30.そういえば今日馬がいるんだけど
鐙を蹴って、馬の背を跨ぐ。腹を軽く蹴ってやると、青毛の馬は機嫌よく歩き出した。
「エリザベス様、次からは最低でも前日におっしゃってください」
「悪かったよ」
すっかり目が据わった侍女長のお小言に、苦笑いするしかなかった。
先日の御前試合で見事勝利したので、私はグリード教官に頼みごとを聞いてもらう約束になっていた。
私の頼みごとというのは、「騎士団の警邏に同行させて欲しい」というものだった。
訓練場での経験で、私はまた強くなったと思う。
候補生に教えることで私自身も学ぶことが多くあったし、他の教官たちとの手合わせは、いざ目の前の相手を倒さなくてはならないときの行動の選択肢を広げることができた。
多対一で戦う練習も積んできたし、もちろん鍛錬も怠っていない。最近はやっと身体が出来てきて、腹筋も腹斜筋も仕上がってきた。
だが、圧倒的に不足しているものがある。実際の不測の事態に対し、対応する経験だ。
ナンパ男からチンピラ、果ては暗殺者まで、主人公を襲う悪漢は多種多様である。
それらは事前に果たし状を送ってくることなどもちろんなく、街中だったり学園だったり、いろいろなところで突然主人公に襲い掛かるのである。
それに対応するためには、訓練だけでは心もとない。本当の「実戦」が必要だった。
そこで私が目をつけたのは、王都の城下町を回る警邏の騎士だった。
我が国は非常に平和な国ではあるが、警邏をして街中を回っていれば、ちょっとした小競り合いくらいになら出くわす可能性が高い。
少なくとも、屋敷と訓練場の往復しかしていない日々よりは、不測の事態に巡り合う可能性が上がるはず。
そう考えて、騎士団に渡りのありそうな教官たちに頼んでみることにしたのである。
予想通り、教官たちは騎士団に顔が利いたので、私の同行をうまくねじ込んでくれたらしい。その警邏同行の初日が、今日だった。
警邏には馬が必要だ。残念ながら私は馬――というか動物全般――に嫌われる性質なので、訓練場や騎士団の馬ではなく、唯一私を乗せてくれる公爵家の馬を連れて行こうと考えていた。
牝馬なので、私は彼女を「お嬢さん」と呼んでいる。
事前にグリード教官から言われていたので、馬が必要なことは前から知っていた。
しかし、私は「まぁ当日言えばいいだろう」と思っていたので、今朝侍女長に「そういえば今日馬がいるんだけど」と言ったところ、それはもうむちゃくちゃ怒られた。
「何で昨日のうちにおっしゃらなかったんですか!?」とのことだ。聞けばいろいろと支度が必要らしい。
まるで朝ごはんのときに「お母さん今日図工でトイレットペーパーの芯いるー」と言いだした小学生のように、くどくどお説教を食らう羽目になった。
早めに言っておかなかったのは私の落ち度である。面目次第もない。
非難の視線から逃げるように、私は片手を上げて侍女長に背を向けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
見送りの言葉に、わずかに蹄の音のテンポが上がる。お嬢さんは私の気持ちを読んでくれているかのようだった。
初日に遅刻は避けたい。情けない理由での遅刻は、特にだ。手綱を握り、私とお嬢さんは集合場所である訓練場を目指して駆けだした。





