第170話『不意打ちクリティカル』
雛が言うところの堕落した一日の夕食は久しぶりに宅配ピザを注文した。それこそ外出もせずに高カロリーのものを食べるなど健康面的にどうかと思うが、その辺りは雛がありあわせの食材で簡単な野菜スープを作ってくれたので多少は緩和されたと判断しよう。
ちなみに、引き続き彼シャツモードの上からエプロン着用のなかなかにマニアックではないかという格好の雛を目にし、優人がしばらく胸の疼きを患うはめになったのは余談である。
「――はい。はい、分かりました。ありがとうございます」
食後からしばらく。先に入浴を済ませた優人がタオルで髪を拭きながらリビングに戻ると、スマホを耳に当てて誰かと話している雛を見かけた。
電話中なのは間違いないが、声音がやや緊張している上に体勢が正座なので、全体的に畏まった雰囲気が漂っている。
いったい誰と。そんな疑問が顔に出てしまったのか、戻ってきた優人に気付いた雛は顔を上げ、スマホの通話口を手で覆う。
「空森の、お義父さんです」
「――そっか」
雛の小声の言葉を聞いて口元を緩めると、優人はベッドへ向かうすれ違いざまに彼女の頭をぽんぽんと優しく叩いた。突然の子供扱いめいた手つきに雛が目を白黒させるけれど、これについては許してほしい。優人にとっては微笑ましく、そして嬉しいことなのだから。
なんでも夏休みに入る前から、こんな風に電話で近況報告をする時間が時々あるらしく、電話中の雛の様子にこそまだ緊張感は抜けないが、時折淡い笑みを浮かべて相手の言葉に耳を傾けている場面も見受けられる。
優人が余計な手出しをせずとも、雛と義理の家族との関係はちゃんと改善に向かっている。それはとても喜ばしいことであり、優人の方も温かな気持ちになるほどだ。
「はい、気を付けます。旅館の場所はあとでそちらにも送りますね」
話の中身は、八月の下旬に雛と行く一泊二日の小旅行についてらしい。先日の帰省と違って完全に高校生二人きりの遠出になるので、お互いの保護者に話は通しておいた方がいいというのが雛との取り決めだった。
優人の両親へは帰省の前に伝達済み。雛の口振りを聞くかぎり空森家的にも特に問題はなさそうなので、今から旅行が楽しみだ。
「それでは、また。おやすみなさい。――え? あ、はい、でしたらちょうど今隣にいますけど……」
「ん?」
不可解そうな言葉と共に向けられる雛からの視線。
優人も揃って首を傾げる中、雛は通話を保留状態に切り替えてこちらを窺う。
「お義父さんが、優人さんと二人で話をさせてもらえないかって……」
「は、俺?」
こくり、と雛の首肯が返る。
「な、なんで?」
「さあ……それは私にも。面識もないのに不思議ですよね」
「あー、ほら、あれじゃないか。旅行に当たって、一緒に行く男がどんな奴か見極めておきたい的な?」
「え、そんな必要は、」
「いいっていいって。俺も雛の親御さんとは一度話したいと思ってたし、出るよ」
「……まあ、優人さんがいいのなら」
実はすでに面識があるのだが、雛が知り得ない事実なので適当な理由をでっち上げる。
微妙に不服そうでも差し出された雛のスマホを受け取り、「二人でと言ってましたから、私はお風呂に入ってきますね」と言い残した彼女が浴室へ向かったのを見届けてから、優人はスマホの画面に目を落とした。
雛の義父――空森明。表示されるその名前を前に背筋を伸ばし、画面をタップして保留状態を解除する。
「……どうも」
『ああ、あの子――雛は?』
「お風呂に入ってくるって。今は近くにいないので、普通に話してもらって大丈夫ですよ」
『そうか。では……久しぶりだね、天見くん』
「お久しぶりです、明さん」
明と初めて会ったのは約三ヶ月前のゴールデンウィークのことだ。
期間こそそれなりに空いたが、優人にとっては印象深い出来事だったので明のことははっきりと覚えている。
あの時と同じ芯のある、大人の男性の低い声音。けれどあの時に比べれば、幾分か柔らかさを帯びたようにも感じる。
そのことに優人が肩の力を緩めると、電話越しの明が笑った気配を微かに捉えた。
「明さん?」
『いや、すまない。どうやら君たちは、二人でいるのが至極当然になっているのだなと思ってね』
苦笑混じりの指摘だった。
優人がすぐに電話を代わることのできた状況や、お風呂に入ってくるという雛の発言。二人が同じ空間にいたことの動かぬ証拠である。
「えっと、ご報告が遅れたんですが……」
『そう畏まらなくとも雛から聞いている。正式に付き合うことになったそうじゃないか。おめでとうと言わせてもらうよ』
「ありがとうございます。すいません、報告の一つでもするべきでしたよね。明さんの連絡先なら名刺で貰ってましたし」
『構わないさ。むしろ私としては、前回の時点で君があの子の恋人だと勘違いしていたぐらいだからね。こう言ってはなんだけど、何を今さらという感じだ』
「あはは、その節はどうも……」
今度は優人が苦笑する番だ。
あの時はまだ優人と雛は交際関係でなく、それを伝えた瞬間の明の表情が場の雰囲気にそぐわない素っ頓狂なものだったので、正直記憶が薄れることはなかった。
『本当にあの時はありがとう。君が話し合いに応じ、私たちの背中を押してくれたからこそ、今では雛とも少しずつ話ができるようになっている』
「それについてはお互い様なところもありますけどね」
『……ん、と言うと?』
「明さんが、俺が雛の恋人じゃないってことに驚いてくれたから、自分の立場は中途半端なんだなって自覚させられたんです。雛を支えたいなら、俺もいい加減覚悟を決めなきゃいけない。だから告白に踏み切れた。明さんのおかげです」
『……君が誠実な人間だからこそ、だと思うがね。でもまあ、少なからず君の力になれて、雛の幸せに繋がったのなら本望だ』
電話越しの明は謙遜するかのように言うが、優人にとって大きな転機となったのは間違いない。そういったことも考えれば、あの話し合いはお互いにとってとても有意義なものだったと言える。
「雛とは、その後どうですか?」
雛の様子を見るかぎりは比較的好調だと思うが、一応明たちからの話も訊いておきたい。
少し訊くぐらいなら差し支えもないだろうと問いかけてみれば、明は緩く息を吐いた。
『妻ともどもどうにかかな。私たちとしては徐々に距離を縮められていると思いたいが、なにぶん親としての経験値など無いに等しいからね。あの子にどう感じてもらえているかについては……正直自信が無いな』
「今の調子でいいと思いますよ? 雛も笑うようになってますし、誕生日に誘われた時は……まあ、ちょっと戸惑ってはいましたけど、ちゃんと嬉しそうでもありましたから」
あえて指摘こそしないが、例えばお互いの呼び方には兆しがある。
雛の場合は、『家の人』から『お義父さん』に。
明の場合は、『彼女』から『あの子』や『雛』に。
お互いぎこちなさはまだ残っているけれど、ちゃんと距離は、近付いている。
『そうか……そうだったか。もっとも、その誘いはどこぞのプレイボーイ相手にあえなく玉砕だったがね』
「……すいません」
『冗談だよ。そもそも先約だったのだろう? こうも素敵な彼氏が手ずから祝ってくれるんだ、優先して当たり前さ』
電話だというのに思わず頭を下げてしまうと、くっくっと人を食ったような笑い声が小さく聞こえてきた。
思ったよりしっくりくる笑い方。なんだろう、意外とこっちの方が彼の素に近いのかもしれない。
『おっと、そうだ。雛にも伝えたから分かってるかもしれないが、旅行についてはOKだよ。本来なら援助もしたいところだが……』
「ちょっとした手伝いの見返りってことで俺の両親が一部出してくれますから。自分たちが行きたいだけの旅行なので、あまり人のお金に頼ってしまうのも」
『らしいな。うん、恋人同士水入らずで行っておいで。雛もだが、君もしっかりしてる子だから二人だけでも問題ないだろう』
「ありがとうございます」
『なに、道中の無事を祈っているよ。――まあ一応、大人の立場として言わせてもらうことがあるとすれば、』
「はい?」
和やかな会話の中、付け足された明の言葉に優人は疑問符を浮かべる。
『羽目を外し過ぎず、高校生らしく節度を持って楽しんでくるように、かな』
グサッ。予期せぬ一刺しが優人を襲った。
『いやすまない。君たちには要らぬ心配だったな』
「……い、いえ、肝に銘じておきマス」
心苦しい。
軽はずみに及んだつもりは微塵もなければ、しかるべき予防策もきちんと取っていたけれども。
つい昨夜、娘さんの純潔を奪った身としては、彼からの信頼には……非常に心苦しいものがあった。




