第23話『普通で、特別な日に』
「夜這いに、きちゃった」
恥じらいを混ぜて告げられた雛の言葉は、その語感や声音だけでも破壊力があるというのに、現実にはそれを遙かに越える威力で優人の胸を打ち抜いていた。
理由は単純明快で、雛が身に付けた衣装――ベビードールによる相乗効果に他ならない。引っ越しの際の片付けで目撃したあの一着を、優人は今、改めて雛が着用した状態で目の当たりにしていた。
雛の髪の群青色を薄くしたような淡い水色。見ただけで薄さを感じ、実際に雛の白い肌がうっすらと透けて見える布地。胸の部分はレースの飾り付けもあって素肌を隠しているが、胸元の開きが大きくて危ういことに変わりはなく、雛の豊かな膨らみが作る谷間を晒していた。
胸の大きさと形を強調させるアンダーバストの切り替えしを過ぎて視線を下げていけば、みぞおちの辺りからはVの字を逆さまにした形で布地が分かれている。
だから当然、白いお腹と縦に伸びる可愛らしいおへそを直接見ることができて、それに加えて、ベビードールに合わせたデザインのショーツも、また。
ガーターリングの巻かれた太ももがくすぐったそうに擦り合わされる様子までばっちり凝視した後、優人の視線は雛の顔へと戻った。
彼女の頬を彩るのは濃い薔薇色。もう何度も肌を重ねてきた間柄とはいえ、やはりこういった装いは雛も相当に恥ずかしいらしく、なのに彼女は蠱惑的な笑みのままにそっと口を開いた。
「入ってもいい?」
問われたままに優人が「あ、うん」と間の抜けた返事をすると、雛はするりと優人の横を抜けて部屋へと入った。すれ違いざまに香った雛の匂いが、いつもよりずっと濃く感じる。
とりあえず扉を閉じて優人が振り返ると、ベッドに近付いた雛はサイドテーブル上で点灯していた照明を消した。点けていた明かりがそれのみだっただけに室内は暗く染まり、続いて雛がカーテンを少し開いたことで、代わりに青白い月明かりが室内に引き込まれた。
そうして優人の方へ振り向いた雛は、まさにその淡い光を身に浴びて、まるで空想の世界から現れた妖精めいた雰囲気でその場に佇む。これで半透明な羽根の飾りでも背負えば、文句のつけようもなく似合いそうなぐらいに。
「ごめんね、勝手に電気消しちゃって。自分でこういうの着といてなんだけど、やっぱりその、ね?」
そう言って困ったように微笑む雛だけど、それでもなお、自らの姿を隠すようなことはしない。両腕は改めて後ろで組み直して、全身を見せつけるように胸を張り、優人の視線を一身に浴び続ける。
もし仮に、視線というものに物理的な力があればどうなっていたことか。もちろんどれだけ穴が開くほど見続けていても何も起こるわけがないから、優人は逸る気持ちを宥めながら雛に近付いた。
「雛、こっち」
「……うん」
雛の手を引いて、まずは優人がベッドの上に足を大きく開いて座る。そうしてできた両足の間のスペースに雛を座らせると、その華奢な背中に覆い被さるようにして、優人は彼女のことを抱き締めた。
ベビードールだから背中側も大きく素肌を晒している。むき出しの肩甲骨まわりや首筋、抱き締めることで密着するそれらの場所から伝わる柔らかさや甘い匂いは、それだけで優人の腕の力を強めさせた。
「んっ」
「っと、悪い、強かったか?」
「ううん、ちょっとびっくりしただけ」
ピクンと身じろぎをされたので腕の力を弱めると、雛は笑って優人の腕に手を添えた。
気にせず抱き締めて、ということだろう。とはいえ大切な恋人が痛がったり苦しく感じたりしないよう、優人は先ほどよりもやや控えめな力加減で腰に両手を回した。
薄い、羽衣のようなベビードール。触り心地で言うと雛のなめらかな柔肌が一番なのは言うまでもないが、こちらはこちらでさらさらとしたサテン地で気持ちがいい。
趣の違う、しかしどちらも心地よい肌触りに浸りながら、首を伸ばして雛の肩越しに視線を斜め前へ。
――眼福。まじまじと見ることのできる大きな胸の谷間はその一言に尽きた。
普通の下着に比べ、ベビードールは胸を締め付ける力も弱いだろうから、雛の呼吸のリズムに合わせて形の良い膨らみは緩やかな上下運動を繰り返していた。
「どう、かな? 優人が見たがってた格好なわけだけど」
ついつい胸に見入っていると、当然その視線にも気付いているであろう雛は頬の赤みをより濃いものにさせて、優人のことを横目で見た。
最高に決まっている。しかし、雛の言う通り優人が熱望していた姿への賞賛にはそれだけだと物足りない気がして、まあこうして雛も恥ずかしさを忍んでの行動なわけなのだから、こちらもそれなりに恥をかくべきだろうと決めて優人は言葉を選んだ。
「正直に言うんだけどさ、雛がこれを隠し持ってるのを知った日から、着てる姿を何度も想像してたんだよ」
「……何度も?」
「うん、何度も」
それはつまり、雛の扇情的な姿をというわけで。
優人が潔く白状すると、「えっち」と呟く声が聞こえた。そこに、咎めるような色はない。
「でさ、俺と雛ってお互いのことをかなり知り尽くしてる仲なわけだろ? まあ、身体のこととかも含めて」
「うん……私の弱いところとか、優人にはぜんぶ知られちゃってるもんね」
「そもそも雛は弱いところだらけけどな」
「もう」
細い腰に回していた腕をぺちんと叩かれたので、お返しに首筋に息を吹きかけてやる。敏感に肩を震わせた雛が唇を尖らせて見つめてくるが、身体の反応は何よりも雄弁だ。
「まあ、こういう風に色々と知ってるわけだからさ、俺の想像っていうのも結構リアルな、精度の高いものだったと思うわけだよ。――なのに、雛はいつも、俺の想像なんて平気な顔して飛び越えてくるよな」
結局、少し回りくどい言い方になってしまっただろうか。その証拠に雛も言い切った直後はぽかんとして、だけどすぐに、とても満足そうな微笑みを口元に浮かべる。
「そう思ってくれるのは嬉しいけど、平気な顔っていうのは心外だなあ。私の顔がそんな風に見えるの?」
「まあ、すごく真っ赤で恥ずかしそうだな」
「そうだよ、恥ずかしいんだよ。……すごく恥ずかしいけど、それ以上に優人が喜んでくれるのが、嬉しいから」
「俺も恥ずかしがる雛を見れるのは嬉しいな。可愛い」
可愛い、のところはわざと雛の耳元で呟いた。こういう囁きに弱いことももちろん承知の上での行動だから、やっぱり雛はくすぐったさに首を竦めて、でも今度は感じ入るように吐息を漏らした。
――ところで、だ。
「でも良かったのか? これ着ちゃって」
「え?」
「だってこれ、もしもの時の秘密兵器だったんだろ?」
マンネリ対策だとか、確かそういった理由で用意していたものだったはずだ。だから優人も、着てみてほしいとは思いつつも言い出せず、想像の中で欲求を慰めることしかできなかった。
「なのにこんな、なんていうか、普通の日に着ちゃってよかったのか?」
一度着てくれたからもう満足、なんてことは決してない。それでも、やはり『初めて』というものにはそれだけで大きな力があると思う。
せっかく密かに用意していたことを考えると、なんだか少しもったいないのでは、というのが優人の本音と言えば本音ではあった。
優人の問いに雛は目を閉じて沈黙する。何かを思い返しているかのように少しの間そうしていると、やがて彼女は温かな光を灯した瞳を覗かせて、優人に優しく笑いかけた。
「今日一日のデートを通して改めて感じたの。優人はいつも、私のことを大事に考えてくれてるって。そして、それは私も同じ。だから、そんな私と優人の仲で、変な心配なんてする必要ないのかなって」
「雛……」
「というか、忘れたの? 他でもない優人が言ってくれたんだよ」
「え?」
唐突に話を振られ、優人の頭に疑問符が浮かんだ。
他でもない、優人自身が? 何かきっかけになるようなことを口にしただろうかと考えを巡らせるよりも早く、雛がその言葉を紡ぐ。
「確かに今日は普通の日かもしれないけど、私たちが過ごす一日一日は特別で、大切ものだって。――だから、いいの」
「……そっか。そうだったな」
蓋を開けてみれば、確かに優人が伝えた言葉だった。今日の夕方、デートの最後に訪れた展望台で告げた、雛への想いの丈。
改めて繰り返されると、やっぱり小っ恥ずかしいことを言ったものだと顔が熱くなるが、こうして最愛の彼女が共感して、行動に移してくれたのと思えば喜びの方が勝った。
湧いた喜びはそのまま愛情へと変換され、優人はそれに導かれるまま雛に口づけをする。半ば衝動的だったのに、雛は欠片も驚くようなこともなく、優人と同じ愛情で唇を触れ合わせてくれた。
唇の表面だけじゃなく、もっと深いところまで。その濃さを証明するように、少ししてから離れた二人の唇の間を銀色の糸が伝う。それがぷつりと切れる中、いよいよ雛を求める欲求に歯止めが効かなくなってきた優人は、色香を漂わせる白い首筋に顔をうずめた。
雛の身体がびくりと震えたのは、それもあるだろうけど、それ以上に下の方で押し当ててしまっているもののせいだろう。
「優人の息、すごく熱くなってる……。それに、背中からでもドキドキしてるのが伝わってくる感じ」
「うん……さすがにもう、我慢の限界だ」
「今さら我慢なんてしてたの? むしろ、まだ我慢できたぐらいなんだ。ふぅん」
「言葉の綾だっての。そもそも俺が我慢強いのは、雛だって分かってくれてるだろ?」
「ふふ、うん、分かってるよ。我慢強いだけなんだって」
何もお見通しだと言わんばかりに雛は微笑んだ。
そこまで見透かされているのなら、もうこれ以上は抑える必要なんてない。
優人は自制の鎖の最後の一本をあっさりと引きちぎると、それでも雛のことをベッドに優しく押し倒して、彼女との普通で特別な一夜に心ゆくまで溺れた。




