを遮るように、ロベルト殿下が言いました。
ナイフから彼に視線を移します。
ロベルト殿下は、驚いたように目を見開いて……そして。
大粒の涙を目に溜めていました。
「これは、俺の、宝物で」
ぼろ、と、彼の瞳から涙がこぼれ落ちます。
涙は、彼の手のひらの上のナイフに落ちました。
そのナイフは、うっすら、ぼんやり、光っている……ような。
「隊長に、いただいたんだ」
ロベルト殿下が、そう呟きます。
けれどわたしには、彼の言葉よりも気になることがあって、それどころではありません。
わたしはどこかで、見たことがあるのです。
こうやってほのかに、ほんとうにわずかに、気のせいかな? くらいに光る何かを。
まるで、そう。蓄光のおもちゃみたいな……。
「っ!?」
ロベルト殿下が息を呑んで、ごしごしと袖で目元を擦りました。
そして勢いよくわたしの肩を掴んで、食ってかかるように詰め寄ってきます。
その衝撃で、わたしも思い出しました。
そうだ。西の国だ。
「どういう、ことだ!? 俺が、隊長を忘れるなんて、そんな、」
「ロベルト殿下!」
ロベルト殿下の言葉にかぶせるように、声を上げます。
目を見開いて口をつぐんだロベルト殿下に向かって、高らかに宣言しました。
「行きますよ!」





