『 裸とランチ 』(天文十四年、冬)
色々と書き過ぎて、削ったら減らし過ぎて。丁度良い按配って難しいですね。
因みに今回記載の童謡は、1923年に作詞作曲されたものですので、大丈夫だろうと思う次第にて。
一部、改訂致しました(2018.12.01)。サブタイトルを変更致しました(2018.11.30)。
さぁ皆さん、『戦国世界の料理ショー』のお時間ですよ。
今日のお料理は皆さん御馴染みの、兵糧丸です。
では材料と分量を言いますのでメモのご用意を。
材料として餅米、適当。蕎麦粉などの穀物製粉、適当。豆類、適当。魚類の乾物を粒状にしたもの、適当。梅干、適当。松の実、適当。胡麻、適当。薬草各種、適当。山菜や菜っ葉類、適当。その他、適当。
調味料として塩、適当。蜂蜜や甘草、適当。酒類各種、適当。植物性油、適当。
材料を適当量、磨り潰した後に調味料を適当に混ぜ合わせ、食べ易い大きさの団子を作って適当に乾燥させたら出来上がりです。
栄養素やカロリーを優先させた保存食ですので、美味しさや食べ易さに期待しないで下さいね。
では、またお会いしましょう♪
なーんてな……って、適当だらけかよッ!?
本当に人類が食すべきレシピか!?
昭和のSF映画に出てきた原色が目にキツイ錠剤や、見た目最悪なペースト状の食事の方が、まだ美味そうに思えるぞ!!
幾ら戦場が極限の世界だからって、糧食で極限に追い込むとは何てことだ!?
という訳で、俺の最近の趣味は美味しく食べられる兵糧丸の作製である。何故そのような趣味を持つに到ったのか? それは新たな派遣計画に端を発する物語である。物語るほどの内容ではないけれど。
近衛家が薩摩国へ使者を下向させるのに合わせて、龍造寺氏の御曹司と佐々木下野一党を送り出す準備を始めたのは先月のこと。いざ準備を始めたら次から次に問題が山積みであるのに気がつく。発覚した問題の大半は、装備に関してであった。
もしかして南北朝の騒乱時期から使い続けているのか?
などと疑いたくなるほどに古臭くて古びた佐々木下野親子の兜に甲冑。一党の下っ端たちの具足もボロいな。刃研ぎはされているものの、切れ味までは保障されていない刀と槍。弓も大分ヤバげじゃないか。
ハイ、一新しましょう!
佐々木下野一党の下宿先である清水寺まで刀鍛冶を呼びつけ、甲冑師を呼び出して、装備を誂えさせる。費用は勿論、こちら持ちだ。刀に槍は数打ちよりはマシな物を。兜に甲冑は特注品ではなく既製品をレストアした物を。具足は上質な中古品で勘弁してもらおう。
後は何が必要なのか、と佐々木下野と相談していた最中に兵糧丸の話となった。俺は口にしたことがないので早速賞味してみたが……。はっきり言って不味い。オブラートに包んだ言い方をすれば、ゲロ不味だ。
ふざけるな! こんな物、食えるか!
僅かに齧った兵糧丸を庭に投げ捨てた俺の心に、闘志が燃え上がった。おお、自炊の鬼と知り合いに讃えられた俺の心が激しく沸き立つ。このエグ味、ハ・ラ・サ・デ・オ・ク・ベ・キ・カ!!
何が何でも味を調えなければならぬ何事も為さぬは食の冒涜なりけり、だ。
どうすれば美味しくなるのか?
やはり薬草の類と菜っ葉類の混合比率を考えなければ。このままでは青汁味ではなく青虫汁味だもの、ゲロゲロゲロ。
幸いにして多羅尾の御蔭で薬草や漢方薬の種類には困らないが、今は冬の初め。季節が季節なので菜っ葉類は手に入りにくいから今は無視だ。それでは早速、配合しましょう調合しましょう。
多羅尾の配下で薬種の専門家を派遣してもらい、アドバイスを受けながらの地道な作業。慣れぬ手つきで薬研を使い、色々な薬種をゴリゴリと。俺の転生先って徳川家康だったっけ、などと錯覚してしまうくらいに熱中したよ、泉殿で毎日毎日。
そんなある日の、今日のこと。
俺はトンデモナイ配合比率に辿り着いてしまった!
思わず“ヒデキ、カ・ン・ゲ・キ!!”と叫んでしまったが後悔などしてないさ。如何なされましたか、と細川与一郎が駆け込んで来たのも気にしないが、その手に握り締められている書状が気にかかる。
眉間に皺を寄せる与一郎が差し出す書状を受け取り差出人は誰かと確認すれば、津田助五郎からであった。まだ十二歳かそこらでそんな顔ばかりしていたら、二十歳を越える頃には皺だらけになってしまうぞ、気をつけろよ。
そんなことより何事だろう?
外気よりも冷ややかな与一郎の視線を浴びつつ広げて読めば、吃驚仰天、まさに青天の霹靂の如き内容が!
来月早々に、三年間を過した洛中に別れを告げて堺へと帰還し、本格的に実家である天王寺屋の経営に専念するのだと。就きましては頂戴した数々の御厚情に対しささやかながら御礼を致したく、とも記されていた。
来月早々といったら、残り二十日もないじゃないかよ。これはヤバい!
漸く入手した種子島氏謹製の国産初の火縄銃の量産化も、火薬の原料たる硝石の入手も、まだ依頼していないし。他にも頼みたいことは沢山ある!
これは一大事と慌てた俺は急ぎ防寒着をササッと着込み、天王寺屋の洛中支店へレッツゴーだぜ。いや、その前に。しておかなければならないことがあるじゃないか。慌てない慌てない、一休み一呼吸だ。
薬種アドバイザーに本日の配合と調合結果は他言無用と厳命し、俺が戻るまで大人しくしているようにと申付ける。厳命するのは留守番役の進士や村井吉兵衛にもだ。泉殿には誰も立ち入れるなと、くどいくらいに申し渡す。さぁ準備OK、いざ鎌倉!
手紙を遣いした天王寺屋の手代を先触れ代わりに出したものの、先触れとほぼ同時で到着すれば、まるで待ち人来るといった表情の助五郎が店の入り口で目を丸くして立っていた。
やぁやぁと挨拶もそこそこに敷居を跨げば、どうぞこちらへと奥の間へと案内されて、軽く茶のみ話をすれば本題の時間だ。実はな、と言いかけた俺のセリフに被せるタイミングで、“御風呂の振舞いをさせてもらいたいんですけど”と言われてしまった。
はて、お風呂だと?
今時の風呂は未来の湯船方式ではなく、サウナ方式である。床下から噴き出す蒸気を浴びながら垢擦りをして、浴室を出たら浮いた垢を洗い流す。頭を洗った場合は着替え室で髷を結い直さなければいけない。
シャンプーとリンスで頭を洗い、ボディーソープで全身を洗い、ドボンと湯船に肩まで浸かっていた頃は極楽極楽だったよなぁ。何と今の風呂の味気ないことだろう、とは思いつつも、折角のお誘いだもの入らせてもらうとしよう!
そんなこんなで、俺は細川与一郎ただ一人を共として昼日中から入浴することと相成った。
室町時代の人々って、実は結構なお風呂好き人間ばかりである。
内風呂を設置したら客を招いて入浴させるというのは、八代義政の奥さんである日野富子も行っていたと聞くし、洛中を見渡せば一条通りや五条堀川の角などに銭湯が建っていたりもする。
内風呂がなくとも幾ばくかの銭を払えば毎日でも入浴出来るのが、室町時代の洛中ライフなのだった。そう、本来は銭湯へ行くものなのだ。
しかし御大尽である相国寺などの大寺院や“花の御所”や近衛屋敷などには、内風呂がある。慈照寺にも当然設置されていた。贅沢が出来る所には浴室があるのだ。言い換えれば、富裕層でなければ設置されていないのが、内風呂なのである。
遥かな未来に例えれば、十人乗りの高級車みたいなものか? 燃費が非常に悪く、使用時のランニングコストが馬鹿にならないのだからね、車社会のリムジンも室町時代のお風呂も。
そうか。助五郎も居住スペースに内風呂を持てるほどに、頑張ったのだなぁ!
何とも感慨深い思いで浴室に入る俺だったが、大袈裟に溜息を吐きながら縋るような目をした助五郎に、右側へ首を傾げる。何だどうしたのだ、と問えば藪から棒に問い出したのだ。
「若様、なんぞ良き思案はおまへんやろうか?」
はて何のことだと反対側へ首を傾げれば、書状にも認めさせてもらいましたけど、と言う。そうだったっけか、と腕組みをしながら思い出そうとすれば、更に溜息を重ねながら語り出す助五郎。
「堺へ帰る前に、ここで御世話になった方々を招待しまして宴席を設けますねんけど、どないな趣向にしたらエエんか思案が纏まりませんねん。苦心した柿の葉の鮨を召し上がってもろうて、わての工夫をじっくりと噛み締めてもらいたいんですわ。
ありきたりやと馬鹿にされますし、奇抜過ぎたら阿呆扱いされます。舐められたくもおまへんさかいに、何ぞ語り草になるもんをとは思いますねんけど。はてさて、どないしたもんやろうかと……」
助五郎が過した三年間は、単なる三年間ではない。
法華門徒でありながら大徳寺様(=大林宗套)を師と仰いで禅を学んだのは、精神修練や教養を会得するためではなく、人脈を作るためだ。後藤小一郎や中島四郎左衛門や吉田与兵衛との交流も、また然り。遠慮のない付き合いをする中で、相互の利を作り上げる。
その成果が俺との縁が出来たことだ、と言ったら手前味噌過ぎるだろうか。
自己評価を高目に見積もるのは苦手だが、有徳者であるにしても町人身分の助五郎が敬語少なめで俺に語りかけるなど、僭上の極みと誹られても仕方ないに違いない。今では何も言わないが、最初の頃など与一郎は常に目尻を吊り上げていたっけ。
ましてや一緒に入浴するなんて、さ!
風呂場で暗殺された源義朝の故事を引っ張り出すまでもなく、無防備な格好になるこの空間で共に過すのは余ほどに心を許した関係でなければ無理だよな。
ああ勿論、心は許しても体は許さないからな。俺には男色趣味など金輪際さらさらないから! ノーモア・野郎、ウェルカム・妙齢の女性♪
といった与太はさておき、棚上げしてと。
苦悩する助五郎へ如何に答えるべきか思案すれば、垢を擦り落とすべく葉付きの柳の枝で体を叩いていた手も止まる。湯屋に立ち込める蒸気の吹き出し口に積み重ねられたヨモギの葉を、俺たち無言で見詰め続けた。
どれくらいそうしていたのか、恐らく数分の事だろうと思うが、徐に口を開いたのは細川与一郎だ。
「客人は如何様な方々なのだ?」
「大徳寺の御師匠さんと……洛中で古くから商いしてはる……化け物みたいな御人たちばかりですねん」
「化け物?」
浴衣姿の俺や与一郎とは違い、真っ裸の助五郎が柳の枝を使う度にピシャンピシャンと音がする。その音が段々と力ない響きとなってきた。
「扇を商うてはる、布袋屋の玄了尼さん。帯座の座頭職を務めてはった、亀屋の五位女さん。五位女さんから座頭職を引き継ぎはった、与兵衛の爺さんの与次さん。先日帰って来はったばかりの連歌の宗養師。正客はその五人さんですわ」
「ふーむ」
与一郎が柳の枝を脇に置くや腕組みをして唸り出したので、俺も真似しておくか。既知の人間に関しては問題ないと思えるが、未知の人間については何が問題なのか判らないし。先ずは情報の整理だな。
大徳寺の現住職たる大林宗套師。大徳寺といえば一休さん所縁の大寺としても有名だ。臨済宗系禅寺での序列こそ低いものの、一休さんを慕う文化人たちが多数集まり、義政亡き後の東山文化の受け皿にもなった洛北の名刹だった。
応仁の大乱で諸堂が焼失するも一休さんを慕う堺の商人たちが復興を寄与し、今は茶道文化の発信基地として世に知られている。茶道の第一人者たる武野一閑斎師の師匠にしてパトロンでもあるのが、大林宗套師なのだ。
然様な室町文化の保護者を師匠と仰ぐ助五郎が主宰する宴席は、もしかしたら文化人の昇級試験なのかもしれないな。
吉田与兵衛の爺さんは洛中でも五指に入る土倉業の主だ。去年、与兵衛に紹介されたのだけど、正直怖い人だと思った。見た目は福福しい好々爺、しかし目が全然笑っていなかったのだよ。武田の隠居と同じカテゴリーに属する人物だと直ぐに判ったので、歓談中ずっと油汗を垂れ流していたっけ。
然様な人物の接待など、そりゃあ恐ろしいよな。
宗養師は連歌の第一人者だった宗牧師の息子さんである。以前、相国寺の文化サロンで会ったことがあるが、気の優しそうな親子であったなぁ。与兵衛の爺さんとは真逆の世界の住人だよ、本当に。
確かお会いしたその時に、東国へ旅行するのだと言っておられたっけ。戻られたら土産話をたんとして下さるとも言われていたのだが……先日、宗牧師の訃報を知らされた。教えてくれたのは、情報通の惟高妙安禅師。まだ老境に到る手前の年齢だったはずだが。
惜しい御方がまたひとり、英雄の丘行きに。惜しくない奴は世に幅を利かせているってのに、全く残念なことだ。
さてしかし。後の二人、それも女性の名前は初めて聞いたぞ。誰だよ、その二人は?
「玄了尼さんいう御人は洛中の扇の、半分くらいを商うてはる御人ですねん」
……マジか?
扇は洛中随一の特産品である。洛中以外で作られている扇など、B級どころかC級にもならぬ扱い、しかも海外への輸出品としても目玉商品の一つなのだそうな。中国から来る商人たちは毎回山ほど買い漁っていくのだと。
その販売営業の半分も一手に握っているとは、確かに遣り手の商人だよな。老齢の身なのに未だ優れた佳品を手ずから作っており、出来た端から高値で買い求められているというのだから、何ともはや。
侍所が未だ機能していた数十年前、名所司代と讃えられた多賀豊後守とも互角の付き合いをしていたとも聞かされれば、只でさえ暑さで掻いた汗と蒸気でびしょ濡れの浴衣が更に重たくなる。勿論、冷や汗で……だけどさ。
当時はまだうら若き乙女であったろうに、よくもまぁ大胆不敵な人物だこと。
「五位女さんの亀屋も、布袋屋に負けず劣らずの大店でしてんけど……」
比叡山を本所とする帯座は、洛中の機織物の中で帯の流通だけを取り扱う座だ。
元々、機織物生産のシェアを独占していたのは大舎人座であった。本所は近衛家の下に属する万里小路家。応仁の大乱で大打撃を受けた大舎人座は、戦後に西軍の陣地や洛外西部の白雲村を拠点に活動を再開し、再びシェアの独占を目論んだらしい。
そこに待ったをかけたのが、祇園社を本所とする練貫座。生糸を供給する練貫座と、どちらが主導権を握るのかでぶつかり合ったらしい。
対立したのは練貫座だけではなく、四府駕輿丁座の傘下にある錦座や勧修寺家を本所とする白布座や久我家を本所とする小袖座などなど。大舎人座が逼塞中に新規参入し、事業展開を始めた諸座である。
池の主が弱っている間に増えてしまった外来種みたいだよな。
更にそこへ乱入したのが帯商人たちである。素早く帯座を結成するや比叡山の権威と武力を背景に流通一切を奪い取ったのは、ごり押し以外のなにものでもないだろう。結果として大舎人座は生産だけで販売は出来ない座となってしまった。
本所が中級貴族では、圧力団体である宗教勢力にはどうやっても勝てないよなぁ。
そんな帯座の座頭職を務めていたのだから、とんでもない遣りての婆さんなのだろう。
座頭職とは老衆の筆頭格だ。“職”であるからには常任なのだろう。 実力者ばかりが選ばれる老衆の中で最も抜きん出た者だけに与えられる役職に違いない。しかも亀屋は先代の頃に、公儀から“公用代官職”にも選任されていたのだと。
代官職の主な役目は、税金の徴収である。“払えない”とゴネて泣き崩れて恫喝する者たちに、無い袖を振らせて銭を毟り取るのが仕事なのだ。職権の及ぶ範囲を管理監督するのは、毟り取るためでしかない。
実に恐るべきは、海千山千の女性なりし。無意識の内に声を出していたのか、助五郎が苦笑いしながら首を左右に振る。
「五位女さんは、わての一つ下でっせ」
えっ!? 遣りてババアじゃなくて、十八歳のお嬢さん? 現役バリバリのうら若き乙女でしたか、それはそれは失礼致しました。
「親御さんが亡くならはっても跡取り娘として頑張ってはりましてんけど。舐められへんように、さる御家の猶子とならはって五位の位ももらわはってんけど。
……やっかいな御方に目ぇつけられはりましてな」
やっかいな奴?
「茨木……」
ああ、もうそれ以上は言うな。俺が盛大に顔を顰めてみせれば、助五郎も瞬時に口を閉ざす。ちらりと隣を見れば与一郎も珍しく俺以外のことで渋面を作っていた。未来ある若者たちの不興を買うとは、茨木の野郎も悪手を打ったものだよな。
「然様な仕儀で、五位女さんは商売の一切合切を与兵衛の爺さんに売り飛ばしてしまいはりましてな、今は悠々自適な楽隠居ですわ」
楽隠居なぁ。それは何とも羨ましいことだね。いや、羨ましくはないか。望んで手にした状況じゃないものな。
浴室を後にして全身を綺麗に清め、髷も結い直して身支度を整えれば気分も一新する……はずなのだが、助五郎の抱えた問題が俺にも重く圧し掛かっているので、さっぱり加減もさっぱりだよ、全く。
応接室用の奥の間で火鉢に手を翳しながら改めて考え直すとしよう。如何にすれば招待客の不興を買わずに高評価を得られるのだろうか。助五郎がしくじれば、それは天王寺屋の評価も宜しくなくなるということ。
そうなれば、洛中だけじゃなく堺でも天王寺屋の立ち位置にマイナス点がつけられてしまうに違いない。だとすると俺の企てにも影響しかねない。最初は他人事だと思っていたが、どうやら俺自身に関わる重大事だよな。
「当日はどのような料理でもてなす心算なのか?」
「へぇ、銭に糸目はつけず食材を掻き集めますさかいに、本膳は一の膳は七菜一汁、二の膳は五菜一汁、三の膳は三菜二汁にしまして、その後に柿の葉の鮨を出させてもらおうかと」
与一郎の問いに即答した助五郎は、鶴やら鮑やら鯉やらと使用する食材をスラスラと諳んじる。
「……ちょっと、待て」
まるで歴史研究本の巻末に掲載された参考文献一覧の如く次々と述べられる食材の余りの多さに、俺は途中でストップをかけた。
「今一度訊くが、饗応するのは大徳寺様、布袋屋、亀屋、吉田与次、宗養師に相違ないな?」
「へぇ」
「宗養師は兎も角、年老いた者三人に、若き女性に然様な贅をこらした膳を給するのか?」
「へぇ、然様ですが……あ!」
「況してや大徳寺様は墨染め衣を纏われる御身。日々、精進潔斎を旨となされておられるのではないのか?」
「わてとしたことが……」
やっぱりか。相談を持ちかけられた当初から何だかモヤモヤしていたが、助五郎の言葉で漸くその正体が判明したよ。認識のズレだ。助五郎は商売人としての認識で、己の力量を最大限に発揮して見せつけようとしていたのだ。
しかしそれは、招待客を歓待するといった気持ちが抜けていたのである。相手が武家ならば、食べ切れぬほどの料理を提供するのが最善のおもてなしだろうが、なぁ?
それに飽食の極みみたいなフルコースを出したら、今回のメインディッシュである柿の葉の鮨が翳んでしまう。何だよそれでは、絵に描いたような本末転倒じゃないか。
今頃気づいたのか、とばかりの目をして口をへの字に曲げる与一郎。流石に未来の教養人の最右翼だ。趣向の大切さをよく理解している。ならば何かアドバイスをしてやれよ、と目配せしたが。
難しき饗応にござりまするな、などとポツリと洩らして口を閉ざしやがった。
栴檀は双葉より芳しいってところを見せつけるチャンスだぜ、と思ったけれど、与一郎には間違いは見つけられても正解を示すのは出来ないらしい。
仕方ない、ここは年の功ってヤツを発揮してやるとするか。外見だけなら俺が一番年下なのだけどなぁ。
「余が思うに、贅をこらすにも仕方があるのではないか?」
頼りない年長者二人へ格好つけて言った途端、鼻がズビッと鳴ったよ、格好悪いなぁ。暖房器具が貧し過ぎるぜ、室町時代の畜生めが!
咄嗟に袖で押さえたら、与一郎がそっと懐紙を差し出してくれる。有難く受け取りつつ、袖で洟を拭った俺は軽く咳払いをして注意を引き戻した。
「贅沢とは多きに非ず、中身だと余は思う。多きは浅きに繋がり、少なきは深きに繋がるとな。本膳は一の膳のみとし、柿の葉の鮨を主とするならば……一汁三菜くらいで良いのではないか?」
「一汁三菜……でっか」
「焼き物、炊き物、和え物を一品ずつ出せば充分だろう。汁物も具は少なめで良いだろう。あくまでも主たる柿の葉の鮨を引き立てるためにな。しかし貧相とならぬように、一汁三菜の食材は贅をこらした物にせねばならぬ。
ああ、そうだ。鮨の食材も考えねばならぬな。生臭物を避けるならば何が良いだろうか? ……甘辛く炊いた椎茸などが良いかもしれぬな。汁物の出汁にも椎茸が良いだろう。椎茸の香で味わう汁物ならば椎茸の鮨もさぞや美味く感じるやもしれぬな」
「あのう、若さん」
「ん?」
「それは……一体何ですのん?」
「何って、何がだ?」
問い返しながら助五郎を見やれば視線が合わない。どこを見ているのだろうと思ったら、俺の手元を見ているようだ。……おや、いつの間に?
「某は先の備中守様に伊勢流故実を学んでおりまするが、然様な“折紙”はまだお教え戴いておりませぬ」
政所執事である伊勢伊勢守の一族は、小笠原氏と並ぶ武家故実の大家である。弓馬などの武芸作法指南が小笠原氏ならば、屋内での威儀作法指南が伊勢氏である。役目柄、当主多忙につき、伊勢流故実の指南役は主に伊勢の叔父に当たる備中守貞能が担当していた。
その武家故実教室の生徒である与一郎も、俺の手の中で変形してしまっていた懐紙に目を大きく見開いていた。
「……その方らは知らぬのか?」
同時に頷く二人に、俺は天を仰ぐ。また、やっちまった?
ならばと、両の掌で弄んでいた証拠物件を無言でそっと火鉢にくべようとしたのだけど、右手を助五郎にガッチリと掴まれてしまう。左手首をギュッと握り締めているのは与一郎だ。ほほう、素晴らしい連携プレイだな。
「若さん」
「若子様」
これで台詞も揃っていれば完璧だったのだが、俄かのコンビネーションにそこまでのシンクロは無理だったか。などと現実逃避をしようとしたが両手の痛みが耐え難くなったので、そろそろ勘弁して下さい、お願いします。
「色々とお尋ね致したく」
ニッコリと顔の下半分でだけで笑う与一郎と、笑みの欠片もない真顔の助五郎。掌から零れ落ち床に舞い降りた一羽の鶴も、俺を静かに見上げる。ああ、無意識の所作って本当に怖いよねぇ?
結局、夕暮れ近くまで尋問されたのだった。
折り紙って昔からあるものだと思っていたが、そうじゃないってことも序でに学ばせてもらったよ。この時代にある“折紙”は折形礼法といい、“折り紙”とはちょっと違うということをさ。当たり前だと認識していた日本文化の源流って、この時代には当たり前じゃないのだね?
質問攻めに合い、覚えている限りの折紙を折らされて草臥れ果てた帰り道。馬上から夕闇迫る空を見上げれば、カラスが数羽カーカーと飛んで行く。
♪夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
お手てつないでみなかえろう
からすといっしょにかえりましょ♪
足下を数人の童が歌いさざめきながら行き違った。思わず振り返るも、童たちは俺の方など見向きもせずに夕陽に赤く染まる町角へと消えて行く。馬の口取りをしていた石成主税助が、俺と同じく眩しそうに目を細めた。
「若子様が諸大徳に御相伝なされました今様にござりまするな」
「そうだな」
惟高妙安禅師たちに披露した童謡の幾つかは、文化サロンの中だけでの秘儀とされず巷へと広がりつつある。相国寺をはじめとする寺院の寺僧たちが発信源となっているからだ。
俺自身がそれを望んだからだった。未来知識として禅師たちに伝授した歌は、童謡である。童謡であるからには中高年よりも童たちにこそ歌って欲しい。まぁ抑揚や節回しは元のリズムからは大分逸脱しているけれどね。
洛中の童たちが少しでも明るく楽しい気分に浸ってくれるなら、万々歳。歌も歌えぬほどに困窮し、疲弊した面で蹲っていなきゃそれで良いのだ。花の都の者共よ、舞え舞えカタツムリの如く、浮世の憂さを歌で吹き飛ばしておくれ。
今出川の通りを東へ、慈照寺へと向かう道も満遍なく小石が敷き詰められているので、馬や荷車が通れども泥濘に妨げられることも少なくなった。乾期の冬ともなれば、以前は風が吹く度に砂ぼこりが舞い上がり目も開けられぬ有様だったが、今は突風でもない限り大丈夫。
何れは石畳にしたいものだが、そこまでの贅沢は将来の課題にしておこう。
大水害の復旧工事が洛中の大改修工事となった頃、雇われ人足たちが瓦礫と土砂が散乱する賀茂川の浚渫作業をした後に、川幅の拡張と川底の掘り下げ工事を行ったのだ。
掻き出した泥は田畑に、泥から選り分けた石ころのうち俺の拳より大きい物は護岸用材に。それ以下のサイズは大路の舗装用に。力仕事は男共に、細かい作業は女子供に。数ヶ月に亘る作業の成果がこの道である。
「主税助よ」
「はい、何でございましょう、若様」
「急ですまぬが、桔梗屋へと遣いしてくれるか。明日の昼過ぎに慈照寺まで参上せよと」
「承りまして」
手綱を赤井五郎次郎に預けるや、一礼した主税助は一目散に夕陽の沈む方へと駆けて行く。今日のお供の中では最も大柄なのは五郎次郎だから仕方ないにしても、将来のことを考えれば微妙に一抹の不安が。早く俺が全面的に信用を預けられる男に成長しておくれ。
「又六、伝右衛門、次兵衛」
は! と声を揃える小笠原又六と和田伝右衛門と山岡次兵衛。
「又六は清水寺の佐々木下野の元へ、伝右衛門は妙法院の円月の元へ行け。明日、陽が高くなる前に参ずるように確と申し伝えよ」
畏まりまして、と答えた近習たちが元気良く走り行くのは馬の鼻先が向く方、赤から紫に染まり出した空へと続く道だ。
「次兵衛は急ぎ美作守か三郎太郎に繋ぎを取れ。明日の昼過ぎ、余が慈照寺で待っているとな」
心得まして、と言うやいなや次兵衛の姿が路地に消えた。洛中の何処かに潜む、父親の山岡美作守配下の者に伝えに行ったのだろう。父親は一応、六角氏被官だからみだりに動けぬかもしれないけど。代理で兄の三郎太郎が来てくれれば充分だし。
ふう、今日も疲れた。明日は明日でまた神経を使いそうだな。
脇に寄って頭を下げる町衆たちが開けてくれた道を、パカパカと蹄の音が一定のリズムを刻む。色々と考えなけりゃならないことだらけでも、明日どころか今夜の食の心配をしなきゃいけない者たちに比べれば、俺の悩みなど大したことはないのだろう。
洛中に銭が回り出したとて、全員がひもじい思いをせずに済む世の中の到来は未だ遥か先のこと。時代が進み、デジタル前世となった世界でも、最低限の衣食住がままならぬ人々は幾らでもいたのだ。
アナログすら手にしていない今の日本では今日も多くの者が、どこかで空きっ腹を抱えて死んでいる。百人単位では済まない数の人間が。せめて目の届く範囲では然様な状況を改善したいものだけど、慌てたところでどうしようもない。千里の道は一跨ぎに出来ないのだし。
前世で学んだ調理法だと、肉の正しい加熱方法は強火を最小限にすることだった。蛋白質は熱に弱く、硬くなりやすいのだと。一度硬くなれば、柔らかくなることはない。しかし低温でじっくりと加熱すれば硬さをほど良く調整出来る。
急いてはことを仕損じる、ってのが蛋白質を調理する時の鉄則らしい。
実体験としても、スーパーの特売品のステーキ肉も、時間をかけて焼いたら教え通りに美味しかったっけ。ああ、牛肉が食べたいなぁ。豚肉と鶏肉と鮮魚のお刺身と豚骨ラーメンと天津飯も……などと思った途端、グルグルキューと腹の虫が高らかに華麗なる音色を奏でた。
俺じゃなくて五郎次郎のだが。……お前は、子供か!
「若子様、本日の薬石(=夕食)は何でございましょうか?」
手綱を持つのとは反対の手で腹を摩る欠食児童が、期待の篭った目で俺を見上げる。朝餉と昼食は台所方のお任せだが、夕食の献立を決めるのは俺の大切な役目だ。
「そうよなぁ」
チラリと後ろを振り返れば、天王寺屋の手代たちが額に汗して荷車を引いている。積荷は、秘伝たる折紙をお教え戴きました御礼のほんの一部です、と助五郎が献上してくれた物だった。食べ盛りの近習たちでも食べ尽くすには数日かかりそうな、上等な肉類と乾物の魚介類と新鮮な根菜類などが山積みとなっているのだよ、万歳三唱。食材の他に贈答品も幾つか頂戴したよ、有難や。
折鶴だけでなく奴さんや手裏剣などなど、沢山の折り方を覚えていた甲斐があったというものだ。世の中、何が幸いするか判らないねぇ、本当に油断出来ねぇや。
ガラガラと景気のいい音をBGMにすれば、帰路の足取りもルンルンと弾む。俺は歩いてないけどね。
さて帰還する先の慈照寺は、俺が根城とする前はまごうことなき立派な禅寺であったが、今では義政が寝起きしていた頃の東山殿とほぼ一緒。脱禅寺状態なのだから、持ち込み厳禁の生臭物もやりたい放題食べ放題だぜ、ざまぁ見ろ!
さて今日の献立は、と……。
「漢方薬を、たんまりと食すとしようか」
そう言ったら、五郎次郎のみならず警護役の田中久太郎や脇坂外介までもが不平を洩らし出す。直ぐ傍を歩く与一郎も渋い顔をしてやがった。
安心しろ、安心しろ。
薬は薬でも口に苦くない良薬もこの世にはあるのだってことを教えてやろう。荷車には林檎もあれば蜂蜜もある。唐辛子もあるしな。甘過ぎず辛過ぎない美味しい物を膳に載せてやるから、期待しておけ。
などとは口には出さず、俺は舌を出しながら静かに笑う。
ブーブーと文句を垂れる近習たちが、目の色を変えてオカワリを求める姿を想像していたら不安も憂いといった心の垢も綺麗さっぱりとなったよ、嬉しいじゃないか皆の衆♪
さぁ今夜は、カレーパーティーだぜ、ベイベー!!
折紙は元々、故実の作法の一環でした。一般に普及したのは江戸時代になってから。
林檎は平安時代には日本でも植生しており、浅井長政が領内の寺から貰った際に御礼状を発給したりしているそうです。
唐辛子は、1542年に宣教師が大友家に献上したという記録があり、西洋胡椒と呼ばれていたそうです。当時は観賞用で、防寒の為の実用品でもあったとか。




