1.そんな箱に、そんなパンダに、価値はない
私がただのエリザベス・バートンだったころの記憶まで遡ってみても、覚えている限りお兄様と喧嘩になったことはなかった。
年も離れているし、私はともかくお兄様は争いごとを好まない穏やかな性格をしている。
基本的には、仲の良い兄妹だった。
仮にお兄様が怒ったとしたら、たいていの場合は私が悪い。それはもう10割10分私が悪い。
だからお兄様に怒られたら私は謝るしかないし、お兄様もそれを分かっているので喧嘩と言うより「叱る」「叱られる」の関係にしかならなかった。
だが今回は違う。
勝手に怒る私も悪いだろうが、お兄様にも悪いところがある。
そもそも、何故お兄様がわざわざ断りを入れに足を運ぶ必要があるのか。そこからして私は納得がいかない。
もし先方がそれを要求しているとすれば、そんなもの断りに来たお兄様を返さないつもりに決まっている。
それくらいお兄様だって分かっているはずなのに、わざわざ赴くというところが輪をかけて気に入らない。
極論自己犠牲だとして、そんなものは美しくも尊くもない。
自身を犠牲にするということはその実、自身を大切に思っている他者を犠牲にしているのと同じだ。
蔑ろにしているのと同じだ。
私はお兄様のことが大切だ。しかしそれは、自分自身の次に、だ。
私は私に危害が及ぶなら……私にとって許しがたいことを行うとすれば、たとえお兄様のすることとて、断固拒否する。
だいたい、いつもいつも私やクリストファーのことを心配するくせに、自分は心配すらさせてくれないというのは不公平である。
誰にでも分け隔てなく、平等に接する次期人望の公爵様らしからぬ振る舞いだ。
接する相手の求めに応じて、欲しい言葉をくれる人望の公爵様らしからぬ言動だ。
私は怒っていた。お兄様と違って、私は元来気が短いのだ。
その怒りの矛先はもちろんお兄様自身であったが、それを止めない我が父でもあったし、問題を解決できない王家でもあった。
普通問題が起きたら責任を取るのは上司の仕事だ。謝りに行くのだって上司の仕事だ。
部下本人にわざわざ行かせるなんてろくな会社ではない。
王族同士で解決出来ていない時点で無能のレッテルを貼られても文句の言えない状況である。
何のために綺麗なおべべを着せて豪華な椅子に座らせてやっていると思っているのだ。仕事をしろ。
お兄様もお父様も何故そう言わない。
間違っていることは間違っていると教えてやるのが忠義ではないのか。
もし責任を取ろうとせずのうのうと豪華な椅子にふんぞり返っているだけならば……そんな王族、必要か?
他の家族は知らないが、私には特段の愛国心も忠誠心もない。
国なんてただの箱だ。王族なんてただの飾りだ。
愛着があるとすればそれは私の家族や私が生まれ育った場所に対してであって、国に対するものではない。
私はたまたま都合が良いからそこにいるだけだ。
もしお兄様すら守れないなら、そんな箱に、そんなパンダに、価値はない。
少なくとも私にとって、必要がない。
「エリザベス様」
侍女長の声に、はっと我に返る。
目の前の彼女は、どこか心配そうな顔で私を見上げていた。
「ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「どうか、早まったことはなさいませぬように」
縋るように言う彼女に、私は首を捻る。
早まる? 何が?
もし私に言っているとしたら、見込み違いだ。
私は怒っているが……冷静だ。そうでなければ今頃、とっくにお兄様を拉致監禁している。
まだ今、行動を起こさずにここに立っている時点で、早まっていない。ゆったり構えていると言っていいくらいだ。
冷静に次にすべきことを脳内で組み立てながら、私はジャケットを手に取った。





