『 商都サーキット 』(天文十六年、夏)
さて今回のサブタイトルはもう一案ありまして、『ショート・ギャンビット』がそれでした。
本当は前後編くらいで終わらす予定でした堺滞在記、もう少し続きます。
誤字を訂正し一部を修正加筆致しました(2020.10.28)。
誤字の御指摘・御報告に感謝を(平身低頭)。
“喧嘩上等だ、この野郎!”とばかりに鼻息荒くして乗り込んだ顕本寺。三淵ら選抜した供回り十名に前後を挟まれ門前に赴けば、会合衆と思しき十名余りが腰を低くして出迎えてくれた。
おや、予想していた対応と違うなぁ?
傲岸不遜、或いは慇懃無礼な雰囲気を醸し出しているかと思っていたのだけど。
そんな違和感は、会合衆と思しき面々の背後で武野一閑斎師が穏やかに微笑まれている御様子で更に強まる。武野一閑斎師の横に立つ人物を見れば猶更だ。どうして種子島加賀守恵時ではなく、越智伊予守家増がいるのだろう?
いるのが当然の種子島の御隠居がおらず、いないだろうと思っていた越智伊予守がここにいる。その不思議さが気にかかるけれど、まぁ後で問い質すとしよう。
先ずは強敵、会合衆ってハードルをクリアしてからだよな。
やけに殊勝な佇まいをみせてはいるが何れも海千山千の大商人共、猫の皮を被るなど訳ない筈。どうせ隙を見せれば餓狼の如く襲いかかり、一本残らず尻の毛を毟り取りやがるに相違なしだよな、未だツルッツルで一本も生えちゃいないけどね。
取り敢えず威厳たっぷりのボーイソプラノで、出迎え大儀、といいつつ山門を潜ればそこには案の定、次なる難関が用意されていやがるじゃねぇか。
片膝ついてずらりと頭を下げている数十名の者共。恐らくは、新興商人達で結成された“惣中”とかいう連中と、荒事を得意分野とする血気盛んな若衆達だろう。助五郎のポジションは……若衆達の上位集団か。へぇ、中々頑張っているなぁ。
それはそれとして……ハードルが高いなら潜れば良いだけだが、地雷原並みに多いのは難儀だよなぁ。
皆でゾロゾロと本堂に移動しても、転校初日のクラス朝礼みたいなぎこちない雰囲気は一向に改善されねぇでやんの。どう振舞うのが正解か双方共に判らず手探り状態続行中。所謂“暗中模索”、英訳すれば“Aren't you MOSAKU?”ってヤツ。
将軍家御所へ出入り自由の身でありながら会合衆に影響力を持つ武野一閑斎師がいなければどうなっていたことかと、丸一日経った今思い出しても冷や冷やである。
開宴即閉宴でもおかしくなかった宴席が滞りなく開かれたのは、堺側の出席者に武野一閑斎師の弟子が大勢いたからだった。
俺の直ぐ傍、藁で編んだ円座の用意されていない所に腰を下ろされた武野一閑斎師は至極当たり前のように宴の司会進行役を務められる。上座を占める俺達を丁寧に紹介為されてから口調を変え、会合衆らの名をひとりひとり声高に発せられた。
「天王寺屋、紅屋、御前へ罷りませ。……天王寺屋は会合衆北五軒を、紅屋は会合衆南五軒をそれぞれ代表致し、当年の年番執政役を務めておりまする。
大樹公におかれましては何卒宜しく、お見知りおきを賜りたく存じ奉りまする」
下座に列する者達の内、最高級品と思しき衣装を着込んだ最前列グループの中から二人の男が静々と進み出て、深々と頭を下げた。
「御前を汚し誠に相済みませぬ。お初に御意を得まする、天王寺屋を営みし新五郎宗達にございまする。大樹公に於かれましては多年に亘り一方ならぬ御親交の栄を賜りましたる段、愚息の助五郎共々厚く御礼を申し上げまする」
「お初に御意を得ましたること誠に光栄の極みに存じまする。紅屋を差配致しておりまする吉右衛門宗陽にございまする。大樹公に於かれましては益々の御壮健と弥栄あらんことを祈念させて戴きまする」
平伏する二人の遥か後ろで助五郎も頭を下げていやがる。うむ、この距離では藁しべほどの当てにも出来そうもないな。今日のところは武野一閑斎師だけを縋る寄る辺としよう。
その後、油屋常言、能登屋宗慶、小島屋宗理、和泉屋宗栄、茜屋宗休、以木屋宗観、薩摩屋宗忻が次々と挨拶し、次期三宅屋当主となるティーンエイジャーの三郎太郎が後見役である宗専を伴って平伏し、一連の顔合わせの式典は恙なく終了した。
惣中以下の全員を紹介するまでに至らないのは当然で、今回のこの場は現将軍と会合衆の手打ち、和解の場であるからだ。いくら堺の運営に関わっていようともこの宴席においてはその他大勢のモブでしかない。
武野一閑斎師も武具商人の皮屋主人という立場であれば、惣中の一員でしかないのだが今回に限っては将軍家茶堂役として側近衆的立場にあるので、誰憚ることなく上座におられるのであった。
俺だけが二畳台で他は全員が円座という居心地の悪さに慣れる間もなく膳が運ばれてくる。酒が振舞われるには時間が早いのか全員が高坏に載せられた御茶で、膳の上には茶菓子代わりに柿の葉寿司が二つばかり。
その趣向についつい下座を見やれば、助五郎が柄にもなく神妙な面持ちで軽く頭を下げやがった。ふむ、どうやら本日の宴席を主として取り仕切っているのは天王寺屋であるらしい。
だとすれば、食事に関しては安心出来そうだ。毒殺の心配は鼻からしちゃいないけれど、贅を凝らしていても味気ない物を食わされちゃ堪らないからな。飯が不味い宴会ほど最悪なものはないのだから。
御毒見を、とばかりに横から手を伸ばそうとした細川与一郎を視線で制し、なみなみと抹茶の入った茶碗を両手で持ち上げグビリと一口。
すると下座の方から一様にホーッと吐き出される吐息の音が届いた。ひとりひとりの吐息は小さくとも数十人が一斉に吐き出せば大した音になるし、嫌でも聞こえてくる。
……随分と気を遣われたものだな。
一挙手一投足全てが隙なく見張られているようで、こちらの方が余計に気を遣ってしまうじゃねぇかよ、全く。折角、武野一閑斎師が間を取り持ってくれようとしているのに、こんな塩梅で本当に大丈夫かな、打ち解け合えるのかな、俺の方がドキドキしてきたぜ。
そんな心配が杞憂であったと判ったのは、小休止を挟みながら『高砂』『弓八幡』『弱法師』と演目三つを立て続けに上演された直後のことであった。
「大樹公に御照覧賜り誠に恐悦至極に存じ上げ奉りまする!」
堂外に設えられた能舞台から堂内下座へと移動した演者ら十数名が、汗を拭いつつ一斉に平伏する。中心にいるのは、観世十郎を名乗る線の細い青年と、がっしりとした体格の宝生流五世重勝。はてさて二人共、面影に何となく覚えがあるなぁ。
「観世十郎は何れ、某共が庇護する一門を背負って立つ才ある者にて候」
紹介役を買って出てくれたのは間近にいた越智伊予守であった。聞けば観世十郎は観世七世宗節師の兄の子で越智観世流再興の願いを託された者で、もう一人の宝生流五世重勝は宗節師の直ぐ下の弟なのだとか。
宗節師の近親者だったのか、って道理で覚えがある筈だよ、観世を名乗っているのだから当たり前だ。気づかぬ方が可笑しいわ。宝生流の者には前に大和国で会ったよな。確か今は関東の北条家の世話になっているとか、何とか?
ここで軽く歴史の講釈をたれれば元々は、越智観世流も宝生流も将軍家がパトロンであった。しかしパトロンとして期待出来る相手ではなくなったので現在に至る、と。俺が謝る必要性はないと思うのだけど現将軍として……誠に遺憾に存じます。
声に出さず遺憾の意を表している間も、越智伊予守の口からは観世十郎を賞賛する言葉が次から次に溢れ出す。その姿は爺による孫自慢というよりは、猫バカによる愛猫自慢っぽいのが笑うに笑えぬが。
中空に賞賛が充填される毎に観世十郎の背が丸くなっていくのは気の所為かな。いや、過分な言葉が重みとなって肉の薄い背に圧し掛かっていくからだろう。期待の新人は辛いよね、ホントにね。
「……若党ながら斯様に才長けた優れたる者にてござりまするが、悲しむべきことに些か足りぬものがござりましてな」
漸く口を閉ざした越智伊予守が鷹揚に顎をしゃくると、現パトロンが与えた過大なプレッシャーに潰される寸前だった観世十郎が意を決したように面を上げた。
「大樹公に御願いの儀これあり! 何卒某にも“東山流”を伝授賜りたく、伏して御願い上げ奉りまする!」
……“ひがしやまりゅー”って、何だっけ?
聞いたことがある響きなのだがなぁ……東山流、東山流、東山流……。
口を噤み、天を仰ぎ、視線を左右に泳がせていると、俺の仕草に何か感ずるものでもあったのか、観世十郎は切々と訴えかけ続けやがる。曰く、観世宗家にのみ伝授為された今様を是非とも越智観世にも伝授賜りたく、と。
越智伊予守も横から、越智観世興隆に御助力をと両手をつきやがった。
すると天王寺屋親子を除く会合衆達と惣中に若衆共も、我らにも何卒と一斉に頭を下げて陳情を始め出しやがったよ。
彼らの言葉をざっくりと纏めれば、次の通りになる。
久我晴通叔父さんを本所とする当道座に進呈した『いろは教訓』は堺でも大流行しているのだそうな。堺だけではなく摂津・河内・和泉の三ヵ国でも当道座に属する琵琶法師が遊行し、人気を博しているのだと。
へぇ……そいつは知らなかった。
他にも、近衛家によりブランド化された笹の葉茶の“星合の雫”、牛乳を投入することで滋養強壮ドリンクとなった抹茶オレ、折紙ではない“折り紙”に“紙飛行騎”、“拿雲”に“雅雲”、“香苓”、そして適当に歌い捲った“今様”。
以上の、何でもありの何だか判らぬ流派が“東山流”とかで、その宗主が俺なのだそうな。
へぇ……そいつも知らなかった、って……いやいやいやいやおいおいおいおい、どこの誰だよ“東山流”なんて勝手に名付けたのは!?
俺に断りもなく勝手なことするんじゃねぇーって……あれ、そういえば、確か、伊勢伊勢守が然様なことを“折り紙”教室の時に……然様なことをいっていたような気がするが……どうだったっけ?
与一郎なら覚えているだろうと傍らを見やれば、絶妙のタイミングで視線を逸らしやがった。徐に目を閉じて表情を消せば、その静かなる佇まいはまるで苔むした路傍の石仏の如し……って胡麻化されるかよ。
犯人は、お前かッ!!
ふと視界の片隅に違和感を覚え下座の一角へと顔を向けると、助五郎が手拭いで汗をふきつつあらぬ方へと目を泳がせていた……って、共犯者はお前だったか、この野郎めが!!
全く何て奴らだ、こいつは放課後体育館案件だな。覚えていろよ!
「不躾な願いに就き御不興なるは御尤もなれど……何卒何卒御恩情を賜りたく!」
悲鳴じみた観世十郎の嘆願が俺の背骨をグラグラと激しく揺さぶった。どうやら余程難しい顔をして黙りこくっていたらしい。下座だけではなく上座の者達まで全員が俺を見つめていやがるじゃねぇか。
衆目を一身に集めるのは随分と慣れたが、ギラギラした目で見るのは止めてくれないかな堺の衆よ、観世の者共よ。おっさんやにーちゃん連中の暑苦しい眼差しを受けて喜ぶ趣味はねぇ。身の危険、特に尻の危険を感じてしまうわ!
それより何より、与一郎に助五郎。お前ら二人共、己の所業を棚上げしておいて、この状況をどうするのですかみたいな目をしてんじゃねーよ!
「大樹公」
ああ、はいはい、判りましたよ、何とかしますよ、すれば良いのでしょ、武野一閑斎師。しかしどうすりゃいいのでしょう?
弱ったなぁ……って、おいこら、一色七郎。今、俺の困り果てた様子に含み笑いしただろう。彦部又四郎、お前もだ。もう少し取り繕うとか口元を手で覆ってごまかすとかしろよ、全く。俺がお前らの立場だったら……指さしてせせら笑うに違いないけどよ。
気づけば田圃の蛙の合唱みたいな嘆願が止んでいた。誰しもが俺の発言を今か今かと待ち構えているようだ。ふーむ、長考する暇はなさそうな。ならば、期待に応えてやるとするか。
「……伝授するは吝かではない」
「然れば!」
「但し、その方が伝授するに値する器であればの話……であるが」
「如何にすれば宜しいのでしょうや?」
「ふむ、そうよな。一つ余の与える試しに挑むべし」
チンチクリンの小僧と侮られぬよう出来るだけ威厳たっぷりに立ち上がった俺は、とある有名な曲をフルコーラスで歌い上げてやった。
久々に歌ったのでホンの少し声が裏返ってしまったのは御愛嬌。それでも静まり返った堂内で歌うのは、カラオケボックスで独りカラオケするよりは実に気持ちのいいものだ。
「今まで誰にも聞かせたことなき今様なり。さて観世十郎よ、その方に三日の時を与えるが故に、この謡いに相応しき舞いをつけてみよ。
見事なればその方のみならず、皆に“東山流”とやらを伝授してやろうほどに。
然れば者共、三日後に再びこの場にて相見えようぞ!」
案ずるより産むが易し、ってことだったのかなぁ?
宿舎に帰り着いた俺は早々に寝てしまおうと思ったのだが、妙に頭が冴えてしまい仕方なく寝床を尻に敷いて胡坐を掻く。どうにも今日の会合の雰囲気が気になって仕方がねぇぞ。一体全体どういう仕儀だったのだ、あれは?
暫く一人で悩んだが文殊菩薩じゃあるまいし、そう簡単に解答に辿り着けられたら世話ないよね。ならば、あと二人ばかりの智恵でも拝借するとしよう。
屋外に面した衾をスパンと開けば、月明かりに照らされた縁側に二人の男が控えていた。今日の宿直は山中甚太郎輝俊と滝川彦右衛門か。こいつは何とも好都合なことだ。
如何為されましたか、と問う甚太郎は顕本寺に同道した一員である。俺とは違う視点で今日のアレコレを見ていたことだろう。
もしや小腹でも空きましたか、と聞いてくる彦右衛門は選抜メンバーではなかったが、何だかんだと幾度も堺に滞在している。俺の知らぬ実情も存じているだろう。まぁそんなトコだ、といったら、然ればお任せあれと即応する、はしっこい者であるのだし。
軽い身のこなしの彦右衛門を見送った俺は首を巡らせ、夜空に輝く満月を見上げた。
「甚太郎よ、本日の堺の者共を如何に見た?」
「……大いに逼迫しておるように見受けられました」
「下手な狂言には見えなんだか?」
「何と大袈裟な、とは思いましたが……大樹の興を引くには致し方なきことかと」
「然様か」
ふむ、甲賀忍びの名家の息子の目で見ても、堺の者共らの嘆願は洒落や冗談ではなかったのか。少々芝居がかってはいても“東山流”とやらを求める声に偽りはなし、と。
ならば猶更である。どうして堺の者共はあれほどまでに“東山流”を求めたのだろう?
考えが纏まらぬ侭に煌々と輝く月を見上げた。俺が黙り込んだので甚太郎も口を噤んでいる。その沈黙は彦右衛門が盆に載せた胡瓜と茶碗を運んで来たことで途切れた
かような物しかございませなんだ、と申し訳なさそうに彦右衛門が差し出す胡瓜をポリポリと齧りながら温めの白湯を一口グビリとやる。宴の熱気に当てられた体と考え過ぎた頭を覚ますには、実に丁度良い。
微かに磯臭い風が一陣、ヒョウと庭先を吹き抜けて行くのを感じながら胸に溜まったモヤモヤを吐き出せば、甚太郎も同じく吐息を漏らす。どうやら無言のプレッシャーを与えていたらしい。こいつは悪いことをしたな。
「大樹の気がかりは何でござろうか?」
濡れ縁にコトンと茶碗を置いた彦右衛門がお道化た物言いで、わざとらしくこちらを覗き込もうとする。それが気遣いだと判らぬほど俺は朴念仁ではないが素直に答えるのも何だか癪なので、問いに問いで返してやった。
「彦右衛門は、この町を如何に思う?」
「やや、これは、どうにも難しき御下問にございまするな」
「余の目には大層賑やかな町と見えたが」
「然様でございますな……、賑やかな町に相違ございませぬが、賑やかさで申せば博多の方がやや上に思いまする。あちらは、明との交易が堺よりも盛んでありますゆえに」
え、何ですと!?
聞き捨てならぬ発言にちょっぴり驚愕した俺は、更に詳しく問い詰める。その結果を纏めれば、次の通りであった。
全ては遣明船である。
明からは生糸、つまり絹糸。羅や紗などの絹織物。経典などの書物。文人画に工芸品。香料や染料を含む多種多様な薬種。景徳鎮や高麗などで製作された磁器。明が鋳造した数多の銅銭。
そして最新の技術と学問。学問とは主に、朱子学と陽明学だ。
日ノ本からは、硫黄と銅を主とする鉱物。扇子、漆器、屏風といった工芸品。刀や鎧といった武具。特に刀は主要品目として万単位で輸出された。
明との交易、いわゆる勘合貿易を始めたのは三代義満である。四代義持が取り止めるも六代義教が再開させ、輸入された文物の中で逸品とされた物が八代義政のコレクションとなる。それが“東山御物”と称されるものだった。
洛中で用意された工芸品の類は堺から船に載せられて博多へと送られ、九州と山陰山陽で採掘された鉱物と生産された武具と共に外航船で輸出される。足利将軍家が主導し、室町幕府の専権事項である勘合貿易は堺と博多の併用で行われていたのだ。
尤も船団の全てが御用船ではなく、相国寺をはじめとする有力寺社も船主に名を連ねていたが。勘合貿易の共同出資者となることで、宗教勢力は室町時代を通じて強大な力を手に入れたのだ。
ところが応仁の大乱が勃発したことでその構図は大きく変化する。
将軍権力と幕府の威令が失墜してしまったことで勘合貿易の主役が自動的に変更されたのだ。更にその後に起こった明応の政変で、変更された構図はほぼ確定となる。
西国の雄、大内氏が幕府の頸木を逃れて主役の一人に成り上がった一方で、将軍家を縁の下で支えていた細川氏が檜舞台の主役へと躍り出た。山陽道を領する大内氏と畿内を制覇した細川氏の台頭は、瀬戸内海が二分されるってことだ。
瀬戸内海が二分されたことで連帯していた二大貿易港は分断を余儀なくされた。細川氏と大内氏がそれぞれ独自に営む経済圏の対立は、両氏が所管する堺と博多にも転嫁されたのである。
二つの経済圏は良きライバル関係へと発展することなく対立を悪化させ、終いには明側の窓口であった貿易港の寧波での武力衝突という最悪の結果を引き起こしたのだった。
大永三年に勃発した寧波での武力衝突で、喧嘩を吹っかけておきながら大敗した細川氏は勘合貿易から手を引かざるを得なくなり、当主であった細川高国はその後に起こった細川氏の内訌、所謂“大物崩れ”で腹を切る。
高国が退場した後の細川氏がどうなったかは周知の通り。総本家たる細川京兆家当主の座を巡ってトンチキとライバルがズーッと争い続けている。その争いで割りを食ったのが、堺であった。
元々、内海の最奥という立地条件の所為で、対外貿易港として堺は不利なのだ。貿易相手である明に近い博多の方が貿易港として有利なのは、地図を見れば一黙了然である。
大内氏の勢力圏を嫌い、紀伊水道を出て土佐国の浦戸に下田、日向国の油津、薩摩国の坊津を経て寧波へと向かう航路とは、スエズ運河を使わず喜望峰経由でインド洋へと出航するようなもの。あまりにも遠回りに過ぎた。
交易路とは陸上だろうが海上だろうが最短距離であればあるほど黒字になるのは自明の理である。最短距離ルートを捨てて遠回りを選択する場合とは、黒字が目減りしても安全策を取らねばならぬ時だけだ。
細川氏が貿易どころではなくなったことで堺は安全策すら取れなくなり、海外貿易港としての役割を果たせなくなった。博多からのお零れを甘受するだけの輸入港へと転落してしまったのだ。
日ノ本最大の消費地で文化発信の地である洛中や奈良と経済圏を形成しているから活況しているが、堺は商都の立場は維持していても既に貿易港ではなくなっているのだった。
ああ、そうか。そういうことか。
俺の記憶する堺って町は、戦国時代では日ノ本最大の貿易港だ。前世の大河的ドラマや歴史小説でもそうとばかりに描かれていたのだった。
その認識がそもそも違和感の源であったのだ。俺がこれまでズーッとイメージしていた堺とは、ライバルがおらず独り勝ち状態の町だったのである。つまり、博多が没落したという未来の事象を、現在進行形だと勘違いしていたのだ。
確か学校で習った歴史だと、勘合貿易は大内氏滅亡と共に終焉する。本来、明帝国は鎖国政策を国是とする、海禁の国家だ。但し周辺国との“朝貢”だけは許可していた。
朝貢とは、皇帝に対して周辺諸国の王が使節を派遣して貢ぎ物を献上し、皇帝は周辺諸国が捧げる忠節へ返礼ではなく恩恵を授けることを意味する。“返礼”ではない理由は、対等の関係ではないからだ。
礼とは対等の関係かもしくはそれ以上の相手にするものであって、至高の存在である中華の皇帝は礼節を知れどもする立場になかったのである。
そして恩恵とは通常、献上された貢ぎ物の価値にプラスアルファされたもの。貢ぎ物よりも過小な恩恵では、大国の威信に関わるからだ。ゆえに明帝国は朝貢の際、常に倍返しを余儀なくされた。
悲しい例えをするならば、朝貢とはバレンタインデーとホワイトデーなのである。……畜生め、嫌なことも思い出してしまったぜ。心の汗が目から消防放水のように噴き出しそうだよ。
それはさておき、朝貢だ。海禁を厳重にするにあたり、明帝国は割符を渡すことで管理体制を整えた。然様な割符で管理された朝貢のことを、周辺諸国は“勘合による貿易”であるとしたのだ。
……ああ、序でに思い出したぞ、思い出して来たぞ、爺さんの蔵書で知ったことも色々と。
勘合貿易終了の主原因である大内氏滅亡とは。数年後に起こる予定の陶隆房によるクーデターが引き起こした結果だった。相良何とかって奴と政争を激化させた果てに、陶隆房は大内義隆を自害へと追い込む。
大内義隆の死亡は大内氏の終焉に直結し、勘合貿易終了の合図となり、博多の運命をも一変させる。いい換えれば、陶隆房が露わにした野望を発端とした玉突き事故なのかも。
バタフライ効果ほど壮大ではなくとも、もしかしたら現世の事象の多くはたった一人がやらかした結果の集合体なのかもしれないな。
さてさて、脳内情報を整理しつつもっと記憶を掘り返してみるとしよう。博多に関するアレコレを集約出来れば、堺の町衆共の真意がより確かとなるに違いないからさ!
大内氏当主の義隆を死に追いやった陶隆房だが、主家に取って代るといった野望までは抱いちゃいなかったようだ。下克上はしたものの……実に中途半端であった理由を考察すれば、当世が戦国時代としては熟しきれていない所為かもしれないな。
将軍の首を挿げ替える実力を有しながら足利氏を戴き続けることで権勢を謳歌した細川氏もそうなのだが、己の正当性を必要以上に誇示するには主家を滅亡させられないのが今の常識、世の通念なのだ。
土岐頼芸を追放しておきながら、未だ土岐氏重臣の立場を崩していない斎藤道三もまた然りだろう。主家の信任を受けて権力を代行する、って建前がなければ支持を集められないのだから。
織田信長が実力で常識を捻じ伏せるまで、主家滅亡を目的の一つとする下克上とは禁忌の手段であり続ける。信長は尾張統一の過程で主家である織田大和守家を討ち果たしているからね。主君である尾張守護の斯波氏は滅ぼされはしなかったが、勝手に衰亡してしまったのだっけ。
羽柴秀吉は武家社会を飛び出し朝廷の権威でもって家格を最上位に引き上げ、豊臣姓を賜ることで世の通念を覆し、主家殺しをせずして主家を屈服させることに成功した。
しかし然様な下克上のハウ・ツーも、徳川家康が主家であった豊臣氏を滅ぼした後に秩序と理を重んじる朱子学を導入することで、全て禁止となる。天下泰平の世とは即ち、ノー・モア下克上ってことなのだ。
ノー・モア下克上が実力主義の封じ込めに転化され武家社会が徐々に弱体化し、二百六十年後に朱子学に準拠した討幕運動で徳川幕府が瓦解するのは歴史的皮肉なのかもね?
……って、おっといけない、また先走ってしまったぜ。時を戦国の世に戻さねば。
お飾りとはいえ新たな主君を戴く必要に迫られた陶隆房は、ウルトラC的な策を考えつく。大内氏のライバルであった大友氏に協力を求めたのだ。協力の内容とは大内氏の後継者を大友氏に用意してもらうこと、である。
驚きの要請を打診された大友宗麟……いやまだ出家前だから義鎮か、は当然ながらNOと返事するのだが、後継者候補にと指名された人物がオファー受諾を義鎮に強く求めた。そのあまりの熱意に抗しきれず、遂にYESと回答する義鎮。
然様な次第で、義鎮の次弟である晴英は意気揚々と門司海峡を渡った。大内氏最後の当主、義長の誕生である。
大内氏十七代目を相続した晴英であるが、実は二回目の移籍だったりした。過去にも一度、大内氏の一員となった過去があるのだ。
時を遡ること四年前の夏、尼子氏との合戦において溺愛していた後継者、土佐一条氏から迎えた養嗣子だったが、を失った義隆が姉婿である大友義鑑に乞うたからだ、“子供を頂戴”って。義隆の願いを了承した義鑑は次男坊の塩乙丸を送り出す。
塩乙丸は長府にて元服し、トンチキ親父殿の偏諱を受けて晴英と改名するが、何故か養嗣子ではなく猶子とされた。猶子とは相続者が皆無となった場合にのみ家督相続権が発生する特殊な立場である。
だが一昨年、義隆に嫡子となる子が産まれたことで晴英の猶子はあっさりと解除され、晴英は大友氏の元へと返却されてしまった。俺が晴英だったら社会に溶け込めなかったベトナム帰還兵みたいに大暴れするぞ、マジで。
そんな訳でクーリングオフされて実家へと戻った晴英だったが、不思議な巡りあわせで再び大内氏を名乗ることになったのだが、それに待ったをかけた人物がいる。謀略自慢の毛利元就がそれだ。
晴英改め義長による大内氏不当相続の打破と陶晴賢の専横打倒を旗印に決起した毛利元就は、乾坤一擲の大博打をしかける。“厳島へGO!GO!GO!”でお馴染みの“厳島の戦い”である。時に1555年。開戦予定は今から八年後だけどね。
首尾よく陶晴賢を討ち果たした毛利元就は勢力を急激に拡大させ、遂には大内義長も討ち取ることに成功する。一介の国人でしかなかった毛利氏による大内氏領の併呑だ。安芸・周防・長門三ヵ国の太守に成長した毛利元就はその後、二方面へと侵攻を開始する。尼子氏が治める山陰地方と、大友氏の領する北九州へ。
尚、ここまでの出来事が全て、桶狭間合戦以前に起こったことだったりする。桶狭間まで後、十四年。……十四年間って結構長いよなぁ。
さて改めて、博多と堺の関係である。
彦右衛門が披露してくれた見聞と爺さんの蔵書で得た知識をミックスすれば今はまだ、堺は有力ではあれど最強にはなれていない存在であった。商都としての立場は博多の方が圧倒的に上位なのだ。
博多の先行きに暗雲が立ち込め始めるのは、庇護者である大内氏が滅亡してからのこと。しかも大友晴英との交換トレードにより大友氏の所管物件となってからは、暗雲どころではない実害を被るようになる。
博多が戦場となったのだ。
大友氏の家臣が謀反を起こして焼き、復興すれば今度は毛利氏が攻めて来て戦火に見舞われる。そうして大商人達が肥前国の平戸や唐津へ逃げ出したことで、博多は商都としての看板を一旦下ろす。
その後も復興と焼亡を繰り返した博多は豊臣秀吉の九州征伐により漸く安息を得る一方で、堺はといえば三好氏・織田氏・豊臣氏に保護されたことで我が世の春を謳歌する。直轄地とされ、会合衆が解体されても日ノ本最大の商都であり続けたのだ。
しかしそれは、現時点ではあくまでも未来日記に記される程度の予見でしかない。陶隆房が謀反を起こさぬ限り勘合貿易は継続される。現状が延長されるのならば、堺は博多の後塵を拝し続けるしかないのである。
堺を運営する身になって考えれば、苦境は続くよいつまでも、ってことか。
そんな時に現れたのが、武家の最高権威である俺こと足利将軍様だ。堺が最も華やかだったのは、堺公方が御所を営んでいた頃である。大永七年に始まり享禄五年に幕を閉じた最高の五年間。
たった十五年前のこと。顕本寺に首を並べ肩寄せ合った大人達からすれば、遂この間のことだろう。遂この前まで、会合衆達は俺が座した場所に腰を下ろした堺公方と親しく接していたのだろう。
だが堺公方はもういない。名を変え立場を変えて、阿波国で絶賛逼塞中である。
そんな時に新たな公方様、大樹公がひょっこりと現れたのだ。しかも様々な文化を手にして。
俺が普及させた“東山流”とやらは、見方を変えれば堺の町衆にとっては単なる娯楽ではなく、人々を心服させる付加価値に見えたのかもしれないな。もしかしたら商都復活の大いなる手段になると考えたのかも。
史実として堺は茶の湯でもって権力者に取り入り、織田信長や豊臣秀吉に商都としての価値の高さを認めさせたのだから。たかが一杯の茶で、だ。
つまり“東山流”とやらは、たかが飲食、たかが小手先の芸、たかが歌、ではないってことか。
なるほど、そういうことか!
やっと腑に落ちたぜ、アッハッハッハッー!!
何とも馬鹿馬鹿しい話じゃねぇか、勘違いも甚だしいや。俺は堺に大いなる幻影を見ていて、堺は堺で俺に誇大妄想を抱いているってことなのだ。
どっちが正気かと問われたら、恐らく俺の方だろう。現実が見えちゃったのだからさ。
然らば冷静に対処しないといけないな。どうやら逆上せ上がっている感じの会合衆達に、精々俺様のことを高く売りつけてやらねば。安売りだけは絶対にしちゃいけないよね?
……ってことは、今日の振る舞いは正解だった……のかな、どうだろうか?
まぁいいや。
済んだことはどうしようもないし、三日後にまた考えればいいや。
しかしそれにしても参ったな。何て間抜けな思い違いだろうか。噴飯ものってこういうことなのだろうなぁ。
どうにも我慢出来ず、月を見上げての高笑い。空腹を感じたら胡瓜を齧り、喉が渇いたら白湯を飲む。その合間にも笑いが止まらないんでやんの。気づけば漏らす声はアッハッハッハからヒーヒーになっていたぜ、アッハッハッ!
「御乱心召さるな、大樹!」
突然、頬に衝撃を受けた俺はゴロンゴロンとバク転をさせられる。軽く目が廻ったぞ。頭もフラフラするな。ほっぺが滅茶苦茶に痛いぞ。何が起こったのだ、誰か説明しやがれ!
「何卒、御正気に!」
おう、その声は三淵じゃねぇか。こんな夜更けにどうして俺の胸倉を掴んで揺さぶっているのだ?
「……もしや、堺公方に殉じた者共の祟りでは!?」
「いや、あるいは呪詛やも!?」
違うわ! だから、そんなに揺するな三淵、頭が、クラクラ、してきた……ぞ……。
「どうか御正気に!!」
……だから……俺……は正……気……だ…………。
堺と博多の関係。書き出してからの思い付きでして、正解かどうかは分かりません。
一応はwiki以外にも、
『堺と博多 戦国の豪商』(著/泉澄一、刊/創元社)
『会合衆物語 堺三宅当主列伝』(著/入内島一崇、刊/文芸社)
などを参考文献に致しましたが、はてさて?




