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『 バイタル・カウントダウン 』(天文十五年、秋)

どうにか投稿!

来月は例によって御盆月なので、いつ投稿出来るやらです。

さて本文中、六角氏の系図については以下のHPを参考にした妄想ですので悪しからず。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/rokkaku.html

一部改訂致しました。誤字を訂正致しました(2019.07.31)。

誤字報告に感謝を(平身低頭)(2019.0807)。

 坂本に滞在すること早、一ヶ月。

 連日連夜の饗応に浮かれ騒ぐ山科卿や、日焼けなのか酒焼けなのか判別出来ぬ赤ら顔の大館常興実ら将軍の側近たち。トンチキ親父は、二日酔いを隠し切れぬ陰鬱な顔で、湖西に行ったり湖東に行ったりしている。

 ひとつ所で尻を暖められぬ落ち着きのなさは、生来のものか育ちによるものか。将軍家の来し方から類推すれば後天性だろうな。安住出来ぬ環境に慣れてしまった所為と考えれば、何と悲しい人生だろう。正にモルモット人生だ。

 それにしても貴賓って立場は気楽な稼業だなぁ……などと以前は思っていたけれど、実情を知った今では違う。饗応を受けるのも、彼方此方へと赴くのも遊びではない。全てこれ“政治”なのだ。

 酒を飲んだり遊山に出かけたり、歌会を開催したり茶会に出席したりするのも、全てこれ政治なり。誰と会い、誰と会わなかったか、どんな会話をしたか、しなかったか。全てが政治的活動の一環なのだ。

 俺も将軍に就任したら就寝中以外の時間を全て政治活動に費やさねばならないってのは、何て大変な職務だろうと思う。プライベートが皆無だなんてブラックどころか、お先真っ暗な激務だよな。

 権力の代表や権威の象徴とは、恐ろしいばかりの職責を背負わねばならぬ、得るものよりも失うもの多き御勤めなり。成果を出して当たり前、少しでも不利益を出せば叩かれる立場。不利益を出さなくとも成果を出さなければ、ボッコボコだけどね。

 今更だけど……嫌だなぁ、将軍職って。

 就任したくないなぁ。今からでも覚慶とチェンジ出来ないかな?

 無理だろうな。

 だってキャンセル料金は俺の命となるのは想像に難くないし。二の足を踏みながらムーンウーォークすれば、それは処刑台への一本道だ。それが嫌なら否が応でも進むしかない。

 ……などと愚にもつかぬことに思いを馳せていられるのは、逃避行の割には緊張感の欠如したままの日々を過ごしているからである。

 正直これで大丈夫かと心労で倒れそうだよ、本当に。

 てんこ盛りの不安を抱えたまま、今日も今日とて西教寺で怠惰な……訂正、情報収集に腐心し吟味する生活を送る俺。そりゃあもう一生懸命さ。自分だけではなく側近たちの命運もかかっているのだから。俺の死はイコール側近たちの死だ。

 全員揃い枕を並べて討ち死となれば恐ろしいほどの人材破棄となるな、もったいないオバケに祟られそうだな。……もしかしたら何人かは落ち延びられるかな。山科まで逃げ出せたなら近江国まで直ぐそこだ、何せ側近の多くが近江国出身者なのだから。

 近習たちだと和田伝右衛門と新助兄弟、多羅尾助四郎と山口甚助兄弟、河田九郎太郎と九郎次郎兄弟、木村半兵衛、速水兵右衛門、山中甚太郎、山岡次兵衛。供侍なら滝川彦右衛門、藤堂虎高、田中久太郎、脇坂外介、中村孫作。

 現在、彼らは身近にいない。助四郎と甚助と河田兄弟と兵右衛門と虎高と孫作は美濃国に滞在中で、彦右衛門は堺にいる。それぞれ継続案件に従事中であった。他の者たちには一時休暇を申し渡したので、それぞれの故郷へと帰宅中だ。

 もっとも単なる休みではなく人材の宝庫といえる近江国内での人材発掘も命じてある。特に久太郎と外介には子作りにも励んでもらわないと。でなければ豊臣政権で大名となった田中吉政や脇坂安治がこの世に生まれてこないもの。

 有能な次世代誕生のためにも頑張れ久太郎と外介。山科卿から分けて貰ったイモリの黒焼きや鹿の角を活用しろよ。何なら彦右衛門や天王寺屋の助五郎に申しつけて朝鮮人参なども取り寄せてやるからさ。

 命じたのは人材発掘のみならず畿内情勢の推移を推測するための情報収集もだ。人伝に聞く範囲でもトンチキ管領と氏綱の争いは激化の一途、雌雄を決するには程遠い模様。翻って近江国内がどうかといったら、こっちものほほんとはしていられない状況にある。

 京極氏の被官の立場を脱しようと悪戦苦闘中の浅井氏。矢鱈とちょっかいをかけてきやがる隣国の朝倉氏と斎藤氏。定頼が治める南近江の平穏さに対し、北近江は炎上寸前といった感じで。

 しかも最近、浅井氏当主の久政が何者かの手により手傷を負わされたらしい。もしかしたら以前に俺が唆したことを真に受けた定頼が何か手を打ったのかと邪推したのだけど、どうやら純粋に不純な動機を抱えた身内での諍いが原因だそうな。

 まるで青春時代を満喫する青少年のように、あっちでもこっちでも武将たちは戦国時代を存分に楽しんでいるようである。全くどいつもこいつも、トリガーハッピーなウォーモンガーばかりで何よりだよ、畜生め!

 それはそれとして左様な訳で。

 傍で寝起きしているのは三淵弥四郎と細川与一郎兄弟、遠縁の親族の彦部又四郎、高五郎右衛門、大館十郎、一色七郎、松井新左衛門、荒川勝兵衛、蜷川新右衛門、石谷三郎左衛門、眞木嶋孫六郎、小笠原又六、池田弥太郎、赤井五郎次郎、三好神介、長野五郎ら近習たち。

 何れも元服前の若党ばかり。

 大人の立場で傍にいるのは傅役の三淵伊賀守と近習筆頭の進士美作守と供侍の石成主税助と、居候の大胡武蔵守の三人だけである。傍仕えの人数が半減し、護衛役の供侍が一人っきりとなるのは無用心過ぎないかと与一郎たちに訊かれたが、俺は問題ないと一蹴した。

 理由は二つ。一つは少年たち全員が来年には近習ではなくなるからだ。

 父親あるいは親族が奉公衆として“花の御所”に出仕している者は、元服後は将軍家直属の武官としてそれなりの役割を与えられるのだ。弥四郎と与一郎兄弟、又四郎、十郎、七郎、又六の六名が該当する。

 同じく父親あるいは親族が政所に出仕している者は、元服したら奉行人見習いとして政所へ配置転換となる予定だった。和田兄弟、五郎右衛門、新左衛門、勝兵衛、新右衛門、三郎左衛門の七名がそうである。

 他にも帰宅して実家の跡目を相続したり、親の手伝いをして当主見習いとなる者もいた。助四郎と甚助兄弟、甚太郎、孫六郎、弥太郎、五郎次郎、五郎の七名がそうだ。

 前者グループは幕府の未来を支える官僚となって貰いたいし、後者グループには幕府を盛り立て守る藩屏的存在になって貰わねば。期待しているぞ若者たち。

 因みに近習たちの元服は新年早々、小正月の日である睦月十五日、昭和の成人の日を予定している。

 以上のことは既に彼らの保護者たちへ通達済みだ。関係者は全員集合すべしと。だが問題なのは五郎次郎の赤井氏と弥太郎の池田氏と神介の三好氏である。三氏共に現時点では将軍家が敵と認定した陣営に属しているのだから、ねぇ。

 まぁ、“これは俗事に非ず、信義に基づく祝賀の祭典なり”と大上段に思いつくままの弄言を並べ立て伊勢伊勢守や三淵たちを煙に巻き……訂正、諮問して消極的了承を得ていた。勿論“花の御所”にもお伺いを立てたがトンチキ親父の返答は“自侭にせよ”であったので問題なしだ。……だよね?

 敵陣営には池田五郎左衛門経由で三好長慶に親書を送ってあるので大丈夫だろう、多分きっと。誰が来るかまでは知らないけれど。もしも保護者が欠席ならばそれはそれで仕方がない。

 来られない可能性が高いといえば実家が遠い五郎だが、大胡武蔵守に保護者代理をさせれば万事OK。次善の策としては三淵か進士に命じて、実家の方でも略式ながら元服式を執行すると決していた。これで手抜かりはないはずだ、恐らくな。

 さてもう一つの理由は、六角氏への配慮である。

 我々将軍家は斯様に無防備ですよアピールの一環なのだ。常興ら内談衆や相伴衆たちの配下も身の回りを世話する小者がほとんどで、武張った雰囲気の厳つい武者面の者などは連れていない。内実は武芸の手練れが多くいるけれど、表面上は最小限の戦力しかいないのである。

 何れは“剣聖”に進化する予定の人物もいたりするけど、今は無名だから以下同文。

 落ちぶれて、影すら侘し、案山子かな。……トホホのホ。

 将軍家も応仁の大乱直後くらいなら、ここまでの取り繕いをせずとも良いほどの盛名があったのだよ。事実、九代義尚が近江国へ来た時は大軍を率いていたのだも。それが今では六角氏の本拠地間近にある湖東の禅寺で、城主の顔色を窺うのが関の山というのが何ともはや。

 ああ、そうそう。

 将軍様は今、仮宿の西教寺でも定宿にしている湖西の朽木谷でもなく、観音寺城という巨大な山城の裾野にある桑実寺に滞在中。もう十日ほどになるだろうか。仄聞するに連日連夜、城主と押し問答をしているそうだ。

 話題は何かといったら、俺の元服に関することでだった。

 誰かに説明されるまでもなく、武家に生まれた男児が元服をするってのは個人にとっても一族にとっても重要案件である。近習たちの元服に関して苦心と腐心をするのも主君としては当然の行為。やらなきゃ雇い主としては失格だからな!

 人間性なら失格しているかもしれないが、例えそうだとしても今は別に問題ではない。当座の問題は、俺の元服はただの元服ではないってことだ。


 トンチキ親父は今年中に将軍位を俺に譲る心算である。それは規定路線として近江国への同行組にも周知されている。西教寺に来て三日目の晩に、酒盃を掲げながらトンチキ親父が赤ら顔で宣言しやがったからだ。

 酔っ払っていうことか?

 既に耳打ちでもされていたのか、常興を筆頭とする“花の御所”組は平然とした顔で一斉に平伏し、おめでとうございまする、と唱和してくれた。三淵と進士も同じく真面目くさって頭を下げる。はいはい、有難うよ。

 その日の宴席で初耳だったのは近習たちと山科卿のみ。少年たちと可笑しなお公家さんは驚愕の表情を浮かべた後、笑み崩れた顔でお祝いを述べてくれたのに対しては、何とも面映い思いをしたけれどね。


“式典は冬至に挙行致すべし!”


 者共頭が高い、史実様の御通りなるぞ、平伏せよ!

 いざいざ人生終了のカウントダウンがスタートだ。……これで余命は残り二十年ほどか。

 残り時間を過ごす中で史実に沿いつつも場当たり的に抗えば、これまでと同じように未来をコントロール出来るに違いない。難易度はゲームセンターのクレーンゲームと同じくらいだろうか? それなら何とかなるだろう。

 黒田や真田や柳生や長野といった不確定要素もあるし、関東や九州とも交流がある。史実の義輝が活用しなかった宗教勢力や経済界という後ろ盾があり、手足となって働く忍者たちや河原者たちもいた。

 残り時間と培った人脈を掛け合わせれば悲観する必要はなさそうだ。どちらかといえば、将軍になりたくない、などと公言した場合の方が永禄年間を迎える前に殺される可能性が高いよな。

 今更ながら、背負わされたモノよりも自らの行いで背負ってしまったモノの重さに気づき狼狽する。我ながら弱腰根性に泣けてくるよ。

 やれ仕方ない、頼りない橋脚を重過ぎる責任でガッチガチに固められていると思うのだ、思えよ、思い込め。さぁどうだ、少々の力で叩いたくらいじゃ揺るぎもせぬ石橋になっただろう?

 くだらない自己暗示でも、毎晩就寝時にかけ続ければ少しは心が落ち着くってものだ。ああ分かったよ、なってやろうじゃないか、なってみせますとも、立派な室町幕府の将軍様に!

 目指せ六代義教……は縁起が悪いから、三代義満越えを狙ってやろうじゃないか!!

 などと気負い込んだはいいけれど、元服の式典とは実に大事な儀式ごと。“なりまーす!”“どうぞどうぞ”で行えるような御飯事(おままごと)ではありやしない。

 元服は別名“加冠の儀”ともいう。

 内容をざっくりと解説すれば、昔は髪型と衣服を童形から大人用に改めて大人の象徴たる冠を被るといったものである。室町幕府成立以降は特権階級のみならず民間にも普及している儀式だった。庶民たちは冠のかわりに褌を締めるのだけど。

 武家社会では公家社会に習い、冠に順ずる烏帽子を被る。烏帽子を被らせる役を“烏帽子親”といい、成人する童子の後見役と看做される役割だ。慣例だけに管領が勤めることになっている。ギャグであって欲しいが事実は事実。

 トンチキ親父の号令後、式次第と役割が奉公衆たちにより順次整えられていく。

 惣(=総)奉行に任命されたのは摂津摂津守元造。幕府官僚の古株で、種子島にまで遠路遣いをしてくれた摂津中務少輔の親父さんだ。

 摂津氏の出自は公家の中原氏。朝廷においては明法の家として知られ、鎌倉幕府創業の際、大江氏と共に文官として支えた有能な吏僚の家系である。その子孫である摂津氏も室町幕府にて有能な行政官として働いてくれていた。

 奉行衆の地位を息子に譲り渡した摂津摂津守は、奉公衆の一員に転身しトンチキ親父の行政秘書を務めている。惣奉行役には最適の人選だ。摂津守の指導の下で庶務を司る元服奉行には、松田丹後守晴秀と飯尾前大和守尭連(あきつら)の二人。

 松田氏も飯尾氏も鎌倉時代には六波羅探題に出仕していた事務官僚の家系である。松田氏の祖先は桓武平氏、飯尾氏の祖先は大江氏・中原氏と並ぶ鎌倉幕府の高級文官たる三善氏だ。更に補足すればどちらの家も過去に政所執事代を幾人も輩出している。

 摂津摂津守に松田丹後守に飯尾大和守、三人が三人共に先祖代々由緒正しき能吏の血筋を受け継いだ者たちであった。何て素晴らしい安心材料だろう。

 だがしかし、肝心要の“烏帽子親”役が未定である。何故ならば管領がいないからだ。

 トンチキ管領とはつい先日、手切れとなったばかり。将軍様が敵認定した者を慣例だからといって指名する訳にはいかない。かといって京兆家当主でもない次郎氏綱に依頼することも無理だ。

 氏綱が実力で以って六郎の野郎を打倒し京兆家を相続出来たのなら問題ないが、そこまでのことは望めそうもない。圧倒的に戦力が足りないし、何よりも細川一族の他の者たちが承服しないだろう。

 では、どうするのか?

 示された解答は、やや斜め上のものだった。“現管領に任せられないならば任せられる管領を作ればいいじゃないか!”という逆転の発想。まるでパンがないなら菓子を食え的で、ブルボン王朝も吃驚だ!

 解答に合致する人物として選ばれたのは近畿地方において最も実力を備えた男、六角弾正少弼定頼であった。スイーツとは程遠いハードでビターな戦国大名である。

 人生終了のカウントダウンがスタートした翌日の朝。酒臭い息と一緒に定頼の名がトンチキ親父の口から吐き出されると、幕臣たちは申し合わせたように膝を打った。大きく頷いたのは常興、“妙案なり”と口走ったのは奉公衆筆頭の摂津摂津守。

 奉公衆次席の斎藤越前守や申次衆の本郷左衛門尉などは、直ぐにでも座を立って観音寺城へと駆け込まんばかりに鼻息を荒くしていた。

 肝心の俺のリアクションはといえば、肩を軽く竦めるのみに留める。いや、前世から知っていた事実なので何を今更、って気分だったのは内緒だ。そして史実でだと、定頼は再三辞退を申し出て中々首を縦に振らなかったことも知っている。

 結局は承諾してくれるのだけどね。

 ……とはいっても、よく引き受けてくれたものだと思うよ。六角氏の歴史を鑑みれば“NO!”と突っぱねても誰も文句いえないのだからさ。


 ざっくりと歴史を遡れば、六角氏は将軍家の仇敵となっていた時期がある。

 今から約六十年前、九代義尚の頃がそうだ。六角氏十二代目当主だった高頼は近江国内での支配権を拡充する過程で幕府の奉行の所領や寺社領を横領した。それを咎とした幕府が討伐軍を派兵し、攻められた高頼はやむなく逃亡生活を送った経緯がある。

 所謂、“(まがり)の陣”だ。

 凡そ十年に及んだ交戦は、総司令官の九代義尚が陣没したことでうやむやな終戦を迎える。その後、十代将軍に就任した義材が発した赦免により剥奪されていた近江国守護の肩書きを、高頼は再び手にしたのだった。

 ああ良かった、めでたしめでたし……では終わらないのが室町時代の戦国乱世なり。高頼の家来たちが寺社領の返還を拒んだため、今度は十代義材の命を受けた軍勢が襲来だぜ、オーマイガー!

 高頼の望まぬランナウェイ生活はワンス・モア・アゲインだよ、トホホのホ。

 そんな時に室町史に残る青天の霹靂が発生、まさかの家臣による君主取り換えっこ騒動だ。歴史用語でいうところの“明応の政変”だよ、大変だぁ♪

 明応二年の春に管領の細川政元、応仁の大乱時の東軍の総大将の息子にして現トンチキ管領の祖父、が十代義材を放逐して義高を十一代として担ぎ上げたのである。

 因みに十一代義高の親父は、初代堀越公方の政知。義高は幼い頃に出家して天竜寺で坊主をしていたのだけれど、無理からに還俗させられちゃったのだ。出家号は清晃、還俗後は義遐(よしとお)、そして義高を名乗り、後に義澄と改名。

 ……何ともややこしいね。室町時代って、どうしてこうも改名するのだろう?

 業界再編時の銀行、或いは平成の国政政党みたいだよな。トマトだとか青空だとか、新生だとか新進だとか、よくもまぁコロコロと適当な名付けをしたものだ。

 という訳で、突如として混迷し出した中央政界に高頼は勝機を見出す。そりゃあもう大暴れさ。途轍もない暴れっぷりに十一代義高はもうお手上げ、懐柔するために又もや近江国守護の地位を差し出したのだった。

 高頼、アイル・ビー・バック!

 以後も各地で大暴れして名を馳せた高頼が冥土へ旅立った後、六角氏の当主に就任したのは長男の氏綱。北条氏二代目でもトンチキ管領のライバルでもないよ、六角氏十三代だよ。病弱で短命だったので、表舞台からあっという間に去ってしまったけどね。グッバイ、氏綱。

 さぁお待ちかね、真打の登場だ。いよっ待ってました、定頼!

 実は定頼も義高と同じく出家者だった経歴の持ち主である。吉侍者を名乗り、何と相国寺にいたのだった。何事もなければそのまま坊主で一生を終えたかもしれないが、当主となった長兄が病に倒れると相国寺を出て当主代行に就任。

 肩書きから代行の二文字が消えたのは、早死にした長兄が後継者を残さなかったからだ。子供はいたのだよ、男の子が一人。しかし身分の低い妾腹の幼子だった。残念ながら六角氏の立ち位置は幼い庶子を当主として戴くのを許さなかった。

 氏綱の血筋は分家となり、本家相続権は還俗した次弟の許へ。思わぬ形で十四代目を襲名した定頼の、苦労と実りの多き人生街道のスタートだ。その道程は、偉大なる父と長兄が高めた家名を些かも損なわず更に拡大すること、ただそれのみ。

 その方法とはズバリ、幕府に対し比類なき忠誠心をみせることであった。

 西国の最大勢力たる大内氏の後援を得た義尹に改名した十代義材が捲土重来を果たせば、その政権に参画。更に名を義稙と改め将軍職に復帰した義材が再び失脚すれば、管領の細川高国に協力して十二代義晴……トンチキ親父擁立に奔走する。

 高国が義晴と対立して敗死すると今度はトンチキ管領に娘を嫁がせて紐帯を深めることで幕府の一翼を担う役目を背負う。背負った役目を十全に果たしたのが所謂“天文法華の乱”の時なのだ。

 他にも政所で扱いかねる案件に対し裁決を下したりと、軍事だけではなく政治にも能力を遺憾なく発揮し、名実共に頼れる存在に成り上がったのである。以上が定頼の立身出世の物語。

 さてそんな六角氏と、我ら将軍家との切っても切れないグニャグニャな歪んだ関係。トンチキ親父からすれば定頼は現時点において最大の庇護者である。では、六角氏からすれば?

 定頼は将軍家及び幕府に好意的だが、家臣たちまでがそうであるとは限らない。

 権威は高血圧でも収入は低血糖気味の将軍家。はっきり言えば、金食い虫の貧乏所帯である。そんな貧乏ったれを接待をするってことは、滞在費全てを六角氏が丸抱えするってことだ。一度や二度なら名誉であると思えるが、度重なれば名誉など屁ほどの価値もないだろう。

 逃亡先は主に坂本か朽木谷。坂本は比叡山の支配する城下町もどきの門前町で、朽木谷は国人領主の朽木民部少輔稙綱の領地である。朽木民部少輔は幕府官僚の一員、奉公衆だ。最近は無断欠勤が目立つけど。

 六角氏が直接支配する地域ではないので無関係だと無視をすることも出来る。しかし本当に無視してしまえば、畿内における定頼の名声は地に落ちることとなるだろう。

 今の定頼は将軍を輔弼する立場、実質的にはトンチキ管領よりも管領らしいポジション、正式な肩書きを伴っていないだけで限りなく天下人に近しい地位にいるのだから。

 尾羽打ち枯らした将軍様がお膝元にいるのに何もしないでいられる訳がない。陰に日向にと援助をするのが当然である、と外野は見る。外聞と体面を何よりも重んじる武士という生き物は、常に美名で己を飾らねば生きていけない悲しい生き物なのだ。

 例え相手が始末に終えぬ厄介者であろうとも、無下にしては家名が廃ると考えるのが武士の武士たる所以なり。

 そうはいっても六角氏家臣団からすれば堪ったものじゃないのも事実。

 何故かといえば簡単なことで、将軍様ことトンチキ親父が近江国へ逃げ込むのは常にトンチキ管領と揉めた時であったからだ。定頼としても女婿と上司の板ばさみになるのは、大事だよね。


 さてこの当時の……今現在の大名家とは、プチ中央集権化を果たした近世大名ではない。親兄弟ですら油断は出来ぬ寄り合い所帯の一番手でしかないのが中世大名だ。大名として踏ん反り返っているだけでは、簡単に寝首を掻かれてしまう。

 ゆえに大名は家臣団の統制に細心の注意を払わねばならない。ちょっとでも気に入らないと思われた途端に、離反されたり謀反を起こされたりするのだから恐ろしい時代だよ中世は。

 六角氏もまた御他聞に漏れず有力な家臣団を従えつつ、支えられていた。

 家臣団の代表は“両藤”と称される進藤山城守貞治と後藤但馬守賢豊だろう。“両藤”に平井加賀守定武と蒲生下野守定秀と三雲新左衛門尉定持と目加田摂津守綱清を加えれば、“六宿老”となる。

 他にも定頼の代将格である永原越前守重隆。猪飼佐渡守宣尚をはじめとする堅田衆の首領たち。忘れちゃいけないのが、無料レンタルさせて貰っている多羅尾一党や山岡一党の忍びたち。何げに人材豊富だよな、六角氏って。

 教科書的には無名でもピンポイントでクローズアップすれば優秀過ぎる人材ばかり。視点を変えれば失政即謀反の方程式が成立し易いってことだ。しかも優秀な人材の起こす謀反だから、主家にとっては致命傷となること請け合いである。

 最悪の答えは下剋上の御約束たる、主君弑逆だよねー。

 例えとして大内義隆や織田信長の名前を出さずとも、直接の部下じゃない下っ端にぶっ殺された足利義輝って奴がいるからな、あっはっはっはっは……笑えねぇよなぁ、笑えないけれど、ことの推移が史実通りに着々と進んでいるのは、手放しで喜ぶべきなのだろうなぁ。ちょっと癪な話だよ、全く。


 一抹どころではない不安を抱えつつも、心配を杞憂に成長させないように努めていた今日この頃だ。それなのに、嗚呼それなのに。俺の無駄な足掻きに似た努力を嘲笑うかのように新たな心労の種がひょっこりと芽吹きやがるのだ。史実だけじゃなく現実も少々俺に手厳し過ぎないか?

 例えば、今日のこと。

 冷たい秋風が寒い北風に替わろうする時分にもかかわらず、俺は盛大に汗を掻いていたりした。九割方は冷や汗だよ、畜生め、風邪を引いたらどうしてくれよう!

 などとは思っちゃいるけど口には出さない分別盛りの俺は、背中を濡らす冷や汗に眉をしかめながら、お客さんたちを前に亭主の席で昂然とふんぞり返って……いや訂正、ふんぞり返っているように見せかけていたのだった。

 戦国の世に名を馳せた超大物を前にしていたのである、これで平常心を保てといわれても無理だとしかいいようがないよね?


「柿食えば、鐘が鳴るなり……相国寺」

 先ずは発句をと記録係に急かされて無理やり捻くり出したらば、座の空気がズドンと超絶に重くなったのを感じたよ。やはりパクリは駄目だったか。寺院名変更も、こすっからい策だと見破られたのかな?

 それじゃあ撤回して別の句を……ってそれが出来たら苦労はない。

「当方寡聞にして存じませぬゆえ武野様にお尋ね致しまするが……相国寺に梵鐘はございましたか?」

 初対面の記録係の大男の問いに、顔馴染みの武野一閑斎様が至極真っ当な茶を立てながら回答される。

「さて、先の戦乱にて鐘堂も焼け落ちたのは存じておりますが、再興されたとは聞いておりませぬ」

「なるほど。……あるがままを詠みしものと思いましたが然に非ず、往古を忍びしものでありましたか」

 記録係の呟きに応じたのは、これまた初対面の者たち。

「今は昔、でござりまするな」

「左様左様。相国寺の鐘の音が洛中に殷々と響いておったのは、創建当初でござりましょう」

「“鹿苑院の法皇(=足利義満)”様の御代にござりまするなぁ」

「意を慮れば、何とも物悲しきかと」

「“あはれ”でござりまする」

「よう申した、如何にも“あはれ”なり」

 どうしようかと思っている間に場の流れが取り返しのつかぬ感じになってしまったよ、どうしよう?

此方(こなた)は良き発句だと存ずるが、如何なりや?」

 それまで黙っていた山科卿が初めて口を開かれると、ただ一人を除く全員が“誠に”と首を縦に振りやがったよ、オーマイガー。しかも追い討ちがあったのだ。よりにもよって一閑斎師が“晴れる()”などと申される。

「はて、そは如何な御言葉にござりまするや?」

 止せばいいのに、一同を代表して疑問を呈したのは大男。それに対し一閑斎師は茶筅を置いて微笑まれた。もう止めて、いわないで!

「いつぞやのことでございましたが、慈照寺にての会席にて若子様が御教え下さったのでございますよ。当たり前が当たり前でないと気づいた心の有様は、足下の影ばかり見て暮らしておったのが、実はお天道様がこの身を照らして下さっているのである事に気づくようなものである、と。

 天よりの光は御仏の光も同然、我が蒙を払って下さる智慧の御光、晴れやかな世界を見せて下さる尊き慈悲の御光であると。ゆえに“晴れる哉”と」

「これはしたり!」

 大男が声を上げれば、俺も大声を上げたくなる。

「「「「「晴れる哉!!!!」」」」

 出席者のほとんどが強かに膝を叩くけど、俺は膝どころか床を叩いて暴れ出したくなった。これ以上の辱めは止めて下さい、御免なさい。金輪際適当なことはいわないから、もー勘弁して下さい。

 恨みがましく一閑斎師を見遣れば、我関せずと涼しい御顔。流石に殺意を抱くほどではないけれど。全身から溢れ出しそうな羞恥心を必死で我慢しつつ、座に連なる者たちを伺えば感心頻りといった感じなのが何ともはや。

 いやいや皆さん、高がガキんちょの他愛ない戯言、うっかり者の仕出かした言い逃れですよ。俺なんかより盛名高き皆さんの方が素晴らしい御言葉や御歌を数え切れぬほど残しているでしょうが?

 居並ぶ面子、宗養(そうよう)師と里村昌休(しょうきゅう)師の御両所は当代一級の連歌師だ。連歌の巨人として一斉風靡した父宗牧(そうぼく)師亡き後、連歌界をリードしているのが宗養師で、その良きライバルが昌休師だった。

 辻玄哉(げんさい)は昌休師の弟子だが、茶人としては洛中では名の知られた風流の者。都で一二を争う呉服商、墨屋の主人らしく俺よりも上等な衣装を着ていやがるのが何とも癪である。

 比叡山塔頭菜樹院住持の全宗(ぜんそう)師とは恐らく、後の施薬院(やくいん)全宗だろうな。室町時代最高の名医、曲直瀬道三の医術の後継者として曲直瀬一門の纏め役となり、豊臣秀吉の主治医となった人物だ。

 そして記録係の大男、松井紹巴(じょうは)師。今は無名に近いが里村の苗字を受け継いだ後は、織田信長をはじめとして全国の主な戦国大名と交流を持つほどの名声を掴み取った男である。本能寺の変では明智光秀との連帯を疑われたり、秀次事件に連座して蟄居させられたりと、有名税は高くついたみたいだけど。

 彼らに比べれば無名の極みにいるのが武士の親子だろうか。父の名は佐々木近江守義秀、息子の名は日斎。名前も地味な二人だけれど、座の中では最も気を使わねばならぬ親子である。

 何故ならば、義秀の父親は六角氏綱なのだ。六角氏の後継者となれず分家に甘んじているのは納得済みの事案であろうか、とついつい顔色を窺ってしまう。坊主みたいな名前の息子は俺と同い年だというが、どこか悟ったような風格は俺よりも大人に思える。侭ならぬ環境が人格形成に作用したのかも?

 ならば日斎よりも侭ならぬ環境にある俺の人格は、誰よりも高潔であるに違いない、うん多分きっとそうだ。

 さてところで、何故にこれほどまでに多彩な人物がここに揃っているのかといえば、都落ちで無聊をかこつ将軍家を慰めるため山科卿が人脈を駆使した結果である。というのが一応、世情に配慮した表向きの理由だけどね。

 本当の理由は俺の味方、近衛家を中核とした同志からのメッセンジャーが一同に会しただけだったりするのである。

 宗養師のパトロンは近衛家、昌休師は惟高妙安禅師とツーカーの仲で、紹巴師の亡き父は興福寺に仕える小者であった。玄哉は、小一郎の後藤家や四郎左衛門の中島家、与兵衛の吉田家ら洛中の商家と密接な間柄で、桔梗屋の取引相手の一つだ。

 俺とは初対面となる四名の橋渡し役として態々同行してくれたのが、一閑斎師。

 薬種を通じて山科卿と知己である全宗師は、彼ら来訪者の真の意図を隠すためのカモフラージュ要員で、佐々木親子は定頼からつけられた俺専用の接待兼監視要員だった。皆様お役目ホントにホントにホントにホントにゴクローさん!

 そんなこんなで、出だしでいきなり躓きかけた連歌会であったが何事もなかったようにスタートする。口火を切ったのは“昔恋しき、秋風ぞ吹く”と詠われた宗養師。更に“人住まぬ、尾上宮(をのへのみや)の、花薄(はなすすき)”と昌休師が続かれる。

 さてこうなれば、ド素人の出る幕はない。俺はただただニコニコとしながら連歌の名人達人たちによる言の葉の空中戦に耳を傾けるだけだ。同じく日斎も口を噤んでいるが、瞳の輝きからするとワクワクしっ放しのようだった。

 間髪入れずに応酬される何とも雅な合戦。こんなに平和な戦いならウェルカムだよなぁ。宗養師や昌休師には敵わぬものの、一閑斎師も全宗師も玄哉も呻吟しつつ参戦中。意外と善戦しているのは佐々木近江守。息子の手前、いいトコ見せないとね♪

 血沸き肉踊るわけでもないが真剣勝負で、和気藹々でなくとも親密な空間。開始してからどれくらい経ったのかも判らぬほど観戦に熱中していたら、不意に“御無礼仕ります”と囁かれた。

 何事かと思えば、廊下で控えていたはずの与一郎が脇で片膝ついている。おや、いつの間に。

「如何した?」

「観音寺城よりの御使者がお目通りを願っておられます」

「左様か」

 手にしていた空の茶碗を床に置き、膝前に置いていた扇子を握って床を軽く叩く。

「誠に申し訳なきことながら、方々暫時お静かに」

 目で合図を送ると、与一郎は衣擦れさえ立てぬ所作で下座へと進み障子戸を開き、廊下の向こうへと手振りする。やがて、一人の男が入室して来た。毎度御馴染み進藤山城守。今日も今日とて冴えないおっさん然としているよなぁ。

 その風采の上がらぬ顔立ちには親近感を覚えるが、油断しちゃいけない相手であるのも重々承知である。型通りに平伏するや団栗眼をクリクリとさせながら、またもや軽い無茶振りをしてきやがった。

「主、弾正少弼が世子様と面談致したきと願うておりまする。適いますれば今夕にでもと」

 え!? 今が昼過ぎだから……観音寺城まで出かける支度を考えたらそんなに時間がないじゃねぇか。

「如何でござりましょうや?」

 御免、今日は忙しいから明日にでも……とは言い出せないオーラがプンプンだよ。今の俺には何があろうと定頼からの申し入れを断れないと判っていての発言だよな、畜生め。無茶振りでも無理難題じゃないのがイラッとするなぁ。

「相承った。余が参れば良いのか?」

「いえいえ滅相もござりませぬ。弾正少弼がこちらへと参上仕りますゆえに」

 団栗眼がギラリと光る。獲物を射竦める猛獣の目だ。いい加減慣れたとはいえ、戦国武士特有の凶眼から早く無縁な環境で過ごしたいよね。本当に心臓に悪いもの。このままじゃ暗殺される前に不整脈でも起こして死ぬかもね?

「……然れば弾正少弼に疾く伝えるべし。首を洗って待っているとな」

「有難き幸せ。左様に申し伝えまする」

 え、マジで? 冗談だよ、進藤の返事も冗談だよね?

 恭しく一礼するなり振り返ることなく去って行く進藤山城守。ちょっと待って、ちょっと待って。今気がついたけど、進藤って重臣中の重臣だよね。何でメッセンジャーなんかをやってるのだ?

 もしかしてマフィアのボスが下す死亡宣告的な何かか!?

 朝起きたらベッドの中に愛馬の生首が転がされているような?

 やれ助かった、俺には愛馬がいないや……いや、そうじゃなくて!

 引き攣る頬を両手で押さえながら座を見渡せど……誰も目を合わせてくれないんでやんの。皆が俯き加減で難しい顔をし、黙りこくっている。まるで“考える人”の在庫置き場みたいだな。


 やがて最初に動いたのは“(それがし)も失礼致しまする”と発した佐々木近江守だった。息子を促し機敏に立ち去る姿は、誠に戦場往来者らしい所作だ。貶しじゃないよ、純粋な賞賛だよ。嫌味も随分と混ぜたけどな!

 次に腰を上げたのは与一郎。“お迎えの支度を差配致しまする”と一閑斎師を誘って出て行った。おうおう、頼んだぞ。頼みたくもないけどよ!

 “おおそういえば用事がございました!”と裏返った声を出したのは、山科卿。全宗の手を掴むやいなやドタドタと雅さの欠片もない有様で退出しやがる。ワザとらしいのも甚だしいが、責めるのもアホらしいので黙って見逃してやった。

 正真正銘のメッセンジャーである洛中の風流人たちも“明日また改めて参上仕りまする”と平伏するなりそそくさと立ち上がる。はいはい、また明日ね。

 そして誰もいなくなりました、とさ。

 進藤の言動が素人の俺にも判るくらいに不穏マシマシだったのだ、そりゃあ戦国時代のリアリストたちは即座に安全圏へと逃げ出すよなぁ。出処進退の鮮やかさに、舌打ちをする気も起こらねぇや。

 ……やっぱり覚慶に手紙を書こうかな。

 胸の鼓動がドキドキ、目先がクラクラ、心が負けそうなので将軍職を謹んで進呈致します。兄はどこか遠くで慎ましく暮らさせて戴きますので、どうか探さないで下さい云々。

 ……駄目だろうな。他の手はないかな。どうすれば後少しで始まりそうな面倒事から逃げ出せるのかな。ああ俺もトンチキになりたいなー。嘘、嘘、なりたくねーや、そんな者には!

 小説や漫画で別世界に飛ばされた主人公たちは、どうやって逆境に立ち向かう気持ちを持ったのだろうか?

 平和大国の日本から血みどろの世界へと送られたのに、どうして平然としていられるのだろうか?

「やっぱり、環境になれるしかないのかな。今いる世界の常識に身を任せるしか解決法はないのかな」

 与一郎が呼びに来るまでの間ずーっと俺は、板敷きの床で大の字になりながらウダウダと現実逃避に没頭していたのでありました、めでたしめでたし。

 ……って、ちっとも、めでたくねぇけどな!

宗養師や昌休師の句は、連歌集『愚句老葉(ぐくわくらば)』より引用致しました。

佐々木近江守の息子・日斎君は、後の木食応其上人です。

高野山中興の祖である応其上人は出自不明でありますが、佐々木義秀の息子説を採用致しました。

義秀を氏綱の孫ではなく子としたのは、日斎が菊幢丸と同い年(1536年生)だからです。

系図によると、氏綱は1492年生、子の義実は1510生、孫の義秀は1532年生とありますが、それだと日斎を義秀の子とするのはどう考えても無理なので。

系図自体が信頼性が低いようなので、実際はどうなのかは不明のようです。ややこしやー。

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