29.体で払ってもらうとしよう。
ヒュ、と風を切る音がした。
目にもとまらぬ速さで得物を取り出した彼は、武骨なナイフを片手に構えている。
スチルでも見たことがある。第一師団の役割は、騎士というより暗殺部隊が近い。取り扱う武器も剣ではなく……暗器の類だった。
一方こちらは丸腰……ではない。見回りということだったので、一応武器を持ってきている。
私もさすがに学習するのだ。
仮面舞踏会のときも、ダンジョンのときも、もっと遡れば羆のときも……何故この大事な時に武器を持ってきていないのだと思うことが多々あった。
せっかく剣術を極めたのにこれでは宝の持ち腐れだ。
武器といっても生徒会室に飾ってあった剣なので、真剣ではないが……一応触った感じは金属製だったし、ないよりはいいだろう。
リーチもあるし、相手の武器を受け止めるくらいには使えるはずだ。
腰に刷いた剣の柄を握りながら、先生と対峙する。
「私が誰にも言わないと約束しても?」
「口約束ってわけには、ねぇ?」
「口止め料でもくださると?」
私の言葉に、先生が小さく笑う。口止め料を払ってくれるつもりはないらしい。
それでは、体で払ってもらうとしよう。
最近羆との相撲にもマンネリを感じていたところだった。もう少し歯ごたえのある相手と戦りたいと思っていたのだ。
乙女ゲーム内で最強と謳われた、第一師団。その実力がいかほどの物か、試してみるのも一興だ。
第一師団の推薦状。
それが果たして、今の私の実力で、得られるものかどうか――いつか挑戦してみたいと思っていたのだ。
どうせ戦うことになるのならば、存分に楽しませてもらうとしよう。
というか私に口止めをしたところで、彼が一番内緒にしたい相手であるはずのこの世界の主人公はすでに彼の正体を知っている。
何とも無駄な努力だ。徒労というのはこういうことを言うのだろう。
「おじさんもあの頃とは違うけどさぁ……あの可愛かった子が、こんな顔するなんて。人間って変わるもんだよね。すっかりこっち側の目だ」
先生がくつくつと喉の奥で笑う。
そういう彼の目には、光がない。その代わりに奥深くまで、どんよりと淀んだ闇が広がっている。
私が今まで対峙したことのある人間の中でも……実戦経験はかなり多いことが窺える。
やさしい世界の「やさしくない部分」を背負わされてきた彼から漂う一際強い死の匂いが、それを物語っていた。
「他人を傷つけることをどうとも思っていない代わりに……自分が他人に傷つけられることもどうでもいいって目だ」
「心外ですね。確かに他人はどうなっても構いませんが……私は我が身が一番大切ですよ」
にこりと先生に向かって、微笑みかけた。
確かにほかの攻略対象たちと比べて10年ほど余分に生きているだけあって、設定の重さは随一だ。
その一端を昔の私が担っていることに関しては、気の毒に思う。まったく覚えていないので申し訳ないとまでは思わないが。
しかしそれは、私が手加減をしてやる理由にはならない。
私が負けてやる理由にはならない。
私が殺されてやる理由にはならない。
だいたい過去が重い相手には勝利を譲ってやらなければならないというルールがあるならば……私はここには立っていないのだ。
こうして武器を構えて対峙してみて、分かる。
この男は、強い。手加減をしていられないくらいには、強い。
だが――勝てない勝負ではない。
だから私は、逃げずに戦うことを選択する。
我が身可愛さに、そして、自分の実力を試すために、面白半分で。
そういうたいして重たくない理由で、私は剣を抜く。
私のせいだというのなら、私が引導を渡してやるのもいいだろう。
渡せなければその時は、尻尾をまいてさっさと逃げればいいだけだ。
「ですから」
剣を振り抜く。
見渡す限りの廊下のガラスが、剣圧で一斉に割れた。
へらへらしていた目の前の男の口元が、わずかに引き攣る。
「貴方が私を殺すつもりなら、私も本気でお相手しましょう」





