閑話 カイン視点(1)
魔女編の閑話、カイン・フィッシャー先生視点です。
第2部第6章魔女編「34.学校で先生のことを「お母さん」」あたりまでの内容を含みます。
「第一師団、こんな感じか」
エリザベス・バートンがぽつりと独り言のように零した。
地べたを這い蹲るこちらを見もしなかった。
何だ?
一介の公爵令嬢ごときが、どうして第一師団のことを知っている?
いや、どうしておれが第一師団の人間だと知っている?
そしてこの、尋常ならざる強さ。
彼女が強いことは理解していた。剣術の師範代の資格を持っているそうだし、剣術大会での動きも見ていた。
以前気配を消しているところも見て、かなりの身のこなしだとは思っていた。
だがここまでとは、思わなかった。
「先生、どうします? 医者呼びますか?」
問いかけられるが、呼吸をするのがやっとだ。
呼吸のたびにぜひゅーぜひゅーと音がする。肋骨が折れて、肺に刺さっているのかもしれない。
へらへらと笑いながらこちらを見下ろす目には、何の感情もなかった。
まるで、無機物を見るような目だ。
生きている人間を見る目でもなければ、生き物を見る目でもない。
床でも眺めているかのような目だ。
ぞくりと背中が総毛だった。
怖い。
そう感じた。
恐怖などと言う感情は、とっくに失ったと思っていた。
しかし、自分を見下ろす彼女の視線に、心臓が早鐘を打つ。
膝が震える。汗が噴き出す。
恐ろしかった。
誰だ、おれのことを化け物だなどと言ったやつは。
冗談ではない。
化け物というのは、こういうものを言うのだ。
「これ」に比べれば、おれはよほどまともな人間だ。
化け物ぶっているだけの、ただの。
人間に過ぎない。
もう15年近くこの仕事をしている。その中で、強敵と思える相手と戦闘になることも多くあった。
今や第一師団でもおれに勝てる人間はほとんどいない。自分の強さにもそれなりに自負がある。
だがこうして対峙して、こうもはっきりと「勝てない」と自覚した相手は初めてだった。
これは、何だ?
おれの知る「エリザベス・バートン」は、純真で、無垢で、気高い。模範的な貴族子女だった。
それだけの少女だったはずだ。
学園でその姿を見て、ずいぶんと奇抜な見た目に育ったものだと思ったが……そんなもの、たいした変化ではなかった。
この中身に比べれば、見た目の変化など小さなものだ。
血を見て怯えた少女は、もうそこにはいなかった。
何が彼女を、変えたのだろうか。
◇ ◇ ◇
エリザベス・バートンと初めて会ったのは、まだ彼女がほんの子どもだった頃だ。
彼女が3歳か4歳か、そのくらいだっただろう。
その頃のおれは、見習いという立場ではあったものの、既に第一師団に所属していた。
過去には騎士団総帥を輩出したこともあるフィッシャー子爵家の分家の生まれだったが、剣の腕を見込まれ本元の子爵家に養子として引き取られた。
第一師団は国の暗部であり、煌びやかな表の世界には出てこない。
だが裏を返せば、国の根幹に関わる重要な機密事項を扱う仕事であった。
そこに所属する人間を輩出することはメリットがあると、フィッシャー家は考えたらしい。
見込まれたのは、人殺しの才能であったのかもしれないが。
だが子爵家に、おれの居場所はない。
生まれた家からも口減らしと身受け金欲しさに差し出されたようなものだ。
衣食住に困るようなことはなかったが、彼らはおれと口を利こうとすらしなかった。
影で「化け物」「穢らわしい」と言われていることも知っていた。
それも当然だろうと思った。
おれからすれば彼らは、あまりにも弱かったからだ。
いつでも殺せる、取るに足らない存在だった。
いつでも自分を殺すことができる存在が身近にいて、恐怖を感じるのは当たり前だろう。
彼らにとっておれがそうであるように……おれにとっても彼らはそのくらい、別の世界の存在だった。
第一師団に所属することになってからは、詰所を寮がわりにしてほとんど家に寄り付かなくなった。
しかし、長期の休みは違った。領地に赴く彼らに連れられて、領地に連れて行かれることが多かった。
その頃第一師団でおれの面倒を見てくれていた人からしてみれば、まだ子どもだったおれへの気遣いでもあったのだろう。
だがおれは暇を持て余した。家には居場所がないのだ。
必然、領地の中の、取り分け人気のないところをうろつくことが多かった。
その時に出会ったのが、隣接する領地を持つバートン公爵家の子どもたちだった。
たまたま迷い込んでしまったおれを、彼らはいたく歓迎した。
大人と違って子どもは狩猟が出来るわけでもなし、彼らも領地で過ごすことに退屈していたのかもしれない。
それ以来、領地にいるときには頻繁に彼らと会った。
ただ菓子や茶を食べながら話をしたり、テーブルゲームをしたり、本を読んだり……たまには鬼ごっこや、かくれんぼをしたり。
たいしたことのない遊びばかりだったが、剣術ばかりで子どもの遊びなど縁がなかったおれにとっては、よい暇潰しになった。
兄と、彼より4つ下の妹。
兄は優しく穏やかで、いつも人の良さそうな顔でにこにこと笑っていた。妹は貴族らしい礼儀と少女らしい純真さのある女の子で……大きくなったらカイン兄様と結婚する、なんて言われたりして。どちらもおれによく懐いていた。
彼らといる間は、おれまで普通の貴族の子になったように錯覚するくらいだった。
弟や妹がいたらこんな感じだったのだろうかと思ったこともあった。
自分は恵まれていると思う。
本家に引き取られて身分の保証を手にした。衣食住には困っていないし、戦いに長けていたおかげで職にも金にも困っていない。
第一師団にはもっと悲惨な身の上の人間が多くいた。彼らと比べればおれはずいぶんマシなほうだ。
その仲間たちも、おれに良くしてくれている。
第一師団の仕事に対しても、表舞台の仕事でないことは理解していたが、特に嫌悪感はなかった。
生きるために自分のやれることをやっているだけだ。
他の騎士や貴族と比べて、優っているとも劣っているとも感じていなかった。
だから少し、驕っていたのだろう。
領地にいるときに、第一師団から司令が入った。
敵国のスパイがおれのいる領地に向かった可能性が高いとのことで、応援と合流して始末するようにと、そういう指示だった。
しかしおれはその指示に従わなかった。どうせ領地をふらついているのだからと一人で標的を探し……発見して殺そうとした。
だが、運悪くし損じた。あと一歩のところで逃げられた。手傷は負わせたのだ、遠くには行けまい。
そう考えて血の跡を追いかけるうち、気づいてしまった。
そこが既に……バートン公爵領に入っていることに。
それに気づいた瞬間、背筋が凍った。
もし、あいつが公爵家に逃げ込んだら。あの兄妹に、何かがあったら。
おれが取り逃したせいで、指示を無視して一人で動いたせいで。
焦りに突き動かされながら、バートン公爵領を駆ける。
何とか標的を見つけ出して、とどめを刺した。血飛沫を雑に拭いながら、ほっと安堵する。
よかった。これで、彼らに害が及ぶことはない。
カサ、と、庭木が揺れる音がした。
咄嗟に振り向く。
そこには……女の子が。
エリザベス・バートンが、立っていた。
おれは焦っていた。動転していた。
だから周囲に気を配るのを怠っていた。
自分がいるのが、バートン公爵領のマナーハウスの庭園であることにも……エリザベス・バートンが一部始終を見ていたことにも。
その瞬間に、初めて気がついたのだ。
何か言おうとした。エリザベス・バートンに向けて手を伸ばしかけて……彼女が小さく息を呑むのを聞いた。
当たり前だ。
おれの手は、返り血でべったりと、汚れていたのだ。
彼女は怯えていた。目を見開いて、顔を真っ青にして、がたがた震えていた。
今まで言われてきた言葉が、今まで歯牙にも掛けなかった言葉が、実体を持ったものとして頭の中で蘇る。
化け物。
穢らわしい。
そうか、おれは。
穢らわしい、化け物だ。
怖がられて、忌み嫌われて、当然だ。
それが「カイン兄様」なんて呼ばれて、人間の真似事をして……笑わせる。
彼女は震えながら、おれの前から逃げ出した。
当然だ、と思った。
おれは彼女を簡単に殺せる。
そんな人間は……化け物は、怖くて当然だ。
そしておれは……彼女を、殺さなくてはならない。
仕事をしているところを見られてしまったのだ。
第一師団の存在は秘匿されている。その構成員もだ。必要最低限の家族以外に、そのことを知られてはならない。
証拠は消さなくては。
公爵家のマナーハウスに近づいた。明かりが灯った部屋の窓に忍び寄る。
かすかに、妹をあやす兄の声が聞こえてきた。
ああ、遅かった。
兄に、話してしまったのか。
それでは……二人とも、始末しなくては。
◇ ◇ ◇
スパイの死体を森の奥深くに隠してから、翌朝になって公爵領に舞い戻る。
本当なら夜のうちに二人とも殺すべきだった。親に余計なことを言われる前に始末するのが得策だった。
だがおれは……死体を放置できないことを言い訳にして、それを後回しにした。
おれもまだ若かった。子どもだった。
今まで何人も殺した。おれの手は汚れている。今から二人殺したところで……殺さなかったところで、何も変わらない。
知り合いだから、慕われていたから。そんな理由で先延ばしにするなんて馬鹿げている。情では飯は食えない。
それでもおれは、それを少しでも先送りしたかった。
単なるおれのエゴでしかないとしても……殺したくないと、そう思ったからだ。
朝食の席についた兄妹の様子を伺う。集中して、室内の声を拾う。
そこで聞こえたのは、昨日何があったのかと問いかける兄に対する、エリザベス・バートンの「忘れちゃった」という回答だった。
その言葉に安堵する。身体から緊張が抜けていく。
続く会話にも聞き耳を立てたが、どうやら本当に昨晩のことは忘れてしまったらしい。
ショックで記憶を失うというのは聞いたことがある。
生きるのに支障があるほどのショックを受けると、人の心は防衛反応で、それを忘れようとするのだという。
昨夜の出来事は……幼い女の子の心に大きな傷を負わせるには、十分過ぎるものだっただろう。
本当は、おれがそう思いたかっただけなのかもしれない。だがおれは、このことを第一師団には報告しなかった。
報告の必要がないことだと判断した。何も見られなかったことにした。
踵を返して、公爵領を後にする。
背中で和気藹々とした家族団欒の声を聞きながら、あらためて理解した。
おれとあの兄妹では、生きる世界が違うのだ。
おれはどこまで行っても……穢れた化け物で。
それでしか、生きていけないのだから。
おれはこの時、本当の意味で第一師団の……影の人間として生きることを決めた。
子どもじみた理由で殺しを躊躇うのは、これが最後にしよう。
彼らに関わるのも、これが最後だ。
◇ ◇ ◇
そう思っていたが、教師として潜入した学園で、期せずしてエリザベス・バートンと再会することになった。
あの頃の面影が全くといっていいほどなかったので、初めは気が付かなかったほどだ。
だが意識してみれば……目を細めて笑う仕草は、彼女がまだ、小さな女の子だったときと、よく似ていて。
ああ、この子は真っ当な世界で生きて来られたのだなと、勝手に感慨深く思った。そうでなければ、あんな顔では笑えないだろう。
だがもしも、彼女がこの時のことを思い出すようなことがあったら。
いや、もし覚えていたら。
その時は……おれの手で、けじめをつけなくてはならない。
しかし、それは出来なかった。
おれが躊躇ったからではない。あれから十年以上経って、今やあの頃の繊細な心など、おれには残っていなかった。
彼女が……強すぎたのだ。
彼女はおれを遥かに超える、化け物になっていた。
第一師団の詰所で外した関節を嵌めながら、ぽつりと独りごちる。
「おじさんのせいかなぁ」
無垢だった少女が、『こちら側』になってしまったのは。
その箍を外してしまったのは……自分なのかもしれなかった。
あそこで自分がへまをしなければ。
彼女に惨たらしい世界を見せることがなければ。
彼女は無垢な少女のままでいられたのかもしれないのに。
彼女を化け物に変えたのは、おれだ。
せめて彼女が、おれのような生き方をしなくて済むように、今のうちに引き返せるように。
おれに何か、出来ることは。
それが教師としての、カイン・フィッシャーの役目のはずだ。
彼女を殺さなかった、第一師団の騎士としての、カイン・フィッシャーの役目のはずだ。
翌日、歩いて学園に現れたおれを見て、彼女は目を丸くした。
骨を折ったつもりでいたのだろう。ギリギリではあったが、何とか回避した。さすがに素人にやられるようでは示しがつかない。
肋骨は絶対に折れているが。
「エリザベスちゃん」
どうにか彼女を更正させられないかと考えながら話していて、ぽろりと昔のように彼女を呼んでしまった。
すると彼女は、ふわりと微笑んで、こう返事をした。
「はい、カイン兄様」
こちらを振り向いた彼女は、記憶の中のエリザベス・バートンと、同じ顔をしていた。
そして彼女は見る見るうちに赤面する。
その表情の変化に、また目を奪われた。
それは、まるで年相応の少女のようで。
いつか見た、幼い頃の彼女のようで。
おれがまるで普通の子どものように笑って過ごした、彼女との日々を思い出した。
まだ、彼女も僅かながら、人間なのではないか。
彼女も、……おれも。
おれと同じに、手を汚しているかもしれないのに。
こんな顔を、するのか。
して、いいのか。
あんなことがあって……昨日は、互いに刃を交えたというのに。
まだおれを、そう呼ぶのか。
呼んで、くれるのか。
少女のような、兄を慕うような、表情で。
胸の古傷が、じくじくと痛み出す。
「思い出しました」
しばらくフリーズしていた彼女が、照れくさそうに頬を掻きながら苦笑いする。
「昔、そう呼ばれていましたね、私」
慌てたように踵を返して去っていく彼女の背を見送りながら、右手で顔を覆ってため息をついた。
怯えられていると思っていたのに、彼女は昔のように、昔と同じ笑顔で、おれを呼んだ。
昨晩はあんなに恐ろしかったはずなのに、彼女が昔と同じ、女の子にしか見えなくなっていた。
あれが女の子だとするならば、おれなんてただの、人間だ。
そう思った途端に、ふっと肩が軽くなったような心地がした。
そうか、おれは……ただの、人間だったのか。
ただ、強いだけの。
彼女と、同じ。
もちろん仕事として汚してきた手は、変わらない。おれが背負うべきものだ。
それは、おれに出来ることをしただけだ。この国のために影として生きる覚悟は決めている。
だが……おれも人間であるという、それだけで……ひとつ、救われたような気がしたのだ。
そして、長年の心の楔がぼろぼろと崩れ落ちて……そこにおれよりも数倍おそろしいくせに、それでいてどこまで行っても人間らしい顔で笑う、化け物じみた女の子が棲みつき始めたのを理解する。
こんなの、ずるいだろ。





