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断言してもいいが、俺は今まで、こんな息苦しい夕食の席についたことはない。
周一郎と一緒に食堂に入って行くと、そこには既に4人の人間が座っていた。正面の、窓を背にした席は空いている。おそらく、そこが当主である大悟の席だったのだろう。
右側奥に黒いロングドレスのようなものを身につけた女性がいて、セミロングの髪を淡い茶色に染め、巻き上げるようにまとめている。三十は越していないだろう。俺を見て控えめな動作で会釈をしたのが、若い割りにはひどく色っぽい。
大悟の後妻、若子夫人、と周一郎が紹介して、人妻の色気というやつなんだな、と納得した。
その手前にいる、同じような黒づくめのスラックスとジャケット、首に紫と金のスカーフを巻いた五十ぐらいの男が、俺を見てやれやれと言いたげな呆れた顔になった。
叔父の桜井茂、若子夫人の義理の兄だと言う。
「お名前は何と言われましたかな。えーと? 失礼、人の名前は覚えにくいものですな、そう思われませんか? 仕事で多くの方にお会いするせいでしょうかな」
親しげに笑いながら、薄黄色に濁った据わった目で、こちらを値踏みするように見続けた。
若子夫人の前に座っていたのが、白いレースとリボンに埋もれたワンピースを着た二十歳前後の娘。
朝倉大悟の唯一の実子、美華だ。
「周一郎の姉の美華です。滝志郎さんってお名前なんですね。周一郎をよろしくお願いしますね」
語尾の『ね』がねえん、と鼻にかかった声で響いて、背中がむずがゆくなった。うふふ、と笑った顔は、へたに笑い返すと困ったことになりそうな媚で一杯だ。
その手前の、派手な青のストライプのシャツにオレンジのセーターを着た軽薄そうな男が信雄と言って、桜井の息子だと言う。
「あんたが『遊び相手』ね。まあ、頑張ってよ、難しい奴だけど」
ふふん、と笑った後、そっぽを向いて「ナニして遊ぶのかわかんないけどね」と小さく呟いた。
周一郎が改めて俺を紹介してくれたが、もうそれ以上話す気は相手方にはなかったらしく、会釈一つないまま食事が始まり、俺は使い慣れないフォークとナイフと格闘しつつ、最後まで無言で夕食を終えたのだ。
「この先ずっとああなのかなあ」
夕食を終えてそのまま部屋に戻るのも手持ち無沙汰、かと言って、屋敷内をうろうろしていると誰かに出くわして気まずい雰囲気になりそうで、俺は庭に出た。
冷えた外気があっという間に体温を奪う。
こんな冷え冷えとした夜に、あの連中が外をうろつくとも思えない、と少し気が緩む。
屋敷の周囲を取り囲んでいる木々は、針葉樹と広葉樹が半分ずつ、針葉樹が多いところは森のように見える。その間を細い道がうねりながら続いているのを見て、どこに繋がっているのだと尋ねると、高野は湖に続くのだとあっさり応えた。
「湖っ?」
「はい」
「こ、国立公園みたいですね」
冗談のつもりだったが、
「まさか」
高野は至極真面目な顔で、
「それほど大きくありません。ただ、向こう側まで回られるのなら、お昼間の方がよろしいかと。あちら側はあまり人が歩かないもので、手入れが行き届いておりません。夜ではお足下がわかりにくく、いささか危ないかと思います」
「はあ、足下がわかりにくくて危ないんですか」
一般家庭で、足下がわかりにくくて危ない庭、ましてや『湖』がある敷地なぞないだろう。ひょっとしたら、森に狼とかクマが放し飼いになってたりしないだろうな。
ひきつった俺の顔に、道を外れなければ大丈夫ですよ、戸締まりは10時ですからね、と念を押され、御丁寧に万が一のために、と懐中電灯まで渡されて、俺は細い道を歩き出した。
頭の中でさっきの4人の顔が次々に入れ替わる。
妙な色っぽさのある若子夫人。
何がうれしいのか、時々こちらを眺めてはへらへらと笑っていた信雄。
その父親の茂はなぜか始終落ち着かない視線を俺と周一郎に送っていた。
美華は確かに美人なんだろうが、濃い化粧とごてごてしたドレスのせいで出来の悪いアンティークドールのようだ。周一郎への対応も、姉弟にしては妙にべたべた妖しげだ。
その4人と向き合って食事をしていると、自分が動物園か何かの見せ物になっているような気がしてきた。
立派で高価で、たぶんすごく手が込んでる料理だったのだろうと思う。見たこともない食材が現れ、どうして食べるのかわからないものもあったし、見た目のきれいさだけではなくて、どれもおいしかった、はずだ。
なのに、何だか食べれば食べるほど胸がぎっちりと塞がれていくようだった。
周一郎はというと、これまたさっきまで喚いていたのが嘘のように澄ましていて、「滝さんは文学部なんですよ」とか、「大学なんて知らないから、いろんな話が聞けると楽しみにしてるんです」とか、「ぼくもまたいろいろ勉強になります」とか、ろくに応えもしない家族に向かって、白々しいことばを繰り返す。
食堂に響いているのはその周一郎の声と、俺が時々肉や何かを切り損ねてたてる、ぎぃ、とかきぃ、とかいう雑音だけ。
重い。
息が詰まりそうだ。
「よく平気だな、あいつ」
返事のない会話を平然と続けていられる周一郎の精神力に感心する。
「……パンでも買ってきて、部屋で食べようかな」
そんなことを高野が許すとはとても思えないが。第一、しばらくは一文なしなんだから、たとえ圧迫感に潰れようとあそこで飯を食うしかないのだ。
俺は深々と溜め息をついた。
とりあえず湖まで行ってみよう。で、この屋敷が俺の生きている世界とは全くベツモノなんだと頭に叩き込んでから部屋に戻れば、この落ち着かない気持ちも紛れるだろう。
凍え出した足を速めたとたん、すぐ側で人の話し声が聞こえてぎくりとした。
「誰も来ないよ、みんな部屋に居る」
低い、あたりをはばかるような男の声。
「そうだといいけど。あの気味悪い猫もいないわね?」
応じた声にも聞き覚えがあった。
「ああいない。しかし、どういうつもりなのかな、周一郎は」
俺は立ち止まった。そろそろと身を隠しながら、話し声のする方に近づく。
道から離れた木立の中で、絡みつくようにお互いにしがみついた、若子夫人と桜井茂の姿があった。
「わかんないわ、あの子が何を考えてるのか。でも、早く何とかしなくちゃね、大悟の捜査が止まっているうちに。遺産相続の権利は美華が一番、その後が私と周一郎よ。遺言によってはあなたや信雄の取り分なんて、ないかもしれないわ」
「せっかくここまで入り込めたのに、それはないよ」
茂が粘りつくようないやらしい含み笑いをした。
「大悟が死んで、絶対お前が一番の相続者だと思ったんだがね」
嘘っぽくて優しげな、猫撫で声が続く。
「美華はどうしようもない娘だと思ってはいても、前の奥さんへの義理立てかもしれないわね。いまいましいったら」
若子が悔しそうに呟いた。
「おや、あの男に好かれたかったのか」
「もういいの。いない人ですもの」
若子は吐き捨てた。
「美華はどうとでもなるわ、あの子の頭の中は、自分が楽しめるお金があるかどうかしかないから。問題は」
「周一郎、だな。わかってる、何とかしなくちゃならない。計画は進んでいるよ」
茂が含み笑いを繰り返して応える。
「ああ…うれしい」
そのまま二人が激しく抱き合い始めて、俺は慌ててその場を離れた。
おいおい。
何だか妙なことになってきたぞ。
若子って言うのは大悟の妻で、仮にも周一郎の義理の母親じゃなかったのか?
それを言うなら、そもそも茂って言うのは、若子にとっては義兄にあたるんじゃないのか?
お由宇じゃないが、これじゃどう見ても、危ない状況に追い込まれて狙われているのは周一郎で、犯人だなんて考えようがないってことになる。




