第178話『星空を眺めながら』
我慢というものは、そのゴールさえ明確であれば案外容易い。
風呂上がりに落ち着いてからと約束したこともあり、雛の艶姿を目前にしても優人の欲は一旦鳴りを潜め、今は彼女と並んで湯船に身を沈めている。無論、完全に欲が治まったわけではないが、それよりも好きな相手と憩いの時間を共有している喜びの方が大きい。
それについては雛も同じ気持ちでいてくれるらしく、本日二度目の温泉にゆるりと眉尻を下げた彼女は、はふ、と弛緩した色を吐息に含ませた。
「いいお湯ですねえ……」
こてん、と雛の頭が優人の肩に乗る。
湯浴み着は改めて着用し直したのでお互い変に身体を隠す必要もなく、寄り添った肩から伸びる二人の手はお湯の中で指と指を絡め合っていた。
温度としては温泉の方が高いはずなのに、それでも雛の温もりを感じ取れる気がする。何となくくすぐるように握る力を強めると、ふふっと笑った雛はお返しと言いたげに同じだけの力を込めた。
趣のある二人きりの露天風呂、そこから眺める綺麗な星空、そして極めつけはすぐ隣の恋人の存在。
「俺たち、すごい贅沢してるよなー……」
「ですねー……」
もはや何度目かも分からなくなってきた感想をこぼすと、雛の頭が少しだけ縦に動き、湿った群青色の髪が優人をくすぐった。
この旅館に来ることができた要因である両親からの援助は、一応優人たちが彼らの手伝いをした上で得た報酬だ。しかし、仮に時給にでも換算すれば恐ろしく割のいいバイトだったと言えるだろう。
恵まれ過ぎているぐらいだが、ここまで来たら享受したもの勝ちだと割り切って、優人は身体の力を抜いた。
「あー……もう思いっきり足を伸ばせるってだけでもありがたいわ」
「優人さんは背が高い分、足も長いですもんね。アパートのお風呂だとやっぱり小さく感じるんですか?」
「そこまでの不満はないけど、まあもうちょっと大きければ思う時はあるな」
「……むぅ」
「雛?」
「いえ、やっぱりアパートだと厳しいのかなと思いまして」
「何が?」
聞き返しても雛の返事はない。代わりに一度立ち上がった雛は優人の前に移動すると、背中を向けて優人の足の間に腰を下ろし、そのまま身を預けるようにもたれかかってきた。
「こういうの、ですよ」
至近距離で向けられた口元にはいたずらな笑みが浮かんでいる。
「こんな風に二人で一緒にお風呂、っていうのは帰ってからだと難しいでしょうね」
「さすがに窮屈過ぎるかもな。……雛となら、どれだけ窮屈でもいいけど」
腰に腕を回して抱き締めると、密着度はさらに増した。すると雛は体育座りのように身体を縮こまらせるので、優人も伸ばしていた膝を曲げ、身体全体で雛を包み込むような体勢に変えてみた。
「これぐらいくっつけばいけるんじゃないか?」
「……帰ったら試してみます?」
「……次の日が休みの時にな」
まず間違いなく、入浴して終わりじゃ済まなくなりそうだから。
優人の言葉の裏を雛が読み取ってくれたかは分からないが、ほわりと顔を赤らめた雛は「分かりました」と頷いた。
そこで会話が途切れ、お湯の流れる音が響くだけの沈黙が訪れる。
話題がないというよりは、密着してるからこそ伝わる感触に意識が割かれてしまっているのが大きい。
もちもちすべすべ、身体を洗った直後でなおのこと白さの眩しい雛の美肌。
ちょうど埋めやすそうな位置にある雛のうなじに顔を押し付けると、雛はぴくんと首を竦めるが、抵抗と言えるほどのものではない。
受け入れてくれる。その事実にどうしようもなく胸の奥をくすぐられながら、優人はそのまま雛のなめらかな首筋に口付けを落とした。
痕は残らないほどの弱い吸い付きだけれど、代わりに何度も、まんべんなく。
その一つ一つに時には身体を揺らし、時には小さく上擦った声を漏らす雛は、やはり抵抗らしい抵抗をしない。
仮に優人が先ほどの約束を反故にしても、きっと雛は恥じらいながらも身を委ねてくれるのだろう。どこかで踏ん切りをつけないと際限がなくなりかねないので、半ば苦渋の決断で優人は唇を遠ざけ、雛を抱く力を少し緩めた。
振り返った雛がわざとらしく頬を膨らませる。
「もう……本当に優人さんはいたずらが好きなんですから」
「嫌だった?」
「……答えが分かり切ってるのに、訊く必要なんてあります?」
「ちゃんと言葉にするのって結構大事だと思うけど?」
「言わせたいだけのくせに。……優人さんに触れてもらうの、恥ずかしいけど好きですよ」
「……ありがとな。俺も雛に触るの、気持ちよくて好きだ」
はっきりとした言葉には、もちろん同じものを返す。
すると、微笑んだ雛は優人の腕をとんとんと叩いた。
「優人さん、ちょっと離してもらっていいですか?」
「え、ああ……」
さすがに落ち着けなかっただろうか。残念なものを覚えつつも雛の要求に従うと、一段と笑みを深めた彼女は器用に身体の向きを反転し、優人と向かい合わせの体勢になった。
可愛らしくも美しい顔立ちが真正面に広がり、優人の上半身には、確かな質量を伴う得も言われぬ柔らかさが押し当てられる。
「後ろから抱き締めてもらうのも好きですけど、こっちなら優人さんの顔がよく見えます」
「いいのか? これだと雛は景色が見れないけど」
「今は花より団子な気分なので」
「団子って俺?」
雛の発言に苦笑を浮かべる間もなく、彼女から唇を奪われた。
優人のよりは小さく、潤いのある雛の唇はふっくらとした感触を優人に与え、それこそ啄まれるようにはむはむと唇を上下されると、雛の愛情が熱と柔らかさを引き連れて流れてくるようだった。
垂涎のアプローチに浸っているとやがて唇が離れ、キスの残滓を確かめるように雛の舌先が桜色の唇を舐める。
「えへへ、優人さんの唇食べちゃいました」
「……俺も食べていい?」
とろけた恋人の笑顔を前にたまらず尋ねれば、返事の代わりに瞼のカーテンが金糸雀色の瞳を覆い隠す。雛の頭と、それから背中に手を添えて彼女を抱き寄せると、優人はわずかに突き出された唇に自分のそれを重ねた。
こぼれる吐息や、合間を彩るわずかな水音を感じながらの雛との戯れ。
団子どころか最高級のお菓子のように甘く感じる雛の唇は、重ねるだけでも十分幸せな一方、それよりも深い繋がりを知った今では少し物足りない。
だから、息継ぎの瞬間を狙って雛の内側に潜り込むと、優人の腕の中で雛の背筋が強くわなないた。いつしか優人の首に回されていた細い両腕に、ぎゅうっと縋るような力が加わる。
こういったキスに未だ不慣れなのは優人とて同じだが、かと言って自ら求めておいてたどたどしいのは男のプライド的にも情けない。だから、精一杯の虚勢を張りながら雛の背中をゆっくりと撫でて、奥で縮こまっている彼女を優しく掬い上げていった。
次第に水音が粘ついたものに移り変わる。その音色が頭の裏を痺れさせるも、優人は決して逸らず、どこまでも優しく雛に触れ続けた。
「っは……優人、さん……」
キスを終え、はぁ、はぁ、と荒くか細い呼吸を繰り返す雛。瞼の奥から姿を現した甘ったるく潤む瞳が何を望んでいるかは明白だ。
星空のように輝く金糸雀色の眼差しを見つめ返しながら、優人はもう一度、雛の中に潜り込んだ。




