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『 かくも長き負債 』(天文十六年、夏)

 遅ればせながら、皆様、はっぴー・にゅー・いやーにて候。

 本年も何卒宜しく気長にお付き合いを願いたく存じまする(平身低頭)。

 トンテキ……を訂正致しました(2020.01.10)。

挿絵(By みてみん)


 住み慣れた慈照寺から相国寺内の塔頭、林光院へと引っ越しをしてから三ヶ月。何だかんだとあったけど、過ぎてみれば光陰矢の如しだった。

 旧居も新居もどっちも寺なので気分も環境もあまり変わらないかと思ったが、やはり違う。広さはかなり縮小したので何だか気分もせせこましくなったような。

 まぁ仕方ないか。

 東山の一角を内包する都市郊外の別荘を前身とした慈照寺と、都会の一隅に建てられた寺院を比べる方がおかしいのだ。建物の性質が違って当然当たり前。

 ともあれ、何事もなく夏真っ盛りの頃になれば隠居所が完成する予定だ。隠居所へトンチキ親父殿が引っ越したら、今度は“花の御所”の修築が始まる。

 俺が“花の御所”の正式な家主となるのは早くても秋半ばだろうか。細川氏の馬鹿野郎共の傍迷惑な争いが悪影響を及ぼさなければもっと早まるかもしれないけれど。……まぁ馬鹿野郎共に期待するだけ無駄か。

 さて環境の変化は構造物だけの話ではない。屋内での事情が別次元なのだ。将軍家世子時代は役割を伴わぬ身分だったから、毎日がプライベート最優先の甘えた生活に終始出来た。

 ところが今は仮であっても公邸で寝起きする日々。現任将軍なのだから当然だけどね。公邸生活ってのはプライベートなど雀の涙以下、自重しろと毎日毎晩宣告され続けるようなものだ。

 その証左として仮御所には昼夜の別なく実に様々な人間が出入りしている。慈照寺ならば、気の置けぬ近しい者達の顔だけを見て過ごせば良かったが、仮御所ではそうはいかぬ。

 夜明けと共に開門したら、日没と同時に閉門するまで実に多くの者共が出入りするのだ。将軍の御座所とは、公的機関だから当然だけどな。色々な揉め事を解決して欲しい、ってな訴えが飽きもせずに毎日持ち込まれるのである。

“畿内の何処其処で誰々が誰々の土地を掠め取ったので何とかしてくれ!”

“アイツとコイツの主張のどちらが正しいのか裁定をしてくれ!”

 色々とはいっても基本的にはこの二種類に集約されるのだけど。

 現在のところ、内容が簡易な案件は政所で伊勢に処理してもらっている。拗れた案件はここ仮御所で……と言いたいところだが()に非ず。“花の御所”にて大館常興ら内談衆の面々とトンチキ親父殿の合議にて裁定を下していた。

 ガキんちょのオレや政務経験値ゼロの近習上がりの側近衆達にどうこう出来るはずないしな、これもまぁ当然と言えば当然のこと。

 しかし最終決済は俺がせねばならぬので、政所や“花の御所”詰めの奉行衆の誰かが裁定案を記した文書を仮御所まで運んで来るのだ。進士美作守以下の公儀幹部候補と共に、その日の運び役の奉行衆から文書の内容をレクチャーしてもらうのが毎朝の日課だったりする。

 大まかなレクチャーが終われば裁定に至る経緯で理解の及ばぬ部分を丁寧に教えてもらい、納得がいけば与四郎や弥四郎などが書いた“将軍家としては別紙の通りに裁定致しました”的な定型文の添え状に署名をするのだ。

 何れは決済印だけで済ませてやろうと思うが、現時点では無理なのでいちいち名と花押を認めねばならぬ。おい、添え状の墨が乾いてねぇぞ、袖が汚れたじゃねぇか! ああ畜生め、面倒臭いな、手が痛い。

 奉行衆が来る時は概ね一人であるが、極稀に訴訟の当事者を伴って来たりもする。将軍の言葉を聞かなきゃ納得出来ねぇ、とかぬかす阿呆が稀にいやがるのだ。

 どうにも面倒ではあるが引見し、“その方に理があった故に”とか“決して蔑ろにしたのではない、不服を覚えるべからず”などと安堵させる為の“御声掛”とやらをしなきゃならない。

 それで刃傷沙汰を起こさず、それなりの謝礼を納めてくれるのだから、直接声をかけてやるくらいのサービスはしないとねぇ。訴訟の裁定や訴訟以前のトラブルシューティングは、公儀の大事な収入源。将軍なる職の実態とは、単なるサービスマンなのかもしれないな。

 訴人は皆、御客様。神様だと持ち上げやしないが、安くても銭十貫文に相当する謝礼を献上してくれる何とも有り難い御客様なのだ。ビバ、宋銭、明銭、一掴みの小粒銀に一袋の砂金。ああ誰が為に金はある、ってな?

 尤も……有難くないヤツも出没するけどな。

 例えば、日本全国の主な守護大名が常駐させている京都雑掌達。朝な夕なに御機嫌伺いと称しては現れる他国からのスパイ共。せめて仕えている大名家の家紋を背中に背負ってくれたなら、ああ今日もスパイ活動御苦労様と思え……るかっ!

 しかも鬱陶しいことに京都雑掌の奴らって地味と派手の二種類しかいないってことだ。派手な奴はアピールが上手く如才ないので邪険にし辛い。一方で地味な奴はいつどこにいるか判らないので始末に困る。

 慈照寺では限られた数人しか小者を配置していなかったので全員の顔を把握出来ていたが、仮御所には様々な役割を与えられた者達が働いているので、紛れ込まれるともう誰が誰だかさっぱりだ。冗談抜きで、YOUは何しに仮御所へ、である。

 細川与一郎に尋ねたら百人前後の小者が働いている……らしい。らしい、ってのは公儀が雇用していない者も働いているからである。

 雇用していないのに働いている者達は、京都雑掌やその手下を除外すれば、武家伝奏の勧修寺尹豊さんの家人だったり、山科言継卿の部下だったり。

 勿論、サー・マザーや近衛稙家伯父さんが手配してくれた者もいた。

 身内関連では他に義俊伯父さんの大覚寺、覚譽伯父さんの興福寺、道増伯父さんの聖護院や熊野三山に連なる者達もしょっちゅう出入りしている。

 宗教関係者なら、惟高妙安禅師や大林宗套師らが手配してくれた者達も。

 よく見れば微妙にデザインの異なる墨染め衣姿に兜巾をつけた修験者らが屋内外を問わずウロウロとしているので、ここが何宗の施設だったか判らなくなってくる。確か……臨済宗だよな。

 俺個人と契約している多羅尾・山中・山岡の各忍び衆も正門裏門床下天井裏と様々な所から出入りしていた。大っぴらに顔を見せていないのは河原者くらいだな。

 つまり何が言いたいかといえば仮御所は目下絶賛、スパイ天国ってことだ。人種ではなく職種の坩堝である。

 慈照寺と同じく“四姓平等”と惟高禅師に書いてもらった墨痕鮮やかな大板を入り口にぶら下げているので、京の町衆や商人達も気兼ねなく敷居を跨いでいた。

 恐らくはトンチキ管領が送り込んだ輩もいるに違いない。

 三好長慶麾下の和田新五郎改め池田五郎左衛門もチョコチョコと顔を出すし、三好政長の子である神介輝勝は未だ俺の大事な側近のひとりだ。

 丹波国人の赤井五郎次郎輝直や上野国人の長野五郎輝業が故郷への音信を欠かしていないのも知っているし、俺と契約中の忍び衆が本来(あるじ)と仰ぐのは六角定頼である。

 呉越同舟どころではない、国連状態の仮御所。

 以前はある程度まで情報のコントロールが出来ていたが、もうこうなっては情報統制など出来よう筈もない。恐らくは寝言すらも包み隠さずダダ漏れなのだろうな。オフレコのオの字すら存在しないフリースペースである。

 と、いうことはだ。

 太原崇孚と北条宗哲らに対して愚痴ったことの全てが、外部の関係各所へと流出してしまっているのは自明の理。将軍就任早々から、何とも無様な醜態を晒したことだよなぁ、全くさ。

 “細川晴元に殺されちゃうよ~~”などと泣き言を口走るとは、情けないにもほどがあるよね?

 出回った情報には俺が今川・北条・朝倉三家の重鎮と親密になった、ってのもあるだろう。東海や関東の太守と幾ら仲良くなろうとも、畿内情勢には何の付与もしないだろうがな。

 だが、朝倉氏が領する越前国は畿内の頭上に君臨する大国だ。

 越前国と国境を接する近江国の支配者は、俺の烏帽子親である定頼。その娘はトンチキ管領にして細川京兆家当主たる六郎の野郎の正室なので、定頼はトンチキ管領の岳父となる。

 そして現在の将軍家はトンチキ管領と明確に敵対関係となってはいないものの、かなり疎遠となっていた。定頼としてはさぞかし頭の痛いことであろうなぁ。

 因みに。

 近江国の東隣にあるのは美濃国。現任の守護は土岐頼純だけど実質的に支配しているのは後の道三こと、斎藤山城守利政。守護より偉い守護代様だ。

 利政が然様な立場に成れたのは前国主であった土岐頼芸を合法的に追放出来たからであり、合法的手段であるとお墨付きを与えたのは俺だったりする。

 直接的には連帯していなくとも、多大な貸しが存在しているのは事実。今の立場を手放そうとしない限り利政は俺を粗略にすることはないだろう、きっと。


 俺の記憶が定かならば、史実では今頃確か……将軍家は細川京兆家とガッツリ敵対していた。トンチキ親父殿は将軍在世時に東山の一角に強固な城砦を築いて幾度か篭っていたりする。通達なしの築城とは即ち、無言ながら雄弁な宣戦布告であった。

 何故に然様なことをしたのだろうか?

 それはトンチキ親父殿のライバルである足利義冬を晴元が保護していたからである。……しかも現在進行形で。

 どうして六郎の野郎が義冬なんかを保護しているのか?

 その理由を理解するには、日野富子が生きていた頃にまで遡らなければならない。長い長い物語を理解しなければならないのだ。世の中って本当に、面倒臭いよね?


 管領畠山氏の家督争いで火が点き、九代将軍の座を巡って大炎上して、うやむやの内に鎮火したっぽい応仁の大乱。九代目の座をゲットしたのは、八代義政の弟の義視ではなく息子の義尚であった。

 これで無事落着と思いきや、九代義尚は享年二十五歳で継嗣を残さず頓死。後継者に困った将軍家は、義視の息子を八代義政の養子とすることで解決を図った。十代義材の誕生である。因みに母は日野富子の妹だ。

 就任当初から独自性を発揮しようとした十代義材は前管領の畠山政長と協調路線を選択する。だがそれは日野富子と管領細川政元の二大実力者の意に添わぬものであった。

 日本中に蔓延した争いの火種を消すことを期待されたのに、新たな火種を作ってしまったのだから、十代義材って奴は本当に度し難い人物である。……まぁ足利家のダメな血を引いているのだから仕方ないともいえるけど。

 そんな奴など不必要だと勃発したのが“明応の政変”、十代将軍追放劇である。首謀者は勿論、日野富子と細川政元。これもある種の下剋上だろうなぁ。何やってんだか、お偉いさん達は!

 公儀の枢要に嫌われた義材は越中国へと出奔、十一代目に据えられたのは義遐(よしとお)。八代義政の弟で、鎌倉府ではなく伊豆国に御所を構えた堀越公方政知の息子だった。

 坊主だったのに諸般の事情で無理矢理に還俗させられたのは義視と一緒だが、違ったのは将軍に就任出来たことである。先行きは不安で不透明だけどね。何故なら就任間もなく、後ろ盾のひとりだった日野富子が死んじゃったからさ。

 残る後ろ盾は細川政元のみ。こいつが中々の豪腕であったのが義遐から義高に改名していた十一代将軍にとって大吉であり大凶となる。

 大吉の卦は、細川政元こそが公儀の実質的な主体となることで政権が磐石になったからだ。大凶の卦は、細川政元が永正四年に暗殺されたことで政権が瓦解してしまったのである。安泰だった将軍生活は、僅か十五年でジ・エンド。

 理由は判らないけれど、政権運営八年目に義高は義澄へと改名していやがる。

 そして始まる義材の大逆襲。訂正。こちらも改名しているので義尹の大逆襲だった。諸国を放浪し、山口に腰を落ち着けていた義尹は庇護者である中国地方の太守の大内義興を焚きつけ、上洛戦を開始する。

 西国から押し寄せる大軍に恐れを為した十一代義澄は将軍職を投げ出し、六角氏を頼って近江国へトンズラ。序でに朝廷の信も失ってしまう。宙に浮いた将軍職は、再び義尹のモノとなった。世にも珍しい再任劇だよなぁ。

 こうして応仁の大乱の再演の如く、天下人の座を巡る争いが始まったのだ。

片や前将軍義澄をトップに戴くグループ。中枢は若さゆえの過ちで細川京兆家当主の座から放逐されたばかりの澄元。支えるは成り上がり者なれど名将の誉れ高き三好之長。後は赤沢とか高畠とか薬師寺などのまぁまぁクラス武将達。

 片や現将軍義尹を御輿と担ぐ西国連合。中核は当然ながら管領代の大内義興。他には管領モドキの畠山尚順と、京兆家当主の座を掠め取ったばかりの細川高国。後は摂津国や丹波国の国人達。

 争いの推移はやはり現将軍優勢で進んでいたが、高過ぎる自尊心を抑えきれぬ義尹が大内義興と仲違いをしてしまう。 これはチャンスと前将軍グループが攻勢をかけるも、細川澄元と三好之長の間がギクシャクしていて不調に終わる。

 決め手を欠いたまま争いはダラダラと四年続くが、遂に決戦の時を迎えた。知っている人は絶対に知っている永正八年夏に行われた船岡山合戦だ。二十一世紀の日本人ならば99.999……%が“知らねぇよ”と答えるであろう、マジでしょぼい戦いである。

 何故、しょぼいのか?

 それは開戦直前に義澄が病死してしまったからだ。現代人の感覚なら大義名分が死んじゃったのだから“もう止めよっか”となっても可笑しくないのだろうけど、室町武士達は戦いを止めようとはしないのだから始末に負えないよな、全くもう。

 しょぼい戦いは無意味に勃発した。そして大義名分がお亡くなりになられていた側が当然のように敗北する。戦い済んだらノーサイド。両陣営は義尹の将軍職を確定させ、義澄の遺児二人を子供のいない義尹の養子とすることで和睦とした。

 ……何だそのオチは?

 それはともかく、その義澄の遺児二人が何を隠そうトンチキ親父こと義晴と、そのライバルとなる義冬だったりするのだ。


 母親が定かではない遺児二人。生まれた場所は父親の逃亡先である近江国であったが、育てられた場所は別々の地であった。亀王丸は播磨国守護の赤松義村の元で。亀王は阿波国守護の細川之持の元で。

 ……子供の名付けくらいちゃんとしてから死ねよ、義澄。信長の名付けよりも雑過ぎるだろうがよ!

 ネグレクトも大概にしやがれ、ろくな死に方しねぇぞ、この野郎!

 まぁ実際、ろくな死に方しなかったけどな。はっはっはっは、と笑えねぇよ全くもう。

 さてそれで。親を亡くした乳飲み子二人が洛中から遠く離れた地でスクスクと育っていた頃、洛中ではバカがバカをやっていた。

 バカの名は? ……言わずと知れた、義尹である。

 権威以外に何も持たぬ名ばかり将軍であるにも関わらず独裁権を欲した義尹は、大内義興と細川高国の後援者二人と対立してしてしまったのだよ、バカだねぇ。しかも怒らせたことにビビッて近江国へと逃げ出す始末。本当にバカだねぇ。

 その上、大病を発して死亡説が洛中に流布するが、どうにか生還。厄払いの心算なのか、名を義稙に変更しての帰還であった。どうせなら義馬鹿にすれば良かったのに。

 やがて中央政界のアレコレに嫌気が差した大内義興は、軍勢を引き連れて帰国してしまう。それを好機と見た細川澄元は逼塞していた阿波国からまたもや挙兵。ライバル細川高国の軍勢を鎧袖一触、蹴散らしてしまった。

 急転直下の事態に義馬鹿、訂正、義稙は更にバカをやらかす。

 やらかしたバカとは細川高国と袂を分かち、澄元との提携を結んだこと。しかもその提携が裏目となったことだ。勢力を取り戻した細川高国が細川澄元をあっさりと追い払ってしまったのだから、何ともはや。

 例え風見鶏と嘲られようと機を見るに敏であるのがリーダーの資質なのかもしれないが、残念なことに義稙は目の付け所がシャープではなかった。控え目に表現すれば、おっちょこちょい。食パン咥えて疾走し、十字路で霊柩車に跳ねられるような慌てん坊さんだ。但し、愛されキャラでは決してない。

 愛されキャラではない理由は、目的の為には手段を選ばず、選んだ手段の為に目的をコロコロと変え捲くったからだ。それで愛されたのなら、世の中の不条理に吃驚だぜ!

 ……でもこの現実を省みない性質って、足利氏のDNAにガッチリと埋め込まれたものじゃなかろうか?

 十三代義輝がしくじって室町幕府を崩壊させ、十五代義昭がしくじって室町幕府がバッドエンドを迎えるのも、足利氏のDNAの為せる業だったのかも。


 そもそも論になるのかもしれないが、室町幕府は鎌倉幕府の完コピを目指した政権であった。焼き直しと言ってもいい。

 征夷大将軍とは天皇の権威に準拠して日本の土地を全て支配する存在である、ってのが将軍家の理解である。守護に任じるとは、将軍家に仕える対価としてその土地で上がる収益を給料として与える、って意味だ。

 だが守護に任じられた側の認識は違う。与えられたのは収益のみならずその土地もだ、そう了解したのである。

 将軍の権勢が強かった三代義満の時代までは武家の全てがその権勢に平伏したので、理解と認識の齟齬は目立たなかった。或いは気づかなかったのかもしれない。

 だが齟齬に気づいた者が現れた。気づいたのは誰あろう四代義持である。気づいたが故に、四代義持は天下の調整役であることに徹したので、二十八年に及ぶ長期政権を維持出来たと俺は思う。

 六代目を継いだ義教も齟齬を見逃しはしなかったが、天下の調整役ではなく天下の支配者たらんとした。受取った天意でもって強権発動し齟齬を克服しようとしたが、失敗する。高が籤引き如きでは、時は逆行しないのだ。

 八代義政は齟齬に抗うことを早々に諦めたので五十五歳まで生き長らえたが、九代義尚は若気の至りに任せて抗い父の半分に満たぬ年齢で生涯を終える。そして十代義稙は、齟齬を認めようとしなかった。

 迷走と錯綜を繰り返した十代義稙の一生は現実無視、現実逃避の結果だろう。

 折角、奇跡的に再入手した将軍職の地位なのに、細川高国と対立したことで失ってしまった。伊勢氏をはじめとした政所の奉行衆や奉公衆にも見限られ、淡路国に逼塞した後に阿波国で頓死する。享年五十八歳とか。

 将軍職は細川高国の差配でトンチキ親父殿に与えられる。十二代義晴、爆誕!

 その一方で、十代義稙が拗らせた恩讐の念は、阿波国で元服した義維に引き継がれてしまった。観応の擾乱以降、幾度も繰り返されてきた兄弟並び立たずの再演である。

 兄弟とはいうもののトンチキ親父と義維は、どちらが長男で次男なのかはよく判っていないらしい。というのは、両者が共に“自分こそ長男である”と主張しているからで。……どうやら腹違いながら、ほぼ同時期に生まれたようなのだ。

 では何故にトンチキ親父殿が将軍になれたのかといえば、細川高国の都合だったらしい。阿波国から義維を招来するより播磨国にいたトンチキ親父殿を呼び寄せる方が手っ取り早かったから、ってのが真相のようだ。……マジかよ?

 ということは、もしもトンチキ親父殿と義維の養育先が逆であったら、俺は十三代目ではなかったってことになる。当に歴史の悪戯ってヤツかもね?

 若き将軍を迎え心機一転した室町幕府。さぁ新政の始まりだと誰もが思った途端に中断を余儀なくされる。讒言を真に受けた細川高国が部下を一人粛清しちまったのだ。それが切っ掛けとなり内紛が勃発。洛中はてんやわんやとなる。

 まさかまさかのチャンス到来。

 阿波国で虎視眈々と機会を窺っていた細川晴元の野郎は、そう思ったに違いない。晴元の野郎と阿波国兵に担ぎ上げられた義維は十二代義晴を近江国へ放逐することに成功、朝廷より次期将軍職を確約する身分である従五位下左馬頭に任ぜられた。

 拠点は洛中ではなく摂津国。ご存知“堺公方”の誕生だ。

 勢いに乗る堺公方府は、大物崩れの戦いで細川高国を討ち取り天下制覇まで後一歩……のところで大いに躓く。

 細川京兆家を力ずくで相続し、トンチキ管領に昇格した晴元の野郎が配下の有力者である三好元長を自害に追い込んだからだ。超強力な配下を粛清したことでトンチキ管領は戦力が低下。それが原因で堺公方府は呆気なく崩壊する。

 ……細川高国の失態は反面教師にならなかったのか? もしかして真正のバカなのじゃなかろうか、細川京兆家ってさ。

 まさか、自らが苦心して創り上げた権力構造を自らのつまらない嫉妬心で物理的に木っ端微塵に砕くとは……。

 よりによって万単位の一向一揆を扇動するとは……。

 どう考えても頭オカシイとしか思えないが、それが細川京兆家のDNAなのかもしれない。言うなれば、偏狭と嫉妬心に塗れた夜郎自大主義。足利氏のDNAも大概アレだが、細川京兆家のDNAも異常であるとしか思えねぇ。マジ最悪、ド最低。

 そんな異常者とは一緒にお仕事出来ませんとでも思ったのか、或いは命の危険を感じ取ったのか、義維は将軍職に未練もなくスタコラサッサと遁走する。現住所は阿波国平島荘。

 こうして義維は足利氏の恒例行事たる改名もして、義冬となりましたとさ。どっとはらい、めでたくなしめでたくなし。


 ……ということを記録片手に教えてくれたのは毎度御馴染み、伊勢伊勢守貞孝だ。

 改めて思うけど、応仁の大乱が停戦してから今日までの約七十年もの間、日本各地が戦乱に見舞われていても一定の秩序を保っていられたのは、伊勢氏を筆頭とする奉行衆が政所を運営し続けていてくれたからだ。

 もしも伊勢氏と奉行衆がいなければ、洛中はとっくの昔に廃墟と化していたかも、と背筋が凍るぜ。秩序を維持しようとする者達がいない世界とは、筋肉ムキムキな救世主が大暴れする世紀末そのものなのだから。ようこそクレイジーな時代へ、ってか。

 征夷大将軍とは本来、秩序の象徴である。

 実態は実に現実的な政治の思惑が生み出した肩書きだとしても、時の帝から委託された権限を行使することを許された唯一の存在だ。

 そんな秩序の象徴が、個人的都合や情勢の不穏を理由に首都から逃げ出しても権威を失わずに済んだのは、権威の源を維持管理する行政機構が懸命に努力してくれていたからだ。

 明瞭な言葉で俺の不明に答えてくれた伊勢に対し、自然と頭が下がってしまうよ。俺がしでかしたことじゃないけれど、過去の将軍家の行いを恥と思い、深く謝罪しよう。堪忍してね、ゴメンなさい。

 軽々に頭を下げるものではござりませぬ、という小言を聞き流していたら不意に浮かんだ素朴な疑問。


「細川京兆家は、阿波国の叔父御を如何にする心算であろうか?」


 すると伊勢は無表情となり、貝のように口を閉ざしてしまった。

 ……理由は聞かなくとも判るけどね。

 義冬の存在意義とは、トンチキ親父殿を都合良くコントロールする為だ。“意に添わなきゃ排除するぞ、テメェの替わりはいるのだからな”って脅しのコンテンツだ。代替わりして俺が将軍となった今でも、義冬の存在意義に変化はない。

 トンチキ親父殿とその直系である俺が……将軍である限り。

 六郎の野郎が絶対無敵の権力者であれば、俺もトンチキ親父殿もとっくの昔に排除されていただろうなぁ。だって俺達親子はトンチキ管領の意に諾々と従うような玉ではないからだ。

 事実、トンチキ親父殿は六郎の野郎の為すことに不服を覚える度に、近江国へと飛び出している。もう何度も何度も。俺自身も世子の頃から直接的に接触するのを避け続けている。茨木長隆の野郎を介して神経を逆撫でしたこともあったなぁ。

 それで判ったがトンチキ管領は、やはりどうしようもないほどにトンチキな野郎なのだ。

 意気地もなければ根性もない。十代の頃は考えなしにやらかす馬鹿だったが、二十歳を過ぎてからは考え過ぎて何をやるのも後手後手の病的な臆病者となっている。“羹に懲りて膾を吹く”に手足をつけたような奴なのだ。

 思い通りにならぬ事態に対処しようとするも即断即決が出来ず、暫く考えても思案が纏まらず、口から出るのは愚痴ばかり。小田原評定の見本みたいだね、全く。

 ならば、排除されることはないだろう。況してや殺されるようなことは絶対にないな。トンチキ管領の腐った性根、確と見極めたぜ……って今更か?

 排除も殺害も成功しようがしまいが、汚名が終生付き纏う行為である。

 父祖の勝元や政元みたいに汚名を甘んじて受けられる程の度量なんぞ生来持ち合わせていやしないのが、トンチキ管領という男。妬みと嫉みは歴代最強レベル。非難されるのが超絶に大嫌い。甘言だけを耳にして生きていたい、骨の髄まで腐った野郎だ。

 だから俺はみっともないくらいに大声で騒ぎ立ててやった。

 殺されもしないし排除もされないと判ったからだ。史実の通り、外聞を気にするあまり何をするのも躊躇する野郎なのだ、当代のトンチキ管領様は。

 それでも万が一ってことがあるかもしれぬと一応は、三好長慶に三好政長というトンチキ管領配下の主力二人の意識に無形の働きかけをして、六角定頼という御意見番を味方につけるって保険をかけた上でのやらかしだけど、ね。

 大丈夫に胡坐を掻いて大丈夫じゃなかったら、トンチキ管領以下の馬鹿だと笑われてしまうからな。

 更に一朝ことある時は、トンチキ管領の悪名が畿内の外にも伝わるような状況も整えてあるし。

 俺にとって最悪の事態が発生すれば、今川氏と北条氏は絶対に“細川晴元は天下の大悪人だ”と非難をするだろう。朝倉氏や斎藤氏も尻馬に乗り、唾を飛ばして騒ぎ立てるに違いない。

 例え非難表明に実行力が伴わないとしても、トンチキ管領は弾劾されることを恐れるのは確実である。

 これで当分、俺のすることに予期せぬ横槍も余計な掣肘も入らないだろう。嫌味や陰口くらいは言われるだろうが、少々の嫌がらせは承知の上である。要は俺が排除出来ぬ邪魔が入らなきゃ良いのだ。転ばぬ先の杖、重戦車に乗ったバカには分厚い地雷原、ってね?



「身共は御役に立てましたでしょうや?」


 帰途に立つ直前、挨拶に訪れた太原崇孚はニヤニヤしながらそう言いやがった。こちらの小細工などお見通しですよと言外に匂わせながら。


「御言葉に耳を貸すだけならばこの老体、幾らでも使うて下されまし」


 旅支度を整えた北条宗哲もまた似たような表情をしていやがる。

 畜生、何だか悔しいなぁ。


「向後も何かと頼りに致すが故に、皆々息災で過ごすべし」


 悔しいけれど、今の俺は何も言い返せないや。まぁ精々長生きしてくれ。俺の為にも、仕える御家の為にも。少なくとも崇孚は史実よりも寿命を延ばし、東海一の弓取りと讃えられた今川義元が簡単に討たれるような事態は回避しておくれ。

 東海地域を誰に任せるべきかを随分と考えてはみたけれど……やっぱり義元に任せるのが一番だ。考え抜いた結論は、今川氏ほどに得難き藩屏は他にない、だった。然れば今川氏には駿河・遠江・三河の三カ国の太守として後五十年は頑張って欲しいものである。

 尾張国は織田信長に任せてもいいが、美濃国まで手に入れられたら六角氏と北畠氏がヤバくなるからね。苦心惨憺して定頼と親密になったのだ、いざという時の避難場所である近江国は平穏無事にしておきたい。

 北畠具教君は……あまり苦労しなかったけど、伊勢国が治まっていれば畿内から関東までの通商航路に余計な気を回さないで済むってものだ。洛中と堺の経済圏は西の九州、東の関東と連動していなければ盛況とならないからな。

 あ、そうだ。具教君を焚きつけて志摩国の支配権も磐石にしといてもらおう。確か北畠氏の支配に抗おうとした志摩国人領主は九鬼氏だけだった筈。懐柔策でも良いし完璧に攻め滅ぼしてくれても良いし、判断は具教君に任せよう。

 いや、待てよ。

 上洛を命じて志摩国から引き抜いて直臣に取り立てるのも一つの手か。今は海に面した領地がないけれど、摂津国を丸まる一カ国直轄地に出来れば何とかなるやも。トンチキ管領に叛旗を翻して独立した三好長慶との間で折半になるかもしれないが、それでも尼崎辺りで五万石くらい渡せば靡くやも。

 靡かなければ……その時はまた、などと考えたところで思わず苦笑してしまった。哄笑しても良かったのだが人前だったので我慢する。

 如何なされましたか、と崇孚と宗哲が俺の顔をマジマジと見詰めた。“安心せよ、狂うた訳ではない”と言ったら余計に不審な顔をされてしまう。

「御初代、等持院殿様以来のよしなしごとに思いを馳せておっただけである。鬼籍に入られた御方々も苦労されたのであろうな、とな。さぞや、取り越し苦労に振り回されたのであろうなぁ」

「取り越し苦労……でござりまするか」

「ふうむ」

「然様、取り越し苦労よ。

“人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず”

 ……いずこの何者が残したかは知らぬが、然様な申しようがあるそうな」

 誰だったっけ……って、あ、徳川家康の人生訓じゃねぇか。しまった、先取りしちゃったぜ、まぁいいか!

「“不自由を常と思えば不足なし

  心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すべし

  堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え

  勝つことばかり知りて、負くること知らざれば、害その身に至る

  己を責めて人を責むるな

  及ばざるは、過ぎたるより勝れり”……であったか。

 誠に至言なりと余は思うが如何だ?」

「当に」

「然り然り」

「余が思うに“重荷”とは“苦労”であろう。人が苦労するは至極尤も。然れば苦労とは当人の分限次第であると存ずる。如何に重かろうと背負えぬ重さではなかろう。

 然れど、取り越し苦労は苦労とは質の異なるものである。取り立てて背負う必要のなき苦労なり。故に人は取り越し苦労を背負いかねてしまう。

 さて道端に捨て置かれた取り越し苦労を背負おうとするは誰ぞ?

 後から道を進む者、言うなれば“今を生きる者”であろう。

 余の小さき背には果たして如何ほどの重荷が載せられておるのやらと、そう思うたが故に笑うてしもうたのよ」

 ははぁなるほど、と感心した声を上げた崇孚も、然様でござりましたか、と得心いったとばかりに頷く宗哲も、口元が大きく緩んでいた。他人事だと思いやがって畜生め!

「笑いごとに非ず。余は十三代目ぞ。途方もなき重荷であるとは思わぬか?

 いっそのこと、見て見ぬ振りして横道に逸れたいものよ。

 ところで治部大輔は何代目であるか?

 相模守とて、討ち滅ぼさんとしておる鎌倉府や関東管領家がこれまで致して来たことの先にあるこれからを背負わねばならぬのであるぞ。

 他者を排し、他領を奪うとは、そこにある全てを背負うことであるとは思わぬか?」

 苦笑いを口の端にへばりつけて言ってやったら、崇孚も宗哲も二人の随行員達も誰も彼もが眉間に皺寄せ静まり返りやがったぜ、けっけっけ、ざまぁみろ!

 ……どうだ、笑い事じゃねぇだろうが?

「何とも因果な身よの、代々続く御家を継ぐとは……そう思わぬか?」

「……全く以て」

「……厳しきものにござる」

「その方らが手伝い支えねば、治部大輔も相模守も脆くも潰れてしまうやもしれぬでな。当代が音を上げてしまわぬよう、その方らも怠らずに励むべし。

 余にこれ以上、余計な重荷を背負わせぬよう尚一掃働くべし」

 “良いな?”と本堂の上段から睥睨すれば、下座の者達は“身命を賭しまして”と這い蹲るように額づいた。

「身命を賭すも良いが、命を長らえる方が肝要であると余は思うがな。主の為にと従が望んで先立たば、残されるのは重荷を前に途方に暮れる主ではないのか?

 武士は命を惜しむな名をこそ惜しめ、などと申すが、死ねば必ず花実が咲くとは限らぬぞ。時には、名よりも命を惜しむ方が良き場合もあろう。

 例え行く道が険しくとも、一時は名を貶めることになろうとも、命を惜しんで歩み続けるが後々には大輪の花を咲かせることあると、各々は肝に銘じるべし」

「大樹公は……誠に元服間もなき御身にてござりまするか?」

「まるで我が父……早雲庵の如き物言いにて」

 見開いた目を丸くする東海と関東の者達へ見せつけるように、俺は唇を三日月型に捻ってやる。

「何なら余の袴を捲り上げて尻の青きを確かめてみるか?」

 そして堂内に響けとばかりに呵呵大笑してやった。

「“門前の小僧、習わぬ経を読む”とか。肯んぜぬ童であろうとも大寺の境内を遊び場として時を重ねれば、勝手に学ぶもの。

 況してや余は童形なれど、従四位下左馬頭の位を授かりし征夷大将軍ぞ。形ばかりの烏帽子を被った童と侮るでないぞ!」

 ちょっと声を強めてやったら、崇孚も宗哲も他の者達も“恐れ入りまして”と一様に平伏する。

 何だか気持ちいいな。戦国時代の大物達をマウントするのは。妙な快感に目覚めてしまいそうだぜ。

 ふふん、と軽く鼻を鳴らして廊下の方に目をやると、胡乱げに俺を見詰める与一郎が片膝ついていた。何だよ文句あるのかよ、と言おうとしたが与一郎の真後ろで困ったような顔をした数人が控えているのに気がつく。

 彦部又四郎と一色七郎は手ぶらであったが、石成主税助と見知らぬもう一人は山のような書類を抱えていた。

「大樹、そろそろ宜しいでしょうか?」

「いや見ての通り、客人の相手をしておるので……宜しくないな」

「はて、お客人とは?」

「それ、そこに……」


 いなかった。気づけば崇孚と今川家臣団も宗哲と北条家臣団も誰一人として。おのれいつの間に遁走しやがった。武士の風上にも置けぬ名折れ共め。主の主を見捨てるとは何たることか!

 重荷を代わりに背負えとは言わないが、せめて俺が重荷から逃げ出す手伝いくらいして行きやがれ、畜生めが!


「大樹の裁可を頂戴せねばならぬ物が、これこの通り。然れば時が惜しゅうござりまする。又四郎殿、七郎殿、大樹を御部屋と御連れもうせ。主税助、十兵衛、急ぎ御部屋へと書状を運ぶべし」

「いや待て、与一郎。遠来の客人を戸口にて見送るは亭主の務めで……」

「又四郎殿、七郎殿、丁重に……せずとも良いから、大樹を御運び致せ」


 しかし何だね、重荷ってのは物理的法則を伴うと、単なる暴力だね?


「与一郎、余はほとほと疲れたぞ。そろそろ眠くなってきのだが……」

「眠る暇なぞございませぬ。今日の御勤めは今日の内に済まされませ。先送りなど(それがし)が許しませぬ」

 昨年はマジで法務繁多で大晦日までてんてこ舞いでした。もう休む間も無いくらいで。

 処でマジック・ザ・ギャザリング(=MTG)って面白いですね。

 夏の話を一話で済ませようと書いていましたら長くなってしまい、MTGって面白いですね、こりゃイカンと分割して手直ししていましたら、MTGって面白いですね、時間がかかってしまいました。

 次話は少しでも早くと、MTGって面白いですね、頑張りまする。

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― 新着の感想 ―
[一言] MTG、僕はやった事無いですね(´∀`;) しかし相変わらず文章量が多くて尊敬致します 足利の将軍は・・・1、3、8、13、15代目くらいしか僕も知りません(苦笑 そう言えば、この大樹はい…
[一言] 拝読いたしました。 あの時代の足利将軍家がマジでグダグダなのに、幕府がつぶれなかったのはなんでなんだろうと思っていたのですが、奉行衆が何とか頑張ってくれていたからなんですね……。 勉強になり…
[良い点] MTG面白いですよね(財布からめを背けつつ) [一言] お待ちしておりました!
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