25.※羆と引き分けたことがあります
その殺気は、まるで突然現れたかのようだった。
足音の向かった方向とは違う。渡り廊下を渡った反対側の校舎だ。
それだけ離れていてもなお感じ取れるほどの殺気。
だが、先ほど気がつくまでは全くと言っていいほど、何も感じなかった。
魔法に類するものはほとんどない世界だ。
ワープで突然現れるなどという芸当が不可能である以上……殺気の主は、私がそれを感じ取る前も後も、この学園の中にいたはずである。
ということは……これほどの殺気を、私に気取られないレベルにまで消せる人間が、そこにいるということだ。
「アイザック」
教卓の下で縮こまっているアイザックに、呼びかける。
視線は教室の廊下の向こうに固定したままだ。
もちろんまだ目視では確認できないが……目を逸らしたら何が起こるか分からない。
漂う殺気は、私にそう思わせるには十分なものだった。
「しばらくそこに隠れてろ」
「何?」
「もし10分経っても私が戻らなかったら、逃げてくれ」
「……バートン?」
突然先ほどまでと逆のことを言い出した私に、アイザックが怪訝そうな声を出す。
「どうした、急に。魔女を追うんじゃないのか」
「さっきの足音とは別の気配がある。この気配が魔女かは分からないが……見つかったら、おそらく戦闘になる」
私の言葉に、アイザックが黙った。
彼にも緊迫した空気が伝わったようだ。
「その時、君がいたら守り切れるか分からない」
「……そんなに、強い相手なのか?」
「たぶん。少なくとも殺気が一般人のレベルじゃないのは確かだ」
ごくりと息を飲む音が聞こえてきた。
私が集中しているから聞こえただけで、普段だったら聞こえたかどうか分からない程度のものだが。
「お前ひとりを置いていけるわけがないだろう」
「君は置いて行けって言ったくせに」
「それとこれとは話が違う」
息を飲むくらいにはことの重大さが伝わったはずだが、アイザックはさらに言葉を重ねて私を引き止める。
「危険があるなら行かせられない。お前を置いて逃げるなどもっての外だ」
「何言ってるんだ」
アイザックの言葉に、私は呆れてしまう。
やれやれ、彼は私のことを自分の身を犠牲にして友達を守るようなやつだと思っているらしい。
リリアもそうだが、他人を勝手に善人に仕立て上げるのはやめてほしいものだ。
「もし本当に勝ち目がなかったら私も逃げるぞ」
「は?」
当たり前だろう。
私はこの世で一番我が身が可愛い。我が身可愛さには定評のある人間だ。
もし勝てないとなったら、己の身に危険が迫っているとしたら、それはもう何をおいても全速力で逃げ出すだろう。
どんな相手であっても……この殺気の主が相手であっても。
本気で逃げを打てば何とかなるだろうという見込みがなければ、わざわざ覗きに行こうなどと言わずに彼を担いで窓から飛んで逃げている。
勝算があるとは言わないが、負けた時の尻拭いくらいは自分でできる自信があるからこそ言っているのだ。
「私は私で逃げるから、君は君で逃げてくれ。さもないと、私が君を置いて逃げた薄情者になってしまうぞ」
「……分かった」
アイザックが、教卓の下から顔を出す。
私の目を見て、頷いた。
「もしお前が戻らなければ、人を呼んで助けに行く」
「まぁ、それでもいいけど」
ここに来て面倒見のよさを発揮する彼に、私は苦笑いしてしまう。
つい先ほど足音だけで腰を抜かしたやつの台詞とは思えない、頼り甲斐のある言葉だ。
「君が来た頃には私、もう逃げてるかもしれないぞ」
「それでもだ」
アイザックはまっすぐ、真面目くさった顔で私を見つめている。
眉間に皺が寄っている、難しげな表情で……赤褐色の瞳が、眼鏡の奥で不安げに揺れていた。
私としては、何故こうも心配されるのか、よく分からなかった。
リリアも殿下も、クリストファーもそうだった。お兄様は昔からだが……他の知り合いにはそろそろ、私を心配することが無意味であると理解してもらいたいところだ。
妙な二つ名は勘弁してほしいが、周囲に不要な気を遣わせないためにももう少し強さを喧伝して回った方がいいのかもしれない。
「※羆と引き分けたことがあります」みたいなテロップを常に画角の隅っこに出しておいてもらえないだろうか。
「僕を薄情者にしないでくれ」
「分かったよ」
私の言葉を借りて言う彼に、ふっと口元が緩む。
ちょうどよく肩の力が抜けた。
まぁ、なるようにしかならないか。
「じゃあ、行ってくる」
そう言い残して、私は夜の校舎に気配を溶け込ませた。





