閑話 アイザック視点(2)
魔女編の閑話、アイザック視点その2です。
全部で2話の予定だったのですが、予定より長くなってしまったので3話に分けました。
第2部第6章「25.※羆と引き分けたことがあります」あたりまでの内容を含みます。
ラブコメパート(?)です。
まさか、たまたま僕がいなかったからといって、バートンが宿題を放棄しているとは思わなかった。
頼ってもらえたことは嬉しいが、だからといって宿題をやらなくてよいことにはならない。
というか宿題は授業の復習や学修成果の定着を目的としているものであり、そもそもやらなくてはならないものだ。
特に彼女は西の国に行っていて不在にしていた期間を突貫の補習で補っている状態だ。
王太子殿下の随伴という公務であっても、その分の勉強が十分にできていないというハンデは完璧には埋められない。
その分授業態度で挽回しておかないと、彼女の苦手な理数系科目では本当に単位を落としかねない状況だろう。
なのにその肝心の理数系科目の宿題をやっていない、と。
卒業する気がないのだろうか。
卒業できなかったとして喜ぶのは彼女の義弟だけだろう。
さすがに少々呆れてしまったが、「君が出してくれた課題はちゃんとやってたろ?」と顔を覗き込みながら「お願い」のウィンクをされて、ついつい絆されてしまった。
これが惚れた弱みというものだろうか。いくら何でも弱すぎないだろうか、と自分で自分に呆れてしまう。
だが、僕の出した課題にはそれなりに真面目に取り組んでいたのは本当のようだし……あとで王太子殿下に見てもらっていたことが分かったので、大人げなく少々意地悪を言ってしまった……訪ねてきた時に不在にしていた僕の落ち度もある。
ここは僕が勉強を見てやるのが双方のためだろう。
もちろん、彼女と二人きりになれるチャンスだという下心がなかったと言えば嘘になる。
勉強会と言うと最近はダグラスとロベルトが必ずと言って良いほど割り込んでくるからだ。
二人だけで過ごせる時間は、僕が喉から手が出るほど欲していたものだ。
だが……魔女探しの件まで手伝わせるつもりはなかった。
今にして思えば、彼女が勉強よりもそちらに興味を示すだろうことは容易に想像ができたはずなのだが……年頃の男女が二人きりで夜の校舎を徘徊するという出来事があまりに埒外の行為であったため、そんなことをしようとする人間がいるなどと考えもしなかったのだ。
予想外の事態にあたふたしている間にさっさと支度を済ませた彼女を追いかけて廊下に歩き出したものの、今自分がしているのがとんでもなくふしだらな行為であるように感じられて、どうにも気が落ち着かない。
先ほど先生から言われた「不純異性交遊」という言葉がぐるぐると頭の中を回る。
もちろん僕は彼女に不埒な行為をしようなどというつもりはない。
ないが、不純な下心を持ったことが一度もないかと聞かれれば、それはないとは言い切れなかった。
言っては何だが、バートンにも問題はある。友人に接する距離感が近すぎるのだ。
どぎまぎするなと言う方が無理な相談だろう。こちらの気も知らないで呑気なものだ。
鼓動が早くなるやら冷や汗が出るやらで気が散って仕方がない。耐えきれずに、すたすたと先を歩いていくバートンを呼び止めた。
「バートン」
「何だよ」
「こんな時間に、男女が二人きりというのは……やはり、その……不純異性交遊に当たるのでは」
「騎士団の夜警と一緒だよ」
「そう、か?」
彼女に至極当然のように言われて納得しかけた。
しかけたが、すんでのところで騎士団の夜警とは前提条件が違うことに気づいた。
「いや、しかしそもそも騎士団は男しか」
「シッ」
突如身を翻した彼女が僕の唇に人差し指を押し当てる。
唇に直接触れた「肌」の感触に、カッと顔が熱くなった。
何をするんだと文句を言いたいのに、彼女の指に触れている口を動かすわけにもいかず、それどころか口から息をすることすら出来ず、押し黙ることしかできない。
沈黙が満ちると、聴覚が研ぎ澄まされていく。
彼女が息を殺しているのも相まって、僕の心臓の音が彼女に聞こえてしまうのではないかと不安になった。
その場で静かに立っていた彼女が、突如音もなく、しかし素早く動いた。
カンテラに覆いを掛けて、僕の腕を引く。
そして教卓の下に身体を滑り込ませると、あっという間に僕もそこへ引っ張り込んだ。
瞬きをする間の出来事で、抵抗できるような隙はなかった。僕が抵抗したところで彼女を止められたとは思えないが。
瞼を開けた次の瞬間、僕の目の前にあったのは、彼女の瞳だった。
脳の処理が追いつかない。状況をよく理解できない。
それでも、わかる。
これは、近すぎる。
「お、まえ、何を、」
「静かに」
何とか抗議しようと震える声を絞り出すと、また彼女が僕の口を指先で塞ぐ。
黙っていると、ただでさえ行き場のない視線が彼女に向いてしまう。
うっすらと教室に差し込む月明かりで、目を凝らさないとよく見えないのに……つい彼女の顔を凝視してしまっていた。
ひどく真剣な顔をしている。
綺麗だ、と呑気なことを思った。
彼女は女性にしては背が高い。2人で入るには教卓の下は狭すぎる。
最終的に僕が座り込んでいるところに、彼女が覆いかぶさるような態勢になってしまっていた。
彼女の静かな吐息がすぐ近くで聞こえる。
甘い香りが鼻腔をくすぐる。彼女の、香水の匂いだ。
制服越しでも、身体が密着していることが分かる。
僕の鼓動も体温も、気持ちも。すべてが伝わってしまいそうで、手のひらや額にじわりと汗が滲むのを感じる。
こんなに近くで、しかも夜の学園に、二人きり。
もう頭がどうにかなってしまいそうだった。全身の血が沸騰しそうだった。
わずかに残った理性で、彼女に必死で抗議する。
「バートン、ち、近い!」
「分かっているよ、だから動くなって。動くと君の足が妙なところに当たりそうだ」
「妙なところ!?」
悲鳴じみた声を上げてしまった。
考えてはいけないと分かっているのに、脳が勝手に人体における「妙なところ」について思考してしまう。
それは、おそらく、つまり、たとえば。
視界が真っ赤に染まる。
脳がぐらぐらと揺れる。
まずい。本当に、まずい。
今すぐ離れてもらわないと僕がどうなってしまうのか、自分でも想像できない。
「バート」
懇願しようと彼女に呼びかけたところ、掌で口を塞がれた。
そして彼女は僕の顔をじっと見つめながら、自分の人差し指を唇に当てる。
その、指は、先ほど、僕の口を塞いでいた指で。
だから、今、彼女と僕は、間接的に。
脳の神経がぷつんと焼き切れたような気がした。思考が、情緒がかき乱される。
深呼吸でもしたいところだが、彼女に口を覆われている。
彼女の掌に包まれている中で呼吸をするというのがひどく背徳的な行為に感じられて、結局僕はまた息を止めるしかなくなる。
脳に酸素が行き届かない。ただでさえ限界を超えているのに、どんどん思考が覚束なくなる。
うっすらと出会ってから今日までの彼女との日々が走馬灯のように浮かびあがってくる始末だ。
そんな中で脳裏にはっきりと過ぎったのは、「結婚」という二文字だった。
そうだ。こんなもの完全に不純異性交遊だ。ここは責任を取って、僕が彼女を幸せに……
息が出来なくて窒息死するのが先か、心臓が跳ね回りすぎて血圧が急上昇して倒れるのが先か、僕が何かしらの早まった行動をしてしまうのが先か。
どれが早いかの我慢比べになるかと思いきや、彼女が何の前触れもなく、僕の口を塞いでいた掌を退けた。
そしてそのまま、するりと教卓の下から出て行く。
やっとまともに息が吸えた。耳の奥で鳴り響く鼓動がうるさい。
「追うぞ」
彼女が僕に向かって声をかける。
だが、僕はその言葉にはすぐ反応できなかった。
まず魔女のことがすっかり頭から吹き飛んでいた。
そして彼女との濃密な身体的接触に当てられて、完全に足腰が立たなくなってしまっていた。
「おい、どうした。どこか痛めたか?」
「……僕のことはいいから、先に行っていてくれ」
教卓の下で膝を抱える。非常に情けない話だが、今は動けそうにない事情があった。
彼女が不思議そうな顔でこちらを覗き込んで、手を差し出す。
「よくないだろ。早く出てこい」
「僕は今素数を数えるのに忙しいんだ」
「肩貸そうか?」
「余計にまずい」
僕の言葉に首を傾げていた彼女が、はっと顔を上げた。
しばらく間があって、彼女が再び僕を呼んだ。
「アイザック」
彼女はこちらを覗き込んではいないので、表情は分からない。
だがその声に僅かに硬さがあるように思えて、僕は違和感を覚える。
彼女はすぐそこに立ったまま、僕に言う。
「しばらくそこに隠れてろ」
「何?」
「もし10分経っても私が戻らなかったら、逃げてくれ」
「……バートン?」
突然先ほどまでと逆のことを言い出した彼女に、今度は僕が首を傾げた。
「どうした、急に。魔女を追うんじゃないのか」
「さっきの足音とは別の気配がある。この気配が魔女かは分からないが……見つかったら、おそらく戦闘になる。その時、君がいたら守り切れるか分からない」
「……そんなに、強い相手なのか?」
「たぶん。少なくとも殺気が一般人のレベルじゃないのは確かだ」
彼女の緊張した調子の声に、思わずごくりと息を飲む。
彼女の強さは折り紙つきだ。剣術は現役騎士に引けを取らない腕前だと言うし、羆と引き分ける様も目の前で見た。
彼女自身も、いつでも「大丈夫大丈夫」と飄々としている印象が強い。
そんな彼女が「守り切れるか分からない」などと口にするのは、初めて見た。
それほどの相手なのだと思うと、僕にもその緊張が移ってくる。
だが、彼女の言葉に従って一人で逃げるなど、到底受け入れられない提案だった。
たとえ僕が、足手まといでしかないのだとしても……彼女を置き去りにして、ただ何も出来ずに逃げ出すなど、僕にはできない。
「お前ひとりを置いていけるわけがないだろう」
「君は置いて行けって言ったくせに」
「それとこれとは話が違う。危険があるなら行かせられない。お前を置いて逃げるなどもっての外だ」
「何言ってるんだ」
教卓の下をちらりとのぞいた彼女が呆れたような顔で、やれやれとため息をついた。
「もし本当に勝ち目がなかったら私も逃げるぞ」
「は?」
「私は私で逃げるから、君は君で逃げてくれ。さもないと、私が君を置いて逃げた薄情者になってしまうぞ」
彼女がどこか茶化すように、普段の調子で言う。
彼女の言葉に、どこかほっとする自分がいた。彼女が決して捨て身の特攻をするつもりではないらしいと分かったからだ。
僕よりも余程腕が立つ彼女のことだ。勝機もないのに挑むことの無謀さは理解しているだろう。
そして、自分がいざというときに逃げ切れるかも、計算しているはず。
こういったことは僕よりも、彼女の得意分野だ。それならば僕は……僕のような素人ではなく、彼女の判断を尊重すべきだろう。
知らぬ間に焦っていた気を落ち着ける。
感情に囚われて判断を誤ってはならない。何が合理的で、何が最適か。冷静に分析しなくては。
そうだ。僕がいても足手まといになるならば……僕は僕にできる最善を、するだけだ。
ずっとそうしてきた。
そしてきっとこれからも……僕はその選択をするだろう。
「……分かった」
教卓の下から顔を出す。
彼女の目をしっかりと見て、頷いた。
「もしお前が戻らなければ、人を呼んで助けに行く」
「まぁ、それでもいいけど」
彼女がぱちぱちと目を瞬く。
そして、にやりと悪戯っぽく口角を上げた。
「君が来た頃には私、もう逃げてるかもしれないぞ」
「それでもだ」
僕はまっすぐ、彼女を見つめる。
確かに僕に出来ることは多くないかもしれない。
僕が動いたところで、何も変わらないかもしれない。意味はないのかもしれない。
だが、何もしないで待っているなど、とてもではないができそうにない。
それならば、無理に彼女についていって、ただ守られる足手まといでいるよりも……少しでも彼女が有利な状況を作る助けになりたかった。
僅かな月明かりを反射して煌めく彼女の青色の瞳に対峙して、言った。
「僕を薄情者にしないでくれ」
「分かったよ」
彼女がふっと口元を緩める。
声音からも表情からも、先ほどまでの緊張感が和らいだ気がした。
僕が彼女のいつもの軽口で落ち着きを取り戻したように、彼女もそうであってくれたなら。
そう思った。
「じゃあ、行ってくる」
そう言い残して、彼女は姿を消した。
彼女に何かあったらと思うと居ても立っても居られないし、行かせたくない気持ちはある。
それでも僕は、彼女がそうすると決めたのなら……それを全力で支援することにリソースを割く。
僕の行動が何か一つでも、彼女のためになるならば。
常に隣にいられなくてもいい。時に一歩下がって支えることも、必要になるはずだ。
そう考えながら、僕も教室のドアを開けて、廊下へと踏み出した。





