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『 華麗なる貴公子野郎 』(天文十四年、春)

 さて、今回も史実誤認と捻じ曲げが多々ございます。眉に唾して御読み戴きますれば、幸甚です(平身低頭)。

 加筆と誤字誤表記の訂正を致しました(2019.12.01)。

 “独生独死(どくしょうどくし)独去独来(どっこどくらい)

 読み下せば、“独り生まれ独り死し、独り去り独り来たる”となる。『大無量寿経』の一節だ。うむうむ、実に含蓄のある言葉である。

 中国は唐の時代に詠われた詩の一節にある“年年歳歳花相似 歳歳年年人不同”。教えてくれたのは、惟高妙安禅師であった。こちらも読み下せば“年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず”となるそうな。

 新たに生まれた人、死に逝く人、誰かが去って、誰かが来る。毎年毎年同じ頃に花が咲くように自然は変わらないのに、人の世は何と移ろいやすいことであろうか。

 などと物思いに耽りながら、はらはらと微風に花弁を散らし始めた山桜を眺めつつ、俺は東求堂の縁側で頬杖をつく。

 へっぶし!

 春の盛りとなろうとも、やはり冷えるよなぁ。風邪を引くのも阿呆らしいので室内に戻り、戸を閉めて、火鉢に手を翳す。

 やれやれ、早く暖かくならないかなぁ。寒いと生命活動が低下するし免疫能力も落ちるし、ワクチンもペニシリンもないから少し体調を崩しただけであの世逝きが当たり前の今現在。去年も多くの人が亡くなった。


 時を遡ること随分前の平安時代、加賀美遠光なる武士がいたそうな。

 内裏の警護をしていた“滝口の武者”の一員だったとか。遠光の次男として甲斐国に生まれた男が、小笠原氏の開祖である。平家滅亡後に源頼朝から信濃守を任ぜられ、子孫をあちらこちらにばら撒いたことで、それなりの規模の一族が誕生したのだった。

 将軍家の弓馬指南にして、武家の有職故実の指南役である京都の小笠原家。近習の一員である又六の実家も、有力な分家の一つだ。阿波国に跋扈し、今では中央政界の台風の目にまで成り上がった三好氏も、先祖を辿れば小笠原氏である。

 山城・信濃・阿波の三ヶ国のみならず遠江国や石見国へも支族が広がる小笠原一族の一つ、高天神家の開祖である小笠原長高が昨年十月に死んだそうな。父親から聞いたと又六が教えてくれたが、正直に言おう。

 誰だよ、それ?

 去年も暇潰しに政所へ度々赴きその際に仄聞したところ、織田信康が美濃国稲葉山城攻めの最中に討ち死にし、三河国に根を張る松平氏の長老であった松平長親が天寿を全うしたそうだ。……もう一度言うぞ。

 だから知らねぇよ、誰だよそいつらは!?

 信康は織田信秀の弟なので信長の父方の叔父にあたる人物だってのは判った。長親は松平氏を隆盛させた名将だったのだけど、晩年に分家を四つも作ったりして一族の内紛の原因も作ったのだそうな。松平って事は、家康の関係者なのだろうけど、知らねぇよそんなローカルマイナー武将なんてさ!

 将軍家の高みから睥睨すれば、どちらも吹けば飛ぶような国人領主でしかない。信長の実家は斯波氏の家老のそのまた家老。陪臣(またもの)の家来でしかないのだが、いつのまにやら尾張国で一番の富裕者で実力者に成り上がっていた。

 松平氏が一丸となって団結出来ていれば、三河国の旗頭たる吉良氏を膝下に組み敷くことも出来るだろう。名門の吉良氏も東条家と西条家に分裂しなければ、太守として今も安泰だったろうに。

 身分低き立場で朝廷へ大金を献上出来る織田と、足利家の有力分家を脅かす松平。両家の動向は政所でも関心事の一つとなっているようで。故に多少なりとも情報収集を怠らぬようにしているのだろうな。

 他にも将軍家侍医の吉田宗桂師からは、田代三喜なる名医が亡くなったのだと知らされたっけ。田代なる医者の名前は以前どこかで聞いたことが……あるような、ないような。

 惜しい御方が、と繰り返し言うので、華佗みたいな人かと尋ねたら、然様然様と何度も肯かれた。宗桂師は策彦周良師から借りた『三国志』で華佗を知り、噂話で関東にて活躍されていた田代師を知って、重ね合わせて尊敬されていたのだと。

 世子様もお読みになられておられたか、と感心されてしまったが。いやいや宋代の紹興年間に書かれた史書など読んだことないし、ゲームで得た知識ですよ……とは言えないので適当に誤魔化して逃げたっけ。

 知らない人が沢山亡くなられた去年だが、実は俺の爺さんも危ういところであった。爺さんとは前世で無茶な末期の言葉を残した爺さんではなく、今の洛中におられるサー・グランパこと近衛尚通爺さんだ。

 夏の終わりに洛中を襲った大水害。近衛邸にも近衛家の皆々様にも被害はなかった……そう思っていたのだが、やはり老齢の身には堪えたらしい。ひどい咳をしばしば発せられ、微熱に冒されたのである。

 食が細くなり日に日に痩せていかれるサー・グランパ。もしやこのまま儚くなられるのか。前世の爺さんのことを思い出した俺は、多羅尾の隠居に手紙を出して薬を取り寄せたり、宗桂師や山科卿に懇請して施療をお願いしたりした。

 河原者の善阿弥経由で地下者たちに滋養のある食材、例えば肉とか肉とか肉とかを集めさせもした。そのままでは食べ辛いだろうからと思い、根菜と一緒に煮込んでスープにしてお給仕したりと至れり尽くせりで頑張った。

 すると、どうにかこうにか持ち直してくれたのは正直嬉しかったよ、万歳三唱!

 一番の特効薬が、孫が出来たことだったのにはギャフンだが。

 近衛家当主にして前関白殿下の稙家伯父さんに年末近く、男子が生まれたのだ。側室との間にだけどね。百丸(ももまる)と名付けられた赤子は、乳母の手により大事に扶育されている。正室様の管理監督の下で。

 晴嗣にとっては初めての弟、俺にとっては五人目の従兄弟となる。実は晴嗣には兄が二人いるのだ。どちらも百丸と同じく側室の子、所謂“庶子”である。年齢は二十歳上と一歳上で、共々に早く出家させられていた。

 陽山と名乗っている年子の兄は、今は道増伯父さんの指導を受けながら仏道修行に励んでいるそうな。現住所は、聖護院。俺の住処である慈照寺とは何とも微妙な距離なので、未だに会ったことがない。その内、遊びに行くとするか。

 聖護院といったら八つ橋と大根の千枚漬け。漬物など今更別に興味はないが、スイーツには興味津々だからね。チーズケーキもマカロンもガトーショコラも何もない、甘味に乏しい時代だからこそ、チャンスは逃さないようにせねば!

 一方で、俺や晴嗣の親世代でもおかしくない、二十歳も上の近衛家長子とは何者でどこにいるのか?

 十三歳の時に比叡山で出家したのに、仏道ではなく武道修行三昧。公家筆頭の家柄に生まれたのに、武家に憧れ比叡山から大脱走。伝手を頼って斉藤道三の養子に納まり、大納言を称して美濃国でブイブイ言っているとかいないとか。

 まぁ、会うことはないだろうから、知らない人扱いでいいだろう多分きっと。

 嫡男である晴嗣がいるので百丸も何れは出家させられ、どこかの大寺の継承者となるだろう。……そう言えば、俺にも仏門入りしている弟がいたっけ。

 覚譽伯父さんの後継者となるべく興福寺にて修行中の年子の弟、幼名は千歳丸。出家後の法名は、覚慶。サー・グランパの猶子となり、今は興福寺塔頭の一乗院の住持見習いをしている。

 史実では室町幕府最後の将軍となる足利義昭、その人だ。ちらほらと評判を聞くにつけ、中々に聡明で慎ましやかな少年のようである。ってことは、還俗させられて将軍になってからの破天荒は、仏道修行の反動だったのか?

 ドラマや小説ではボロクソに罵倒され、アホ・バカ・マヌケの三拍子揃ったスーパー当て馬として信長と対立する役割を負わされている、毀誉褒貶からプラス面だけを引いたダークサイド小悪党、それが足利義昭。

 本当に、そんな人物なのだろうか?

 何れは人品を確かめに直接対面しに行かないとなぁ。人生フリースタイルの伯父さんたちと違い、陽山も覚慶も修行の身だからホイホイと出かけることなど出来ないのだから。


 さて、去年生まれたのは百丸だけでは勿論ない。トンチキ親父のマブダチである武家伝奏の勧修寺尹豊さんにも孫が生まれたのだそうな。“花の御所”で御目にかかった時、イケメン面をデレデレにして“何でこんなに可愛いのかよ”と孫自慢を嫌になるほど聞かされた。

 既に散々聞かされていたのかウンザリ顔のトンチキ親父は、何かを言いたげに俺を見たけれど、こちとら未だ十に満たぬ年齢だし股間は不毛地帯だ。十八禁作品の登場人物ならともかく、子作りに励んでよい年齢でないことぐらい判るだろうが!

 孫の顔が見たいなら、後二十年は長生きするのだな。大体、数年以内に男子一名女子三名の子宝に恵まれる予定だろうが、トンチキだけじゃない種まき親父よ。サー・マザーに愛想をつかされない程度に、頑張れ。

 生まれたのは高貴な身分だけじゃなく、殿上人未満の御家庭でもだ。政所勤務の古株の文官、沼田上野介光兼に娘が生まれたのだ。俺の記憶が確かなら、細川与一郎の妻となる女の子だ。

 尊き御宝なので“麝香”と名付けましたと光兼が鼻高々に報告すると、政所の同僚たちは熱烈ではない微妙な拍手を贈る。俺も皆と同様に生温かい目で祝福した。五十路突入寸前の光兼には、娘じゃなくて孫みたいな存在なのだろうな。

 勧修寺さんと意気投合するに違いないぞ、きっと!


 人が往来するのは彼岸と此岸の間のみにあらず、地面の上の西と東の間でもだ。

 先月の半ば過ぎ、東海から五十人ほどの供に守られた一人の貴公子が上洛した。伊勢国の太守の嫡子、北畠鶴松丸である。俺より八つ上の十七歳。

 何故、上洛したのか?

 それは元服と任官をするためである。

 十七歳で未だ元服していないのは遅きに失するような気がするが、事情があったのだ。

 北畠氏の先祖を辿れば村上天皇の皇子、具平親王に行き当たる。所謂、村上源氏嫡流なのだ。具平親王の子、季房が源姓を賜り臣籍降下。七代後の通親の子が、堀川氏・久我氏・土御門氏・中院氏を名乗り、中院通方の子が洛北の北畠の地に居を構えたことで、北畠氏が誕生する。

 北畠雅家の曾孫の代になった頃、世は鎌倉時代の終焉を迎えつつあった。当時の当主である親房は後醍醐帝に早くから仕え、吉田定房や万里小路宣房と並び「後の三房」と称されるほどの信任を受ける。

 親房の嫡子は名将の誉れ高き顕家だ。俺の世代は大河ドラマで大人気の若手女優が演じた姿に、メロメロだったなぁ。今じゃレーサーの奥さんだけど。

 東北攻めや尊氏の九州落ちに功を上げ、連戦連勝の武将であったが、尊氏が再起を果たすと追い詰められ、遂には堺で儚く散った悲運の将でもある。大阪市阿倍野区に北畠という高級住宅地があるが、地名の由来は顕家を祀る神社と顕彰碑と名を冠した公園があるからだ。

 息子が戦死した後も親房は南朝方として戦い続け、観応の擾乱に乗じて京都と鎌倉を奪取するなどの活躍もした。鎌倉末期から室町初期にかけて親子二代で名将を輩出したのが、北畠氏最大の栄光である。

 親房死後、南朝方は指導的立場の人材を用意出来ず北朝に膝を屈するのは、周知の事実。三代義満の治世で南朝は消滅したが、伊勢国司となっていた親房の三男である顕能により北畠氏はしぶとく命脈を保つ。室町政権下の地方軍閥として生き残り続けたのだ。

 大河内氏、木造氏、坂内氏、田丸氏、星合氏、岩内氏、藤方氏、波瀬氏と分家を作り、領国である南伊勢のみならず志摩国や大和国にも勢力を拡大させた北畠氏。中々に侮り難い武家である。

 ド根性大根の如く現世と土地に根を張り続けた地方軍閥を、中央政府は幾度か打倒しようと試みるも時々の時勢がそれを許さず、喉に引っ掛かった小骨のような存在としてあり続けた。

 そんな中途半端な状況の改善を図ったのは、驚くべきことにトンチキ親父だ。

 現当主に偏諱を授けることで懐柔し、北畠氏の立場を追認するだけではなく朝廷にも働きかけ、従四位下参議の官位まで宛がったのである。更に、何れ嫡男元服の際には烏帽子親となることまで約束したのだった。

 それが永正から大永年間のこと。やる時にはやるじゃないか、トンチキ親父! やらない時には全くやらないけどな。

 ところが享禄から今の天文年間は畿内が混乱と混迷の時代、余波は伊勢国にも及ぶ。細川氏の跡目争い、による畿内激動期が到来したのだ。やらなくてもいいのにやらかすのが細川氏だよなぁ、全くよう。御蔭でトンチキ親父は洛中に安寧を得られず、何かあれば即座に近江へ逃亡の生活。

 北畠氏は北畠氏で畿内の戦いに介入したり巻き込まれたり、北伊勢の雄である長野氏と仁義なき戦いを始めたりする羽目に。席を温める暇もない、際限なき修羅の日々へと逆戻りとなっていた。

 だが去年からは畿内が漸く静謐となる。

 戦いの火種が消えた訳ではないけれど、ぼうぼうと燃え盛らず燻っているだけならば、焼け野原で仮初めの休息くらいは取ることが出来るとばかりに、延び延びになっていた約束を果たしてもらうべく、北畠氏の御曹司は洛中へと遥々やって来たのであった。

 内談衆や奉公衆など将軍側近たちの見守る中、トンチキ親父が烏帽子親となり、鶴松丸は名を具教と改めた。北畠具教の誕生である。

 元服後に名乗る名は烏帽子親が名付ける慣わし。何でトンチキ親父が“教”の字を与えたのかは不明だが、“晴”の字を与える訳にはいかなかったのだから適当に選んだのかな?

 “晴”と名付けたら、父親と同じ“晴具”になってしまうしなぁ。……まさか曽祖父さんの義教の一字じゃないよね?

 具教は名だけではなく将軍家重代の宝物から、太刀と脇差が一振りずつと羽織も一着下賜された。

 元服を済ませたその場で従五位下侍従が授けられ、更に翌々日、トンチキ親父に連れられて宮中へ参内するや従五位上侍従に昇進、序で左中将へと転任の除目を拝受する。こうして少年は鮮やかな立身出世をし、武家社会へ華々しいデビューを果たしたのだった。

 相国寺での文化サロンの最中に、然様な経緯を政所執事の息子から聞かされた俺は思わず、いいなぁ、と口走ってしまう。だってさ、俺は未だに無位無官なのだぜ?

 それなのに、他人の息子が公儀主催の儀式で元服して任官するだなんて、羨ましい以外に感想などあるかよ。あるとすれば、伊勢伊勢守の息子である兵庫頭から伊勢国司の息子の話を聞いたという、冗談じみたシチュエーションが超ウケル~、くらいだよ。

 史実では俺の元服と任官は来年の十二月、近江国の坂本の地でだ。日吉神社の神主の屋敷で元服し、即将軍就任だぜ。十一歳での任官は、トンチキ親父と一緒である。大御所となって幼い将軍を後見する、それがトンチキ親父の考える薔薇色プラン。

 史実が事実となるかどうかは世の中の……トンチキ管領の動静次第であるけどな。薔薇色なのだか灰色なのだか、溜息以外に吐ける息は青色だぜ、全くよ!

 少々ブルーでグレーな気分で慈照寺に戻ると、客人が待っていた。

 誰だろうと思ったら話題の人物、北畠左中将具教君だったよ、こいつは吃驚だ!

 公式の引見ならば会所で会うのが正式だけど、生憎今は近習たちの算数教室となっていた。だもんで、内々の応接間である泉殿にて相対する。

 初めて(まみ)える次世代の戦国武将は、実に涼しげな面持ちをした青少年であったのだよ。ナウなヤング風に言えば醤油顔の美男子。別に羨ましくもないし悔しくもないけどね、ド畜生め。

「この度は(それがし)に過分な御配慮を頂戴致しましたること、誠に恐悦至極に存じまする」

 対面するなり平伏するイケメン野郎を見て、胸のシコリがスッと消え失せたのは何故だろう。もしかして君は清涼剤か何かか?

 それとも俺が勝手に抱いていた嫉妬心を、優越感と自己満足で消化してしまっただけなのか?

 恐らく、前者だろう。心映えの美しい少年だと自負しているこの俺が、然様な浅ましい性質ではないのは何よりも当の本人である俺自身が知っているし。グッバイ、醜いアヒルの子。俺は今日から白鳥さ。

 そんなことはどうでも良い。

「はて、余がそちと面談するは今が初めてのこと。そちに配慮をするなど無理ではなかろうか?」

 俺、何かしたっけ?

「然様な御謙遜は無用に願い上げ奉りまする。大樹様に御太刀を拝領致しましたる(みぎり)、直にお伺い致しました。拝領致しましたる御太刀は、世子様がお選び下さいました由。重ね重ね誠に有難く、非才の身には過ぎたることと誠に忝く存じまする」

 より一層、深々と頭を下げる具教君。その後ろでは傅役の武士も同じ姿勢をしていた。名は木造(こづくり)左近衛中将具康。手前勝手に名乗った僭称ではなく、朝廷から除目された正式な官位である。身分は従四位下、室内では最も身分の高い人物であった。

 具教君にとって、遠縁ながら最も頼りになる身内の大叔父さんである。働き盛りの立派な武人が背後から支えてくれるって、嬉しいよね。脇に控える三淵晴員をチラリと見て、俺は小さく肯く。

 その瞬間、孫バカと化した勧修寺さんの自慢話に辟易した日の夜のことを思い出した。グッタリとしてしまい久し振りに“花の御所”に宿泊したのだが、その時に交わしたトンチキ親父との会話を。

 珍しく家宝である太刀を並べて検分していたトンチキ親父が、お前は刀に興味があるかとか何とか言ったので、まぁまぁ、と答えた。すると突然、日本刀講座が始まったのだ。

 これは“大典太光世”といい云々かんぬん、これは“鬼丸国綱”で云々かんぬん、これは“大包平”で……これは“三日月宗近”で……これは“童子切安綱”で……と。

 へぇーほぉー、と大半を聞き流していた俺だったが、とある太刀の銘の説明の(くだり)で、都で打たれた刀は拵えも雅だなぁ、と感想を洩らしたのである。今、具教君が膝前に鞘ごと横たえた太刀の拵えを見れば、あの時の太刀であると知れた。

 そうか雅であるか、とトンチキ親父が軽く頷きながら呟いた名刀の一振り。打った刀工の名は確か、綾小路……きみまろ?

「二百年は前、洛中の綾小路に住していた定利が打ちし太刀であるとお聞き致しました。親しき中であった来国行と等しき技であったと」

 ああ、そうそう。何かそんなことを言っていたような聞いたような気がするよ、うんうん、そうそう。そうかそうか、俺が気に止めたからトンチキ親父は若武者が腰にする指し料として、綾小路の刀を下賜したのか。

(それがし)が家は、他家よりも(みやび)を解する家風であると自負致しておりまする。然れど、決して武を疎かにしておる家風ではございませぬ。尚武と風雅は、北畠の名を支える二本の柱にて候」

 柳に風のようにほっそりとした姿形ながら、大風にもびくともせぬ強さを感じさせる少年、具教君。八年後に、俺も彼のような男になれるだろうか?

 ……無理だな!

 文武両道なんて器用なこと、俺には絶対出来ねぇや。それにさ、兵法指南の吉岡なんかは俺の太刀筋を見て、へ、と鼻で笑いやがったのだぜ。昨日のことだけどな!

 しかも言うに事欠いて、見事なへっぴり腰にございまする、だと!

 てめぇ、この野郎、上等だ、表へ出やがれ、そんでそのままお帰り下さい、御機嫌よう! と俺は心の中で叫んでやったぜ!

 今に見てろ、来世では宮本武蔵に転生して、吉岡道場を木っ端微塵にしてやるからな、国崩しで! 剣術なんざ鉛玉の前では何の役にも立たないことを、お前の子孫に教えてやらぁ!

 と思ったところで、何か申されましたか、と薄ら寒い笑顔をしやがったので、いえ何も、と捨て台詞を吐いただけで許してやったが。ふん、命拾いしたな。

「如何なされましたか?」

 涼しげな眼差しをくれる具教君に、いや何も、と俺は軽く首を振る。

「左中将は、兵法を嗜むのか?」

「何れは極めたく存じまするが、中々に難しきものにて」

「師はおらぬのか?」

「おりませぬ。日々、山々を駆け、己の影を対手としておるのみにござりまする」

「ならば、関東の鹿島の宮に伝わる神道流なる兵法は存知おるか?」

「遠き音信にて名のみは」

「かの地に、神道流を極めたる兵法練達の者がおると聞く。若かりし頃は洛中へも足を運び、時の大樹にも太刀筋を披露したとか」

 実はな、と俺は膝を少しだけ前に進めて具教君との距離を詰め、扇子を開いて耳元で囁いた。

「近々、関東へと使者を立てることとなっておる。余の下におる者も数人、旅立たせる心算である。その者らには関東の方々へまで赴かせ、洛中では知り得ぬ様々なことどもを見聞させる。

 その折に、彼の者の元へも参らせようほどに。何れは兵法の(ひじり)となる素養の持ち主が、伊勢国におると伝えさせよう」

 精一杯の営業スマイルをしてみせると、具教君はピョコンと一挙動で後ろへと跳ね飛び、ペタンと平伏した。平面になったカエルみたいだな、君は。

「誠に、誠に、誠に忝く、存じ、まする」

 こちらの方が恐縮するくらいに恐縮する具教君。

「大樹様から賜りし御恩は山よりも高くござりまするが、世子様がお授け下さりし御厚情は海よりも深うござりまする!」

 え、いや、俺はまだ何もしてないよ。剣聖と呼ばれた塚原卜伝には一遍会ってみたいと思っていたし、その序でにそちらへ寄り道してくれたら良いかなぁと思っただけだし。

 俺がお膳立てしなくても、史実通りならいつかは邂逅する間柄だし、師弟の契りを結ぶにあたって俺が仲立ちしたら恩を売れるかなぁ、って思っただけだからね。思いつきと打算で言っただけだから、そんなに気にしないでいいのだけど。

 ああ、そうそう。俺は師弟関係になる気などさらさらない。与一郎あたりを俺の身代わりにして剣の道とやらに邁進してもらおう。俺は俺で、グータラ道を究めるからさ。

 大体にして卜伝っておっさんは一つところに腰を落ち着けぬ人物で、よく言えば漂泊の人、悪く言えば徘徊老人。派遣した部下が遭遇出来る確率は、ツチノコ以上人面魚未満じゃないかな?

「居所定かならずの人と仄聞する故に、あまり大きな望みをかけぬようにしてくれれば……」

「滅相もなきこと。世子様は(それがし)が口にせぬ思いを見定めて下さりました。拝受致し定利の太刀が、その証しにござりまする。世子様の御言葉、必ず叶うものと信じ益々の研鑽に努めまする!」

 板の間に額を擦りつけたまま、一息で言い終えた具教君。後ろに控える木造も、何が何やら判らぬままに同じく頭を下げていた。

 最近、判ったことがある。武士、いや、武家って、感情の起伏が激しい激情人間が多いのだよ。ちょっとしたことで激発して大暴れするかと思えば、些細なことで涙を滝のように滂沱と流すのだ。

 塩分の摂取過剰じゃないか、と思うくらいに高血圧野郎ばかりなのである。

 一見すれば宮中の御貴族様方と何ら変わりのない、貴公子然とした具教君もやはり武家の一員。激情型の高血圧野郎なのだなぁ。剣術の修練で心を穏やかにする術を習得してくれれば良いが……バトルジャンキーなチャンバラ野郎にはならないでね。

 突然オイオイと泣き出した具教君に、おいおいとツッコミを入れたい気持ちを抱えつつ、俺は天井を仰いだのであった。何だかなー!


 結局、泣き疲れてフラフラになった具教君とそのお供は、そのまま済し崩し的に宿舎を慈照寺に移しやがった。そして吉岡の指導を受けたり、吉岡の指導を受けたり、吉岡の指導を受けたりを飽きもせず繰り返すこと、今日で三日目だ。

 何と精神的ダメージの蓄積する三日間であったことか!

 洛中の乙女たちが見たらきゃあきゃあと黄色い声を上げそうな、実にイキイキとした素敵な笑顔の具教君。一方で、縁側で抹茶オレを啜る木造は、どこか達観した表情をしていた。

 主従関係って、従の辛抱だけで成り立っているのだなぁ。

 何だよ、与一郎。ビスクドールに嵌め込んだガラス玉みたいな目で、俺を見やがって。

 俺は体育会系じゃなくて文系引き篭もり派の人間なのは、先刻承知のことだろうが。励んだら休むが俺の信条。今更とやかく言わせないぞ。

 肉体活動よりも頭脳活動が得意なのだし、今もこうやって色々なことに思いを廻らせているのだからな。ああ、お茶が美味しい。ほらほら、俺は縁側でサボっているから、近習たちの模範として木刀を振り回しておけよ。

 どうせお前も俺とは違い、具教君側の人間なのだからさ。文武両道、結構結構。どんどん励んでおくんなさい。

 さてさて、明日になれば具教君主従は帰国の途につく予定だ。本人はもう少し残りたそうな顔をしているが、爽やかな暑苦しさは充分に堪能したので、とっとと帰ってもらおう。

 何よりも、伊勢国までこちらが派遣する者共を連れてってもらわなければ。その内の一人は、念願叶っての厄介払いだけどな。念願とは、俺の念願でもあり、厄介の念願でもある。


 厄介とは、無人斎道有を名乗る猛獣みたいなおっさんだ。そう、漸くにして武田信虎が帰国してくれるのである、さぁさぁ皆さん万歳三唱!

 今川氏から与えられた使命などすっかり忘れたかのように洛中ライフを満喫していた信虎だが、懸命の根回しの結果がとうとう実ったのだ。懸命に根回ししたのは勿論、俺だよ!

 北条氏との交渉役に引っ張り出されたのは、聖護院門跡でもある道増伯父さん。他にも伊勢の息子の兵庫頭。北条氏は伊勢氏の庶流なのだから当然、でもない。政所執事は最初、身内を派遣することを渋っていた。

 しかし、領土争いの裁定は公儀の専権事項じゃないのか、と尋ねたら、然様です、と答えたので、ならば政所執事の代理が直接現地に行って処断すべきだ、と言えば、ううむ、と口篭る。

 じゃあ後一押し。道中で尾張国と三河国の様子を(つぶさ)に検分出来るぞ、と囁けば、そこまで仰るのならば一考致しましょう、と半ば無理矢理に肯かせたのだった。

 道増伯父さんと政所を隠れ蓑に出来れば、俺の企みもスムーズとなるだろう。企みとは北条氏の戦略を遠隔コントロールすることだ。駿河国との争いが深刻化するのは北条氏の利益にならないのは、過去の未来を知っている俺が断言する。

 北条氏の目が西に向くことは、東の関東管領が暗躍する隙が生まれてしまうということ。それだけは絶対に避けたい。俺が将軍の座に就く前に、上杉氏には出来るだけ大人しくしていて欲しいし、望めるなら弱体化していて欲しい。無駄に勢力を回復、拡大して欲しくないのだから。

 それ故に、俺の意を伝えてもらうべく近習たちからも選抜メンバーを出すのである。河田兄弟と多羅尾助四郎と山口甚助と速水兵右衛門。警護役として藤堂虎高と中村孫作。

 河田兄弟と兵右衛門は、長旅に出しても大丈夫なほどに体が強くなっているからで。助四郎と甚助は、小者として旅に付き従う甲賀忍者の多羅尾一党を監督させるため。虎高は東海道旅行の経験者な上に信虎のことをよく知る者で、孫作も心利いた甲賀者である。

 信虎がこれ以上ロクでもないことをしでかさないよう監視し、関東一円の情報収集をし、今川氏の内情を探り、北条氏と親しき関係を構築する下準備をするのが、彼らへ下した使命だ。

 どれだけ出来るかは判らない。

 多分、どれもこれも中途半端で終るだろう。

 まぁか細くとも、北条氏との繋がりが出来れば万々歳。千里の道は一跨ぎなど出来やしない。小さいことからコツコツと、とは大阪の偉人が述べた絶対の真理である、多分。

 取り敢えず期間は半年間。様々な経験をして、元気に帰ってきておくれよ。無事これ名馬、ってのは武士の一生でもあるのだからな。

 死んで咲かせる花実になど興味はないからな、と懇々と言い聞かせたのは昨夜のことだ。今夜もくどいくらいに言い聞かせねば。もしも命を散らしたいならば、俺を守って俺の目の前でせよ、と。

 あ、永禄の変のフラグじゃないからね。

 親しき者が死に花を咲かせるような事態など、御免蒙るぞ俺は。などとは、日常が戦場みたいなこの時代には甘っちょろい考えだと、重々承知している。

 だがそれでも、前途洋洋の人生を簡単に手放さないで欲しいのだ。俺の寿命が尽きるまで、生きて活きてくれよ、頼んだよ。

 さて、それじゃあ。

 俺も死なないために頑張らないと、体を強くして大きな男に育たないと!

 気持ちを新たにした俺は、体を内から強くするためにミルクたっぷりの御茶を飲む。グビグビ、グビグビと。……ああ、抹茶オレは美味しいねぇ。腹が満たされたら眠くなってきたよ。

 縁側にゴロンと身を横たえた俺は、ふわぁと大きな欠伸を洩らした。さて、一休み一休み。若子様、と与一郎が大声を出しているようだが、ズブズブの泥沼のようなまどろみを消し飛ばすほどではない。

 ほら、寝る子は育つ、ってのも、この世の真理だろう?

 近衛尚通公は史実だと、1544年の秋に薨去なされておりますが、ちょいと寿命を延ばしました。

 近衛家の赤ちゃん。後に聖護院門跡となる道澄上人。幼名の百丸は捏造です。一字名は白だとか。

 陽山上人は、後に慈照寺第6世となります。

 勧修寺家の赤ちゃん。後に信長公や秀吉公と朝廷のパイプ役となる晴豊公です。

 北畠具教公の幼名は不明ですので、捏造しました。息子に徳松丸と亀松丸がいるので鶴松丸に。

 具教公が左中将に昇進任官したのは、四位・五位の任官者名簿である『歴名土代』によれば天文14年(1545)の二月下旬だそうで。

 そして従五位下・侍従に任官したのは8年前の1537年。物語の都合で、無かった事にしました。改変点は、上洛した事と義晴公が烏帽子親となったこともです。

 ビバ、御都合主義的史実改変♪

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