『 ロード・トゥ・パーフェクション 』(天文十六年、夏)
長らくお待たせ致しました(平身低頭)。
誤字・誤表記を訂正致しました。御報告に感謝を!(2020.05.21)
前々から来てみたいと思っていた憧れの地に到着したのは、昨日の日暮れ前のこと。
無理ゲーの無茶クエストみたいな勅命を奉じていなければ、今日からは実に楽しみな日々のスタートであったことだろう。言い換えれば御上から無理難題を与えられてからこれまでズーッと、愉快とは言い難い日々をブルーな気分で過ごしているのである。
そんなブルーな毎日に終止符を打つのはいつだろうか?
それはトンチキ管領の細川六郎晴元と、彼奴のライバルである細川二郎氏綱が仲良く御対面する日が来るまでだ……って、いやいや無理だろう。絶対、無理だ。どう考えてもそんな日が来るとは思えやしない。
来るとしたら、どちらかが討たれて首実検をする時だけだ。
残念ながら史実では一度も対面することなく、十数年後にトンチキ管領は幽閉先の高槻の普門寺城で、ライバルの二郎は居城とした伏見の淀城でそれぞれ死んでいる。
……畜生め、いっそのこと刺客でも放ってその十数年を縮めてやろうか?
……無理だよなぁ。
だって、脳筋将軍足利義輝の謀略など百パーセント失敗とイコールだもの。暗殺に失敗したくせに暗殺されたヘタレ野郎なのだ、義輝って奴は。下手の考え休むに似たり。同じ失敗をするならば、汗掻きベソ掻きしながら地道な努力をした結果の方が、言い訳がし易いかもね。
どうせ失敗するのだ今回の和平交渉は!
史実から現実がよっぽど乖離せぬ限り、六郎の野郎と二郎の野郎は和解などしないと断言してやろう。応仁の大乱の切っ掛けとなった畠山義就と畠山政長くらいの不仲、水と油、いや水虫と油虫な関係の二人なのだから。
それでは俺に出来ることは何だろうと考えても、どうにも答えが纏まらぬ。さてさてどうしたものやら。取り敢えずは、準備……だよなぁ。失敗することが分かっていて行う祭の準備ほど、気の乗らぬものはない。
いや、待てよ。
隙のないほどに完璧な和平交渉の場を用意すれば、交渉決裂となっても俺の責任は回避出来るのではなかろうか?
そうさ、そうだよ。将軍様が心を砕いて整えた和解のテーブルを蹴飛ばしたら、世間の悪評を買うのは卓袱台を引っ繰り返した方になるに違いない。そうなれば御上の不興は俺ではなく、トンチキとライバルの方へと向かうに相違なし。
朝廷や畿内に点在する両細川へ組する奴らも、少しくらいは愛想をつかすかもしれないじゃないか。だとすれば俺の目論む管領制度廃止案にも弾みがつくかもな。
俺が皆々に大威張りしていられるのは将軍様であるように、六郎の野郎が偉そうにしていられるのは管領職にあるからだ。既に形骸化していようとも公儀の役職は未だに幅を利かすのだ。例え虚名であろうとも、名がある限り下々はそれに実があると思ってしまうのである。
ならば、早々に名を引っぺがしてやろうじゃないか。トンチキ管領から、タダのトンチキにしてやろう。細川京兆家ノットイコール管領となれば、両細川の争いも自然と先細りするに違いない。
六郎の野郎の配下には管領って肩書に従っている奴も多くいるのだろうし。上手くいけば、三好長慶の離反も早まるかも?
ならば完璧な用意をしてやろうじゃないか。トンチキ管領の破滅の一歩目となるような素晴らしい用意を、な!
などという結論に達したのは、仮御所を出立して直ぐのことだった。結論に達したものの、ブルーな気分がスカイブルーにスカッと晴れた訳じゃない。精々が、紺色が藍色になったくらいだろう。誤差の範囲じゃねぇか、畜生め。
それは兎も角として。
和平交渉の用意であるが、堺に来るまでに九割九分は済ませてあるので今更どうこうする余裕はほぼゼロだったりする。思い返せば、出来る限りのことをやりまくったよなぁ。ああ、本当に大変だった……。
大変な日々の始まりは、無茶振りされた当日からである。
エライことになってしまったと心身共に青褪めた俺は、御所から帰るなり急ぎ……衾(=掛け布団)を被り、ふて寝した。
もしかしたら、寝て起きたら全てが夢オチになるかもしれぬと思ったからで。残念ながら目が覚めても重苦しい現実には微塵も変化がなかったが。
理不尽なり!
ああ、どうしよう。取り敢えず、伊勢伊勢守と相談するしかないよね。困った時はドラ……ではなく政所執事に頼るのが一番だもの。
相談の結果、先ずは両細川に書状を送ることと相成った。双方矛を収めて話し合いでもしてみないか、と手紙を送るのが物事の第一歩目であろうと助言されたからである。
そりゃそうだ。
では手紙を送ろう、送りましょう。だが、待てよ。手紙を書くのは俺なのか?
残念ながら俺の書く字は個性的で特殊な趣があるらしいとの評を受けている。俺自身の評価としては瀕死のミミズみたいな字から、日々の練習の甲斐あってリハビリ中の芋虫みたいな字になったと自負しているのだけど。
親しき間柄でも問題意識を持たれているようなのに、親しくもなければ親しくなりたくもない相手へと送るには些か宜しくないのではなかろうか?
下手っぴな文字で舐められてしまってはどうしようもないし、用意ドンですっ転んで笑いものにされたとあっては俺の沽券に関わる大問題なり。
何がどうあれ絶対に、受け取り手が平伏すくらいに完璧を期した手紙でなければならぬのだ。抗えぬ恫喝だと感じてもらえたら最高である。舐めたら殺す、笑いものにしやがったらぶっ殺す、そんな意図を典雅に綴った手紙を送らねば!
ならば代筆者を立てれば良いのではないか?
この場合の代筆者とは、右筆のことである。右筆とは筆頭文官のこと。文書を熟知した最強の書記官にして側近中の側近、紙の上を戦場として戦うエリート、それが右筆なのだ。ところがギッチョン、生憎ながら俺には右筆役がいなかった。
何故かというと今の今まで必要としなかったからだ。公文書は全て政所が作成してくれるし、私文書の類は細川与一郎藤孝ら側役用人達で十分こと足りていたからである。
こいつは困ったぞ。
和平交渉要請の手紙を政所が作成するのは少々勝手が違うし、かといって俺が直筆で書くのは論外だ。誰か身近な者で右筆を勤めてくれる者はいないかと探したが、生憎該当者がいない。
……いないこともないのだよ。
例えば達筆だけを条件とするなら村井吉兵衛がいるし、流麗さならば与一郎の書く文字など額にいれて飾りたいほどだ。しかし如何せん両名共に経験値が足りなさ過ぎる。字体が美しくとも迫力に欠けるのだ。
こんな時にも頼る相手は一人しかいない。お願い伊勢えもん、助けてよ!
仕方ないなぁ、といった表情を隠さず伊勢伊勢守は秘密道具ならぬ有用な人材を提供してくれた。政所奉行衆の中でもトップクラスの能筆家、高和泉守師宣である。何故か息子の五郎右衛門師尚もついて来た。使いっ走り要員が増えたぜ、やれ、有難し忝し!
高和泉守よ、早速だが一丁バシッとした活きのいい文章を頼むぞ。済まんな、急ぎなので勘弁な。手紙が完成したら即座に送らねば。誰に頼もうか。そうだそうだ、五郎右衛門がいたのだ。済まないがトンチキ管領の居城である摂津国の越水城まで、ひとっ走り頼む。
ああ、安心しろ、独りで行かせやしないから。藤堂虎高、明智十兵衛、一緒に行ってやってくれ。
ライバル二郎が立て籠る河内国の高屋城には、多羅尾助四郎と山口甚助に任せよう。多羅尾の一党を好きなだけ連れて行け。畠山氏の配下のやる気が如何ほどなのかも、行きがけの駄賃にでも探ってくれると有難い。
現代の地名に直せば、越水城は兵庫県西宮市で高屋城は大阪府羽曳野市だ。京都市からは遠くもないが近くもない場所。馬で駆ければ凡そ半日を要する距離だった。
こちらの要請を両陣営のトップが吟味するのにどれくらい要したのかは定かじゃないが、高五郎右衛門達が返事を携えて帰着したのは四日後だった。さてどんな返事だろうかと封書を開いてみれば、ダラダラとした修飾語だらけの内容で、読み難いったらありゃしない。
与一郎に解読させると、どちらの回答も“NO!”だった。ああ、やっぱりね。どうせ然様なことだろうと思っていたぜ。真心込めた脅迫状一通で阿呆共を心服させられれば苦労はないさ。恐らく後もう十通は送らないと無理かもね。十通でも無理かもしれないが。
道理を説いて駄目ならば無理にでも奴らを動かすしかない。つまり、阿呆共以外にも手紙を書けば良いだけってことだ。あらゆる伝手を動員して両陣営の要所に働きかけてやる。否が応でも“Yes!”といわせてやろうじゃないか。咲かぬなら咲かせてみせようアマリリスってな!
名づけて、お手紙大作戦だ。
トンチキ管領側でターゲットに定めたのは、支持母体である丹波国と摂津国の国人衆。そして側近中の側近、三好越後守政長である。
奉公衆見習いとして囲い込んだままの赤井五郎次郎輝直の実家は、波多野氏と並び丹波国にて重きを為す大物国人衆である。何だかんだと理由をつけて手放さずにおいて正解だったぜ。
五郎次郎は、手紙は苦手だ勘弁して欲しいと泣きついてきやがったが、報奨に酒樽を渡すと急いで文机に向かいやがった。全く現金な奴だぜ。心配だから村井吉兵衛に監督させよう。
同じく囲い込んでいて正解だったのが、政長の次男である三好神介輝勝とトンチキ管領与党である摂津国人の息子の池田弥太郎長正。
神介は父親宛だけなので気負いもなくサラサラと書いてくれた。弥太郎の書く相手は父親だけではなく義母にもだ。何故なら義母は政長の娘だからである。何れも情に訴えるでなく淡々とした内容なのが気にかかるが、無下にされることもないだろう。
ライバル二郎サイドへの勧告は、遊佐河内守長教のみに集中させた。二郎配下の有力者は他に安見何とかっていうのがいるけれど、よく知らないしな。一昨年までならば遊佐河内守の親分で、河内・紀伊・越中三ヵ国守護の畠山尾張守稙長が存命だったのだが……死んでしまったしな。
現在、畠山尾州家当主の座は弟の政国が暫定で就いている。暫定なのはトンチキ管領の意向を拒めなかった公儀が、当主就任を承認しなかったからだ。
なるほどなるほど。それならば将軍の名で承認してやろう。六郎の野郎の横やりを受けぬ今ならば、幾らでも承認印をバンバン押してやるぞ。会談に応じるよう二郎の尻を蹴飛ばしてくれるなら、遊佐河内守の要請を受け入れた形で政国の畠山家当主就任を承認してやろうじゃないか。
もしも俺の承認だけでは心許ないと思うのならば、管領代である六角弾正少弼定頼の添え状もオマケにつけてやろうじゃないか。
幸いにして定頼が未だ在京中であったので、娘婿の背中を押すような手紙を書くついでに添え状を作成してもらった。因みに娘婿とは、トンチキ管領のことである。
和平交渉の席へ着くよう促す手紙を書いてもらったのは他に、懇意とする有力寺院や商人達だ。近衛家の稙家伯父さんや勧修寺卿や山科卿にも手伝ってもらったし、はてさてどれだけの手紙が越水城と高屋城に届いたことやら。
最大限拡大させたお手紙大作戦に誰も彼もが心底うんざりしたに違いないが、その甲斐あって最初の一通目を出した日から凡そ二十日後のこと。漸くにして、いがみ合う犬畜生と猿公双方の首を縦に振らせたのだった。
合意の決定打となったのが天王寺屋助五郎経由で手配した堺の会合衆の斡旋であった、というのが少々納得しかねる話だが。さりとて実際のところ、会合衆の斡旋がなければ合意は得られず全ての努力が無駄となっていたかもしれない。
まぁ兎にも角にも半月以上の日数を無駄させられて……訂正、費やした御蔭で下準備は整った。停戦に向けての会談の地は堺となったが、それは両細川陣営のどちらにも属さぬ中立地帯であるからだ。裏を返せば両方に加担しているってことだけど、それはいわない約束だ。
さて和平交渉開催は双方から合意文書を受け取った日から五日後と決まった。五日以内に会合衆がセッティングしてくれた会談場所へと行かねばならぬ。
平均的サラリーマンの出張ならば鞄一つで済むだろうが、身分ある者はそうはいかない。あれやこれやと整えなければならぬ。勿論、留守中のこともしなければ……って大体は出来ているけどね。
トンチキ親父殿の近江国逃避行ならば然して準備はいらないけれど、今回ばかりは必要以上に威儀を整えなければ行く意味がない。勅命を奉じて堂々の下向をするのだ、アレもコレもほったらかしで出かける訳にはいかないよね?
その準備をお手紙大作戦と同時並行で行っていたのだけれど、これがまた、一仕事であった。
お手紙大作戦の後半、堺下向の可能性が高くなった頃のこと。
俺の不在で政務に不都合は起こらないかと伊勢伊勢守に問い合わせたら、政所としては俺が不在でもトンチキ親父殿が代行するなら体裁は整うとの回答を得た。
洛中復興の諸事業に関しては惟高妙安禅師に尋ねたら、文化サロンのメンバーで上手く取り仕切ってくれるそうな。
……いらない子宣言をされたような気がするが、多分考え過ぎだろう。
さぁ残す懸念は、洛中洛外の警備体制の見直しだけである。これをしくじれば、都人達は誰も俺のことを武家の棟梁だと見なさなくなるだろう。過去の将軍達同様、当てにならぬと思われては堪らない。いらない、といわれる人生など真っ平御免だぜ!
だから頼むぞ京師所司代。全ては君達の活躍にかかっているのだぞ!
などと期待はしてみたものの、発足したばかりの京師所司代の実力は田圃の案山子レベル。雀なら追い払えても、カラス相手に有効かどうか。イノシシが襲来すれば為す術もないだろうな。ううむ、どうしたものか……。
仕方がない。ここは案山子よりも役立つ武力を借りるとしよう。実践経験豊富な武力を、ね。
有難いことに定頼のみならず六角氏の軍勢凡そ三千は“馬揃え”挙行後も滞在し続けていた。気分的には全員を徴用したいところだけれど、現実的判断を働かせて五百人ばかり借り受けることにする。
五百人でOKとしたのは、それ以上になると公儀の財政に多大な負担となるからだ。何とも侘しい話だが、駐屯費用を考えればスルー出来ぬ事実なのでどうしようもない。
更につけ加えれば。
当世の兵は基本的に気が荒い。空腹時のイノシシが可愛らしく思えるくらいだ。丁寧に言い換えれば乱暴大好きな狼藉者だから、五百人っていうのは不安要素を増やさないギリギリのラインだったりする。
駐屯費用として銭と酒を不自由しない程度には手当てするから暴れないでね、約束だぞ。しっかりと手綱の引き締めを頼んだぞ、臨時駐留軍指揮官の左京大夫義賢と副官の佐々木近江守義秀。
尚、こちらからの懇請は六角氏側からすれば渡りに船だったそうな。
次期当主の義賢と親族衆の長老格予定の義秀には、戦場だけではなく政治の場においても経験値を積み、貫録を増して欲しいと定頼は考えていたとのこと。
公的立場で洛中滞在となれば公家衆や町衆、有力寺院とも接する場が増える。近江一国を支配中の六角氏だが実効支配を比率化すれば実は七割ほど。残る三割を占めるのは比叡山だった。
洛中での人脈形成に成功すれば、それは対比叡山戦術の拡充に繋がるのだ。戦術の拡充が為れば支配率十割、完全制覇も夢物語ではなくなるだろう。その為には何が何でも坂本という町の実効支配を成し遂げねばならない。
だが湖岸一の商都、坂本を領するのは戦う宗教団体の代表格、“取り敢えず生”みたいに強訴を常套戦術とする比叡山だ。後白河法皇でさえ手を焼いた日ノ本最強の宗教的権威である。
俺としては六角氏の坂本支配に関しては文句をつける気はない。もしも比叡山の攻勢を六角氏が引き受けてくれるなら、それは公儀が洛中における比叡山の利権を奪い取るまたとない好機となるからだ。実際の話、洛中における最大の悪辣不動産屋にして悪徳金融業者が、比叡山なのだから。
六代義教にあやかって焼き討ちするのもアリだとは思うけど。武に長けた僧兵など幾らいようと所詮は戦争のアマチュア。プロの戦争屋たる武士が足並み揃えれば負ける訳がない。
ただねぇ、比叡山を焼くと“仏敵”呼ばわりされてしまうのだ。禅師ら洛中の有力寺院との誼に僅かでも瑕疵を入れたくないしなぁ。出来る限り対比叡山戦争の矢面には立ちたくない俺なのである。
だからこそ、六角氏には是非とも坂本強奪を断行して欲しいものだ。定頼の企みの成否は正面戦術の武力のみならず、搦め手戦術に不可欠な政治力が尚一層重要となる。
帰る間際、さらりと裏事情を明かしてくれた定頼に俺は苦笑いを浮かべるしかない。
俺からの駐屯要請を、次世代の成長と御家の勢力拡張を狙った一石二鳥の策の布石に挿げ替えるとは、流石は戦国大名様だぜ。道理で五百もの兵と大事な跡取り息子をあっさりとレンタルさせてくれた筈だよ。
然様な事情を前もって察知出来ていれば駐屯費用の値引き交渉が出来たのにな、などとしか考えられぬみみっちい貧乏将軍様とはエライ違いだ。これが人としての格の差ってヤツかな?
まぁ将軍家の品位を損なうような貧乏臭い話は忘れよう。
そのかわり、より切実なお願いならばしても良いだろう。少しばかり厚かましいかもしれないが、物のついでみたいな要件なのだから勘弁しろよ定頼。
頼みごとというのはだな……厄介な元気爺を洛中から連れ出して欲しいのだ。誰のことかはいわずと知れた、朝倉宗滴って名前の爺さんのことだよ。
俺の留守中、フラフラと勝手なことをされても困るのだもの。いや、マジで。定頼にとっても、政治的ライバルである人物に洛中滞在を延長されては不都合の極みだろう?
なぁ宗滴の爺さんよ。いつまでも楽隠居ごっこなどせず、とっとと帰国しろよ。帰国したら朝倉弾正左衛門尉孝景を唆して、加賀でも平定してこいよ。大好きだろう、合戦が。好きなだけ隣国で大暴れしろよ。
守護の富樫氏を駆逐して一向一揆勢による“百姓の持ちたる国”となってしまった加賀国。去年、金沢の地に創建された尾山御坊を総司令部として北陸を侵食し始めた一向宗は、朝倉氏にとって顕在化した脅威だろうが。そろそろどうにかしないとヤバイのじゃないか?
一向宗って存在自体が鬱陶しいし面倒くさいし。四十一年前だったか、越前が一向一揆に襲われたのは。九頭竜川で苦戦したらしいじゃないか。座視していたら今度は三十万では済まない一揆勢が越前の国境を踏み荒らして来るぞ。そう思わないか、宗滴の爺さんよ?
平泉寺白山神社の荒法師達を糾合しても良いし。望むなら加賀一国切取勝手次第の書状でも給付してやるからさ。迎え撃つより討ち入る方がきっと楽しいぞ。どうだ、頼りない将軍家に本来の武門の誉れってのを見せてくれやしないか?
大事なことだから繰り返しアナウンスするが、北陸はマジで激ヤバなのだ。
国を統治する者がいないのだから当然だ。守護不在の国は日ノ本には幾つもある。例えば三河国に播磨国。不幸な行き違いで一瞬にして関東管領と鎌倉公方が消し飛んでしまった関東諸国などもそうだ。
三河国や播磨国にも一向一揆は巣くっているが、加賀国は完全に蝕まれてしまった。北陸の雄にして三管領の一角であった畠山氏が領する能登国と越中国も支配体制はグラついている。下手すりゃそっちもヤバくなるし。
現当主の畠山左衛門佐義続は父親の死後に家督を継いだ若造だった。なまじ先代の修理大夫義総が有能であった反動で、家臣団からは頼りにならぬと侮られているらしい。
その一例が、守護代の神保右衛門尉長職による越中国簒奪だ。
居城・七尾城のある能登国ですら騒乱が絶えないとの報告が洛中にまでもたらされている。報告の発信元は往来する商人達と、内部抗争に終始する畠山氏家臣団の内で外聞を気にするだけの才覚を持った者達、遊佐何とかや長うんちゃらとかって奴らだ。
長って苗字には覚えがあるな。確か加賀百万石の太守・前田家の重臣だったよな。旧来の守護大名家臣から新進気鋭の織田政権の一員となり江戸時代を生き抜いた血筋であった筈。
遊佐何とかはライバル二郎を支える遊佐河内守の親戚筋に違いなく、能登国の畠山氏と河内国の畠山氏と同じく近しい関係性を築いているのだろう。血縁間の音信は易々と距離感を超えるのだから。
残念ながら足利氏には存在しない血縁関係だなぁ……細川氏にもないけどな。
御蔭で俺は苦労させられているのだ、畜生め。
いかんいかん。どうにも愚痴っぽくなってしまうな。まぁそれもこれも、将軍家に力がないからだ。故にどうしても力ある者に頼らざるを得ない。北陸方面で頼れそうなのは朝倉氏だけだからなぁ。やんぬるかな、畜生め。
あることないこと吹き込んで焚きつけた宗滴を定頼に託し最敬礼で見送ったら、洛外近郊への手配りも忘れずしておかなければ。
俺の記憶が確かならば史実では今時分、トンチキ管領の大攻勢が始まっていた頃合いだ。
将軍家が築城した北白川城とライバル二郎の前線基地であった洛西の高雄城。どちらも攻略されて淡白に落城するのだ。その結果、俺とトンチキ親父殿は近江国へ脱出し、細川二郎の手先である細川玄蕃頭国慶は丹波国へ逃亡する羽目になる。
確かその際に、北白川一帯は放火されて慈照寺は破却、高雄の神護寺と高山寺も焼き討ちの対象となるのだ。
ところがである。現状は史実と異なり北白川に築城してないから焼かれようがないし、慈照寺は土岐頼芸の隠居所に提供中なので無事平穏なまま。危惧すべきことは何一つ起こってはいない。
近所でのチャンチャンバラバラはノーサンキューなので、春先に高雄城へと入城しやがった国慶には早々に立ち退きを命じておいた。国慶の奴、細川氏分家の分際で当初は拒否しやがった。然れどそんなことで慌てる俺様ではない。
不承知ならば金輪際絶交だ、とやんわり伝えれば不平タラタラながら退去してくれたよ、やれ助かった!
退去先に選んでやったのは巨椋池の南岸にある淀城。ここ百年ちょっとほど手入れもしていないので、廃墟同然の古城だけれど気にするな。ホンの一時の仮住まいじゃないか。
ブーブーと不平を申し立てる暇があれば自前で何とかしろよ、と俺がいうのもアレだけど。何よりも建前上、俺の立場は中立なのだから手を貸す訳ないだろう?
そもそも恥ずかしいくらいに素寒貧の公儀に無心するなよ、恥を知れ、恥を。
……まぁ、修築の資材ならば融通利かせるくらいはしてやってもいいけれど。定価の三割増しで良ければ、な。
生憎だが、洛中は復興ラッシュの真っ最中。タダで分けてやる余裕などないのだよ。建築資材など俺の方が欲しいくらいなのだ、諦めろ。
国慶が退去を始めるや否や、俺は京師所司代に命じて高雄城解体に着手させ、廃材をそのまま下げ渡してやった。何と慈悲深い為政者であることか。感謝の言葉はいらないからな……罵倒もするなよ、下げ渡してやらねぇぞ。
高値で売れた廃材の御蔭で臨時収入を得られたので、俺は高雄の麓にある嵯峨の大寺の清凉寺境内の一角を借り受け、京師所司代専用の駐在所を新築することにした。興福寺から建材を安値で横流ししてもらい、短期間で駐在所は完成した。
プレハブ工法という概念を売り渡しておいて正解だったぜ。
不必要な占拠者の追い出しに成功したら高雄から嵐山にかけての地域と、慈照寺を中心とした東山一帯に布告を出すことにした。全ての寺院の門前と神社の鳥居に“狼藉停止”の高札を立ててやったのだ。
“一里四方、一切の狼藉を赦さず。背けば悉く治罰す”
治罰す、と記したのは命令が公儀のみならず天皇陛下の意向でもあると匂わす為であり、また治罰の対象をぼやかしたのは素行不良の荒法師や犬神人(=下級神官)をも取り締まる為だったりする。
一粒で二度美味しいを狙って高札を設置しまくったが、取り締まりの範囲を広げ過ぎではないかと三淵に問われてしまう。だが俺は、問題ないと一蹴した。伊勢伊勢守の了解の下、近隣の国人衆達を戦力増強として確保したからだ。
洛東の今村紀伊守慶満一族、洛西の小泉三郎兵衛秀清や物集女四郎右衛門尉忠重ら西岡被官衆ら。全員が洛中経済の活性化と共に懐具合が豊かになった者達なり。
一揆や戦火で再び洛中が荒廃すれば自分達の家計も危うくなることを理解しているので、こちらとしては助力せよと命ずるだけでことが済んだ。武将というより武装商人と呼んでも差し支えのない彼らは、ひとり残らず銭勘定に長けた現実主義者である。
銭を生み出す牽引力が、俺と惟高妙安禅師らのタッグによるものであることを、よくよく理解してくれていたので、誰もが二つ返事で合力すると答えてくれた。
多羅尾一党に山岡一党による活動も、善阿弥ら河原者達の尽力も何ら変わりない御蔭で、洛中洛外における諜報網は草の根レベルで万全であった。
笠置寺や柳生庄も恒常的困窮から脱し、少しずつ豊かになっているらしい。興福寺の下で纏まり出した大和国も最近は国人同士での争いが減っているそうな。先日送り込んだ黒田下野守一党と宇喜多氏残党も安心して過ごせるに相違なし。
仮御所の留守居役を任せるのはいつものように御所大番頭の進士美作守だ。補佐役には近習頭取の大館十郎藤光。どちらも堅実さが売りである。近習教授師の村井吉兵衛も常の如く冷静沈着な判断で二人をサポートするだろう。
おまけに、すぐそばの政所にはミスター管理職こと伊勢伊勢守がいるのだし。ここまで手配りすれば万全だよね、多分、きっと……。
思いつく限りの方策を講じ、もう後は野となれ山となれと月夜に叫んで与一郎に叱られた翌日、俺達は旅立ちの時を迎えた。
仮御所を出たのは辰の刻。幼い近習達を含めた留守番の者達の一斉敬礼を受ける気分は、鉄くず以下の沈没船を無理からに改造した宇宙戦艦で銀河の彼方へ飛び出す感じだ。全行程一年ではなく、たかだか片道一泊二日でしかないけどね。
馬に跨り前後を見渡せば、寝ぼけ眼に映るのは五十五名の随身達。堺下向の行列の主体は御番衆達で、リーダーの三淵弥四郎藤之は行軍の先頭で張り切っていた。先陣の誉れってやつだろうか。うんうん、倒れぬ程度に頑張ってくれ。
張り切っているのは旗持ちを任せた三人もであった。
荒川勝兵衛輝宗と長野五郎輝業は足利氏伝来の“足利二つ引紋”を、赤井五郎次郎には初代尊氏が後醍醐天皇から拝領した五七桐紋をアレンジした物を背中におっ立てている。
白地に黒々と染め抜かれた丸に二本線の文様と“五七花紋”が、微風を受けて翩翻としているさまは実に雄々しい。
俺の脇で、与一郎の従者から御番衆の一員に取り立てた明智十兵衛が高々と掲げる兜の鍬形が陽の光を浴びて燦然と輝いている。初代尊氏以来の古臭いデザインだが、こうして見れば伝統的というのも案外悪くないものだなぁ。
室町通りを真っすぐ南下し上京から下京へ。薬師如来を本尊とする通称“因幡薬師”、真言宗寺院の平等寺の近所で小休止、隊列を整え直す。
ずっと向こうに見える東寺こと教王護国寺もそうだが、この辺りの寺院復興も著しいな。真新しい木材の香りがそこはかとなく漂っている。往時以上の賑わいを掴み取ろうとしている俺達の街を何が何でも守らねば。
両細川の阿呆共に、もう二度と洛中を戦場にしないと誓わせてやろうじゃないか。頚椎骨折するくらいに頷かせてやろう。もしも不承知ならば、お前らは人類の敵に認定してやる。人民の敵でもいい。少なくとも治罰の対象として天下に告発してやろうじゃないか!
背負わされた責任と背負い込んだ意気込みの重さを実感していたら、馬の口取り役の主税助が小用ですかと聞きやがる。
違うわ阿呆! 武者震いに決まっているだろうが!!
半刻休憩の後、弥四郎の号令を合図に俺達は洛外へと足を踏み出した。
整然と並ぶ隊列前部の五十五名と違い、隊列後部の百名以上は間隔も装備もバラバラである。凡そ隊列の体を為していない。それも道理で、彼らは公儀に属する者達ではなかったからである。
洛中と堺を往還する商人達とその手代と護衛。様々な宗派の僧侶達。その他、勝手に混ざった旅人達だった。
……はて、何でこんなに増えたのだ?
商人と坊さん達は今回の和平会談のスポンサーだし、俺の隊列と一緒に行動すれば野盗を気にしないでよい上に各地の関所も無視出来るからって理由なので同行を許可したのだけどね。
やむを得ない。旅は道連れ世は情け、死なば諸共、一蓮托生などというらしいし、ここは大人の態度で目を瞑ることとしよう。
これも何かの縁となるやもしれない。どうせ金銭面での面倒見はしないのだ、行動を共にするぐらいは許してやろう。
因みに俺達の今日の宿泊地は槙島城なり。先発隊の一員であった眞木嶋孫六郎輝光が以前と同じように受け入れ準備を整えておいてくれた。
予定よりも人数が五十人ほど超過しているのに驚いていたけど、気にするなと申し伝える。勝手について来た奴らだからな、城外の宿場にでも案内してやれ、序でに宿泊費を五割増しにしてやれ、とも。
行程二日目の出立時間は、昨日よりも遅い巳の刻だった。理由は同行者が更に増えたからだ。大和国人、越智氏先代当主の末弟である越智伊予守家増とその郎党五十名。実は越智氏、和平交渉のキーパーソンだったりする。
越智氏は数代前に畠山氏の血を受け入れている。その上、子のなかった先代当主の家広は後継者にトンチキ管領から養子を迎えていたのだ。正確にいえば、トンチキ管領が縁戚から迎えた猶子を養子としたとのこと。
縁戚とは、細川泉州家の元常だとか。元常とは、俺の傅役たる三淵伊賀守晴員の実兄であり、与一郎の伯父にして養父でもある人物だ。
御家大事のこの時代、養子や猶子が当たり前とはいえ、矢鱈と多いのでこんがらがるが、つまりは俺にとっても蔑ろに出来ぬ大和国人なのだよ、越智氏とは。
与一郎に尋ねたら、元常が手をつけた婢女が産んだ子であるらしく、顔を見たこともないのでよく知らないのだとか。細川泉州家での扱いとしては、血族ではあっても身内ではないらしい。
……俺にとっての古河公方みたいなものかなぁ……多分、違うと思うけど。
然様な余談はさておいて。
応仁の大乱時には大和国を制覇する勢いだったものの今では逼塞し、興福寺衆徒筆頭の筒井氏の配下となっている越智一族。
俺からすれば下っ端の下っ端のくせに粗略に出来ぬ集団を組み込んだ隊列は分乗した川船で淀川を下り、難波の海の手前にある渡辺津に至った。ここから更に同行者が増える。浅からぬ誼を結んだ渡辺惣官家の一党が護衛と船頭役を務めてくれるのだ。
二百人以上に膨れ上がった俺達一行だが、渡辺惣官家当主の与左衛門稙にいわせれば大した人数ではないそうな。携えて来た諸々の荷物も常に運搬する貨物に比べれば微々たるものとのこと。
それなら安心と心穏やかな俺の横では、青い顔した弥四郎と与一郎の兄弟が力なく座り込み、一色七郎は船縁から首を突き出して盛んにゲーゲーと撒き餌をしていやがる。他の随身達も似たり寄ったりで、ケロリと平気な顔をしているのは供侍上がりの御番衆達と彦部又四郎藤信くらいだった。
仮御所を出立した時の勇ましさはどこへやら、半病人に成り下がった一行を乗せた船団は住吉津を経由して、一路進むは日ノ本一の商業都市。
さあ行こう、夢に見た堺へと。行く手には様々な障害が待っているだろうが常の如く信じようぜ、何とかなるさ、ってね!
……本当に、何とかなるのだろうか?
転生してからこれまでの間、出たトコ勝負で完勝したことがないからなぁ。敗退じゃないが勝ったとも言い難い、痛み分けよりマシってレベルだもの。何だか不安になってきやがったぜ。
では如何にすれば良いのだろうと考えたら、考えるまでもなく目標設定を和平から停戦に変更すれば良いとの解が脳裏に浮かぶ。
史実では間もなく、応仁の大乱以来の畿内最大規模の合戦が勃発する。会戦の地は摂津国東成郡にある舎利尊勝寺付近だ。飛鳥時代は用明天皇在世時に創建された、聖徳太子所縁の古刹である。
そんな由緒ある寺院が阿呆共の大合戦で焼亡してしまうのだ。荒廃した舎利尊勝寺が再建されたのは確か……江戸時代だったっけ。前世で爺さんが元気だった頃に一緒に行ったよなぁ、ああ懐かしい。
江戸期復興の本堂も空襲で焼けたらしいが、そもそも両細川の阿呆共が争わなければ飛鳥様式の希少な建造物として後世まで残存していたかもしれないのだ。文化財保護の為にも、どうにかして会談を引き延ばさねばなぁ。
所謂“舎利寺の戦い”を起こさせなければ、後の“江口の戦い”も内容が変わるかもしれない。
“舎利寺の戦い”とは連戦連敗続きだったトンチキ管領陣営が長慶の活躍で情勢を逆転させた合戦である。長慶の武名を世間に知らしめた戦いなのだ。
……あれ?
ということは、合戦を起こさせた方がいいのか?
いやいや、それはそれで不味いぞ。大戦が勃発すれば洛中にも影響が及ぶし、俺の施した手配りが全て木っ端微塵となりかねないじゃないか、って……あ、今になって重要なことを思い出したぜ!
弥太郎の父である池田筑後守信正の命運も“舎利寺の戦い”の結果にかかっていたじゃないか。史実では去年から今年にかけて離反と帰参を繰り返した件をトンチキ管領に咎められ、来年の今頃には切腹させられていた筈。
離反も帰参も立場の弱い国人衆からすれば当たり前の生き残り策だろうに。事実、三宅城城主の三宅出羽守国村は許されている。殊更に信正だけが誅殺されたのは、政長の進言だったとか。
この一件は、長慶がトンチキ管領陣営から離反する一因となる重大事だったっけ……ってことは、弥太郎の親父には非業の死を遂げてもらわなきゃダメなのか?
いやいやいやいや、俺の都合で無理からにでも死なせるなど、人として言語道断の行いだ!
それに俺の知る限りでは池田城は去年も今年も落城してないぞ。池田城だけじゃなく、三宅城も落とされちゃいなかったぞ。
去年ぐらいから六郎の野郎が連戦連敗なのは間違いない。だがそれは野外での遭遇戦ばかりで、落城沙汰は一つとして報告されていない。おまけにここ二か月ほどは小競り合いばかりで大した戦は行われていなかったような。
もう一つ、大事なことを思い出したぜ。
長慶と遊佐河内守が休戦協定を結ぶことで“舎利寺の戦い”は終結するのだが、その証として婚姻関係となるのだ。訂正、長慶が遊佐河内守の娘を継室に迎えるのだ。両者の結びつきもまた、長慶がトンチキ管領陣営から離反する一因となる。
あれれ?
やはり“舎利寺の戦い”を勃発させた方が……史実を捻じ曲げない方が万事解決への近道なのだろうか?
それとも遠目からは真っすぐに見えるように、細かい曲折を繰り返した方が理想的落着への完璧なる方針となるのだろうか?
流石にコレばかりは伊勢伊勢守に諮問も出来ないし、況してや禅師ら当世最高の頭脳集団に相談する訳にもいかぬ。与一郎らに尋ねても、頭がおかしくなったと思われるのが関の山だろうし。
明日はいよいよ和平交渉の初日だというのに、今になって迷子になった気分だぞ。
俺にとって最も望ましい、明日はどっちだ?
今回の話、舞台裏の説明なので、もしかしたら書かなくても良いかもと思いながら書いていましたら、滅茶苦茶迷走してしまいました。
次の話はもう少しスッキリとしたいものにて。




