愚者の決断
「はぁー……」
溜息を吐きながら自分に与えられた部屋へと戻って来たアイナは、ベッドの傍にまで歩いていくと、そのままベッドへと突っ伏した。
異様なほどの柔らかさがアイナの身体を優しく受け止めてくれたおかげで、身体へと伝わってくる衝撃はほぼゼロだ。
だが今のアイナにはその感触を楽しんだり、自分には分不相応なものだと考えたりする余裕はない。
もぞもぞと首だけを動かし、横を向くと、再度大きな溜息を吐き出した。
「もう駄目、つっかれた……知らないことを知るのって、ここまで大変だったのね」
学ぶことの大変さは学院で十分理解したつもりであったが、どうやら本当につもりでしかなかったらしい。
もっとも、街中でしたら即座に異端審問官に引っ張られそうな話がポンポン飛び交うような授業が学院で行われるわけもないので、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが。
それでも、ソーマ達に疲れた様子は見られなかったのだから、そんなことを言ったところで慰めにもならない。
こんな調子ではここにいて何らかの役に立てるような機会などあるのだろうか。
そんなことを考えていると、思わず三度目の溜息が漏れた。
「ある程度は分かりきっていた結果だとはいえ、さすがにちょっとへこむわね……」
同じ場所にいたのは、ソーマにヒルデガルドに、神だ。
神が同じ場にいたとか意味がちょっとよく分からないが、アレは確かに神なのだろう。
同じ経験をした者にしか分かるまいが、目にした瞬間、本能的にそれを悟ってしまったのだ。
見間違えることなど有り得ないと断言できてしまう程度には。
それに、ソーマ達が認めてもいたのだ。
ならば尚更、本当であるに違いなかった。
というか、そもそもそれは別に問題ではない。
聖神教的に考えれば色々問題はあるのかもしれないが、アイナは信徒ですらないのだ。
そこに問題があったところで、知ったことではない。
だからむしろ問題なのは――
「……何よ神から直接教えを乞うって」
どちらかと言えば、そのまま新しい宗教を作れそうな勢いだ。
そのぐらい有り得ないし、誰に話しても作り話扱いしかされまい。
ラディウスでその話をしてみた時の反応を想像し――
「……あれ? 意外と信じられそうな気がしてきたわね……」
想像の中の皆の顔には呆れが浮かんではいたが、言葉に表すならば、ああ、ついにそんな領域にまでいきやがったか、といったものだ。
そこに否定的な色はない。
そして仮に自分が聞かされる側だったとしても、同じような反応をするだろうことは容易に想像できた。
だってあのソーマなのだ。
その程度のことが起こったところで、何の不思議もあるまい。
だが逆に言うならば、それはソーマがいたからだ。
自分だけであったならば……もしくは、ヒルデガルドが共にいたとしても皆は信じることは出来なかったに違いない。
皆の顔に浮かんでいる表情は同じ呆れであったかもしれないけれど、その意味するところは、そんなことは信じられない、といったものだろう。
……いや、でもあるいはソーマならば、ソーマだけは違う反応を――
「って、だからソーマはいいってば……」
自らの思考に呆れるようにアイナは呟きながら、ぼふっと枕へと顔を埋めた。
そもそも話がどんどんずれていっている。
いい加減修正しよう。
「えっと……神から直接教えを乞うなんて信じられない、ってところだったかしら」
ごろんと転がり、仰向けになって天井を見上げながら、思考を続ける。
神がいて、神とまるで対等のように話せ、神から色々なことを教わるなんて、昨日の自分が知ったらどう思うだろうか。
もしもディメントから使者として発つ前に、そんなことを知っていたとしたら、果たして自分は――
「……いえ、それだけだったならば、何だかんだで来ていそうね」
臆すことはあっても、引くことはなかっただろうと、そう思う。
母国に……母国となった場所の役に立て、ソーマのために……いや、ソーマへの借りを返せるかもしれないのだ。
来ない理由こそがあるまい。
「……ま、来たところで、このままじゃ意味があったのかは何とも言えないところなんだけど」
こうして思考を口に出して誤魔化してみたところで、未だに頭の中を思考とは別の言葉がぐるぐると回っている。
悪魔に魔王、法術に呪術、世界に邪神に父親、大断絶。
今日知ったばかりの情報が、消化不良のままで駆け巡っていた。
――それと、何よりも、ソーマに手も足も出ずに負けた事が。
勝てると思っていたわけではない。
負けるのは想定通りだ。
しかしあそこまで、本命の魔法を使うことすらなく倒されるだなんて、思っていたわけがなかった。
想像よりも遥かに足りていないという現実を、突きつけられたのだ。
一瞬足りとも気を抜いてはいなかった。
集中力が途切れたのは、だから純粋な力不足だ。
言い訳のしようもないほどの完敗である。
昔から、一歩足りとも前に進めてはいなかった。
あるいは、それ以上にソーマの歩く速度が速かった、ということなのかもしれないが、それは言い訳にはなるまい。
ソーマの役に……ソーマへ借りを返そうというのであれば、今のソーマの実力に追いつかなければならないのだ。
でなければ借りを返すどころか、さらなる借りを作る未来しか見えない。
知恵を貸そうにも、ソーマ達は平然としていたというのに、アイナがこんな有様な時点で望み薄であり――
「ま……だからといって、諦めて逃げ帰るなんてことをするつもりも、まったくないんだけどね」
本当はそうするべきなのだろうか?
そうなのだろう。
そうして足を引っ張らないようにするのが、賢い選択というものだ。
だが生憎とアイナは賢くはないのであった。
馬鹿で構わないし、馬鹿がいい。
足を引っ張りたくないからとかいう理由でここで逃げ帰ることを賢いというのならば、アイナは馬鹿でよかった。
「……というか、何を勘違いしていたのかしらね」
自分の思い違いに、自嘲めいた苦笑を漏らす。
確かにアイナは学院でそこそこ優秀な成績を取れていたし、暇がある時にはソフィアから鍛えられ、ソフィアの弟子のような扱いを受けるようになった。
そういったことが功を奏したのか、今日はついに神からソフィアの後釜になれるだけの力があるという言葉をもらい……しかし、少し考えてみれば分かることだ。
そんなことがどうしたというのか。
その程度のことが、どうして自慢になり、自信になると思ったのか。
自分の遥か前を歩き、借りを返そうとしている相手は、あのソーマなのである。
そんなもので足りないなどということは、当たり前のことでしかなかった。
「……頭を切り替えなさいよ、あたし」
自分に言い聞かせながら、思い出す。
そうだ、昔の自分はそのことをしっかりと理解していた。
それこそ当然のように、自分がソーマに及ぶはずがないということを、知っていたのだ。
そしてそれでも、ソーマの後ろを歩いていた。
やれることがあったから。
ソーマは無敵でなければ、万能でもない。
一見何でも出来るように見えるくせに、妙なところで抜けていたり、唐突に変なことをやりだすこともある。
やれることなんて幾らでも、幾つでもあった。
思うところは、もちろんある。
ないわけがない。
だがそれはそれだ。
不平を口に出来るのは、実力を持つ者の特権である。
及ばない程度の実力しか持ち得ないのならば、出来ることをやるしかないのだ。
それに、きっと……単純な実力で言うのならば、ヒルデガルドすら足りてはいないはずである。
それを彼女が理解出来ていないわけがない。
しかしそれでも、彼女はあそこにいるのだ。
ソーマの隣に立って、同じ目線で歩いている。
少なくとも、そうしようと望み、足掻いていた。
ならば……アイナにも出来ない理由はあるまい。
「……負けないわよ」
何のことかは告げず、頭に思い浮かべることもないまま、呟く。
変に意識してしまったらろくなことにならない、などということは、誰に言われるでもなく自分自身が一番よく分かっていた。
だから、妙な言葉を考えてしまう前に、アイナはそのまま目を閉じる。
眠るためではなく、頭を冷やし且つ活力を得るためだ。
そうして目を開いたら……さて、どうしようか。
とりあえず、隣の部屋に行くことだけは確定だろうけれど。
そんな少し先のことと……もっと先のことを考えながら、アイナは口元をほんの少しだけ緩めるのであった。




