少女と魔族
「さて、それでは皆様、本当に長らくお待たせいたしました。魔天将の一人としての名を以って、本日この時をもちまして計画の開始を告げさせていただきます」
その言葉は、静寂の中で迎えられた。
誰も彼もが一言も喋ることすらなく、薄闇の中にただ響く。
だがそれは、怒りなどの負の感情が原因となり起こっていることではなかった。
逆だ。
溢れんばかりの歓喜によって、震えそうになる身体を抑えるので精一杯なのである。
「そうか……ついにか」
それでもようやく口に出された言葉は、やはり僅かに震えていた。
フードで顔を隠されている中、そこだけ外に晒されている口元が、隠しようもないほどに緩んでいる。
しかしそれに対し男は、何かを言うつもりはなかった。
対面に座っているその人物含め、そんな反応をするのが当然だからである。
故に男はそれに満足を覚え、だからこそ、心の底から申し訳なさも覚えた。
「はい、ついにです。……申し訳ありません。全てが上手くいっていれば、今頃計画の開始どころか、計画の完遂を告げられたはずなのですが」
「……いや、それについては、汝に言ったところで仕方のないことだ。そのことは、ここに居る皆が理解しておる。それに計画を完璧なものにするためには、その方がいいのであろう?」
「……ええ。素直に従ってくれたのであれば、計画はスムーズに進めることは出来たでしょうが、その時は質が足りない可能性がありましたから」
だがこれで質に関しては、心配する必要がなくなっただろう。
元々素材としては、申し分なかったのだ。
そこに恐怖の感情を叩き込めば、生贄としては完璧なものとなるに違いない。
だから本当はあのまま強引に連れて来てしまってもよかったのだ。
だが殺すわけにはいかないし、監禁では万が一ということもありうる。
万全の態勢を整え計画を実行に移すのであれば、これ以外に方法はなかった。
それを考えれば、そもそも先週赴く必要もなかったと言えるが……まあ、男は男で気が急いていた、ということだろう。
己の未熟さを恥じるように、小さく咳払いを起こす。
しかし何にせよ、自分達の悲願の時がすぐそこまで迫っていることだけは、確かだ。
それを確かめるが如く頷くと、男は立ち上がった。
「さて……そろそろ私は向かわせていただこうかと思います」
「おや、もうかね?」
「申し訳ありません……正直、待ちきれないものでして」
「なるほど……想いは皆同じ、ということか」
その言葉に、皆の口から笑みが漏れ、らしくない緩んだ空気が流れる。
だが状況を考えれば、ある意味それは正しいのだろう。
故に男もそれに応えるように同じく笑みを浮かべると、頭を下げた。
そして。
「では、私は彼女を連れてきますので、後のことはよろしくお願いします」
「うむ、そちらは任せたから、こちらは任せたまえ」
「はい。全ては魔王様のために」
「魔王様のために」
そう言って、その場を後にした。
木漏れ日の降り注ぐ中を、アイナは一人何をするでもなく座り込んでいた。
その視線は何処に向いているでもなく、呆とした表情を浮かべている。
とはいえ別に何かがあったというわけではない。
単純にソーマが来るまでの間、暇だというだけであった。
「……はぁ。暇ね」
声にも出してみるが、当然それで状況が改善されることはない。
その場で視線を巡らせてみるが、そこにあったのはいつも通りの木々だけだ。
人影の一つも見えないその光景に、思わず溜息が漏れる。
本来であれば、ソーマが来ているはずの時間はとうに過ぎていた。
もっとも実のところ、それは予定外ではない。
昨日ソーマから、今日はちょっと三十分ほど遅れるということを聞いていたのだ。
それなのにいつも通りの時間にアイナがそこに来ているのは……まあ、ただのいつもの習慣だろう。
聞いてはいたけれど、ついいつも通りに出てきてしまっただけで――
「……なんて、誰に言い訳をしてるのよ」
そこまで考えたところで、自分の思考に苦笑を浮かべた。
本当に、誰に言い訳をしているのやら、という感じである。
言い訳などするまでもなく、今ここに居ること……ここに残っていることこそが、その理由だろうに。
まあしかし何にせよ、暇なのは事実である。
さてどうやって暇を潰したものかと――それが起きたのは、そんなことを考えている時のことであった。
「――動くな」
「――え?」
それには何の前兆もなかった。
何の気配も感じず、唐突に、アイナは後頭部に何かを突きつけられるのを感じたのだ。
突きつけられたものが何なのかは、当然のように分からない。
だが感触からして、それは明らかに尖っている何かだろう。
とはいえ直後にアイナが混乱したのは、そういったことが理由ではない。
聞こえたその声が、明らかに覚えのあるものであったからだ。
それは先週も聞いたものであり――
「えっと……リナさん、よね?」
「……はい、合ってるのです」
そこでアイナが安堵の息を吐き出したのは、リナで間違っていなかったからというよりは、ちゃんと返答があったからである。
まあその声が妙に硬かったのが、気になると言えば気になるが……とりあえずそれはいいだろう。
それより、言っておかなければならないことがある。
「その……驚くから、こういうことはあまりやって欲しくないんだけど? それに、確かリナさんが来るのは明日じゃなかったかしら?」
「本来はそうだったのですが、ちょっと兄様を驚かせようと思って今日来てみたのです。まあどうやら兄様はまだ来ていなかったみたいですが……それはそれで、都合がよかったのです」
「都合がいいって……あたしのことも驚かせるつもりだったってこと? まあ確かに驚いたけど……冗談にしても、ちょっと趣味が悪いわよ?」
「……冗談、なのです? どうしてこれが冗談だと、そう思ったのです?」
「…………え?」
いやだって、そうだろう。
冗談のはずだ。
冗談でなければならない。
だってリナがそんなことをする理由など、何処にも――
「わたしが魔族に武器を突きつけていることのどこに、そんなに不思議に思う要素があるのです?」
「――」
瞬間、息が止まった。
だけどそこで逆に動揺が収まったのは、そういうことかと納得がいったからである。
いつから気付いていたのか、などと聞くのは愚問だろう。
そもそも気付かれていないなどと考える方がおかしいのだ。
そしてアイナも、特に隠しているつもりはなかった。
これは一応本当のことだ。
聞かれれば答えるつもりだったのだが、聞かれないから言わなかっただけなのである。
勿論、言いたくなかったのも、事実ではあるが。
だがだからこそ、アイナはそこで身体の力を抜いた。
抵抗したところで無駄であるし、それなら仕方ないとも思ったからだ。
ただ、出来れば最後にソーマに――
「……はぁ。まったく、無防備すぎなのです」
「……え?」
しかしそうして覚悟を決めていると、何故かリナは背後から離れ、溜息を吐き出した。
そのまま前までやってきたリナの顔に浮かんでいるのは、殺意や嫌悪ではなく、呆れのそれだ。
とはいえそれが分かったところで、どういうことなのかは分からず、先ほど以上の混乱に襲われるだけである。
「……え? え? どういう、こと……?」
「どういうことも何もないのです。今のわたしじゃなかったら、本当に死んでたのですよ? まったく、こんなところに来ているのですから、もっと警戒するのです」
「……へ?」
本当に、意味が分からなかった。
何故自分が説教されているのか。
何故自分が殺されていないのか。
何故、今までと同じような態度で接されているのか。
アイナには、何一つ分からなかった。
「……殺さないの?」
「はい? 何言ってるのです? 確かにちょっと兄様と仲良すぎてイラッとする時はありますけど、別にわたしは殺すほどアイナさんが嫌いでも憎くもないのです」
「だ、だって今の……」
「勿論冗談なのですよ? ……いえ、冗談と言ってしまうと、少し違うですね。警告、に近いでしょうか?」
「警告……?」
「自分がどれほど危険な状況にあるのかを、知ってもらいたかったのです。アイナさんも兄様も、わたしが来たっていうのにろくに警戒してなかったですし」
……確かに、言われてみれば、ろくに警戒などしていなかったような気がする。
ソーマの妹だから、というのが主な理由だった気がするが……それは確かに、迂闊なことではあった。
「まあ兄様の場合は単純にどうとでもなるから警戒する必要がないだけだとは思うのですが、アイナさんの場合は問題ですから。いつか話す必要があるとは思っていましたが、今日は一人だけだったのでちょうどよかったのです」
「……そう」
嘘を言っているようには見えないし、嘘を言う必要もない。
つまりは、本当にそれが理由であんなことをしたのだろう。
先ほどとは違う理由で、アイナの身体から力が抜けた。
「……はぁ。まったく、驚かせないでよね。本当に、趣味悪いわよ?」
「ですから、冗談だったわけではないのです。それに驚かせなければ、意味もないのです」
「まあ、それはそうかもしれないけど……」
しかしそうだとしても、愚痴の一つや二つ言う権利はあるはずだ。
何せ本当に、本気で死を覚悟したのだし――
「ともかく、ちゃんと気をつけてくださいなのです。もし他の誰かに見つかってしまったら、それこそ本当に――っ!?」
「――え?」
瞬間、アイナが認識出来たのは、リナがその場から飛び退いたということだけであった。
何故そんなことをしたのかは分からず、だがすぐにそんなことを気にしている場合ではなくなる。
飛び退いたリナの身体が、明らかに何らかの力によりそのまま吹き飛ばされたからだ。
「――リナ!?」
思わず叫び、即座に振り向いたのは、半ば反射的なものだ。
後方から魔力が流れてきたということに、本能的に気付いたからである。
そしてそれは果たして正しく……視界に映った姿に、アイナは目を見開いた。
見知った人物だったからである。
「アルベルト!?」
だが悠長に驚いている暇もなかった。
右腕を持ち上げ突き出したアルベルトが何をしようとしているのかを、理解したからだ。
咄嗟に止めようと、手を伸ばし――
「――ま」
「――薙ぎ払え、ショックウェーブ」
しかし当たり前のように間に合わず、後方で轟音が響いた。
その直後に何かが叩き付けられたような音が聞こえたが、おそらくそれはリナが地面に叩きつけられた際の音なのだろう。
それを確認する間もなく、さらにアルベルトの姿が消える。
「――っ」
慌てて振り返ると、地面に倒れ伏しているリナに、アルベルトが手を伸ばそうとしているとこであった。
何故こんなことを、と思ったが、アイナはそこで直前にリナが何をしていたのかを思い出す。
あれは本気でアイナをどうこうしようとしていたわけではなかったが……傍から見ていたら、果たしてどう見えていただろうか。
そこまで考えが至った瞬間、それ以上考えるよりも先に、アイナは叫んでいた。
「ま、待って! 違うの、アルベルト! 彼女は別に、あたしを傷つけようとしたわけじゃなくて! その……そう、だから、あたしを助ける必要なんてなくて……!」
何と言ったらいいのか分からなかったが、とりあえず思ったままの言葉を口にする。
その甲斐があったのか、アルベルトの腕が止まり――
「……なるほど。それもありでしたね。そういうことにすれば、より絶望を深めることも出来たでしょうし……少し惜しいことを――ふむ? おや、これは……いえ、どうやらその必要もなさそうですね。これも私の日頃の行いのおかげ……或いは、これもまた、魔王様のお導き、というところでしょうか?」
「……アルベルト?」
アルベルトが何を言ってるのかは分からなかったが、漠然とした不安だけはあった。
唐突に、今すぐにここから逃げ出さなければならないような焦燥感に襲われる。
だが当然ながら、リナを放ってそんなことは出来るわけがなく、そうしている間に、リナの身体はアルベルトによって持ち上げられていた。
どうやら息があるようで、そこの部分は安心したが、気を抜くわけにはいかない。
「アル――」
「いえ、大丈夫ですよ、姫様。どうやらこの娘もかなり良質な生贄になりそうですからね。殺しはしませんとも」
「……アルベルト? 何を言って……?」
眉を潜めながらも、何故か全身を悪寒が駆け巡った。
頭の中で警鐘が鳴り響き、ここから逃げ出せと、そう誰かが叫んでいるようであり――
「さて、それでは姫様。先日もお伝えしましたが……魔王様がお呼びです。私と一緒に来ていただきます」
「……それは、この前も断ったはずだけど? あたしは行かない、って」
そうだ、既にそう告げているはずだ。
アルベルトの顔を見た瞬間に、アイナは気付いたのである。
その時アイナが悩んでいたのは、どうやったらここに残れるだろうか、ということだということに。
アイナの中では、最初から戻らないということは決まっていたのだ。
「なるほど……つまり、この娘はどうなってもいい、ということですね?」
「――なっ」
それはつまり、人質、ということか。
まさかそんなことをするとは思わず……何よりも、そこまですることに、アイナは驚いた。
「……なんで、そこまでして……そもそも、そんな真似、あの人が許すわけ――」
「言ったはずですが? 魔王様のお望みだ、と」
「……嘘よ」
そう、そんなはずがない。
あの人が――魔王が――父が、そんなことを許すはずがないのだ。
しかし。
「ふむ……では、仕方ありませんね。力尽くで連れて行くとしましょう。――まあ、最初からその予定だったのですが」
抵抗は、出来なかった。
いや、そもそもする暇さえ、与えられなかった。
気が付けばアイナの身体は吹き飛ばされており、地面しか映さない視界の端に、僅かに見知った足が過ぎる。
その時には既に、アイナの身体は言うことを聞かず、口さえもほとんど動くことはなかった。
ただ、視界が動いたことから、持ち上げられたのだということだけは分かり――
「さて……では、戻るとしましょうか。予想外の収穫もあったことですし、魔王様もさぞかしお喜びになられることでしょう」
「――」
最後に小さく、一言だけを残すと、そのままアイナの意識は、闇の中へと落ちていったのであった。




