元勇者と魔神
彼方から響いてくる轟音を聞きながら、ニコラウスは息を一つ吐き出した。
ようやく始まったのだ、ということを思えば、口元がつい緩んでしまうのも仕方のないことだろう。
そうだ、ようやく、である。
あの時から二年……否、それ以前から数えれば、十年以上だ。
ついに宿願を果たせるのだということを考えれば、感慨を抱くのと共に気分が高揚してしまうのはむしろ当然のことである。
そんなことを思いながら、何となく視線を空へと向ければ、そこにはより一層その色を濃くした漆黒が広がっていた。
それに目を細めたのは、父から伝え聞いた話を思い返していたからである。
今から百年以上前、魔族が、魔王が最も恐れられていた時代には、その色は自分達の色だったのだという。
旗印でもあった魔王の髪や瞳の色が、それだったからだ。
魔族や魔王などという名が付けられることになったのもその頃であり、髪や瞳に黒を持つ者は恐れられるあまり虐げられるようにまでなっていたらしい。
そういった者達が魔族へと堕とされ、その才覚を発揮して人類を脅かせることで、さらには黒は恐れられる。
そんな時代だったのだという話だ。
しかしそれは唐突に終わりを告げた。
異世界から現れたのだという勇者によって、魔王が討たれてしまったからだ。
そしてその勇者の髪や瞳が黒であったことから、少しずつ黒は魔族のものではなくなっていってしまう。
恐れの代わりだとでも言わんばかりに、その優秀さが知れ渡るようになり始めたのだ。
一時は滅びたと思われていた魔王が、五十年という年月をかけて復活してみせたものの、その時にはもう、黒というのは恐怖の代名詞ではなくなってしまっていたのである。
さらには、復活はしたところで、魔王の力が全盛期とは比べ物にならないほど劣ってしまっていたのもそれに拍車をかけた。
魔王など既に時代遅れの遺物と、そう判断されてしまったのである。
もちろん、それから少しずつ魔王は力を取り戻していったのだが……ついぞ黒が自分達の色として戻ってくることはなかった。
魔王が力を完全に取り戻し、再び恐怖を振りまこうとしたところで、今度もまた勇者達に討たれてしまったからである。
しかも今度の勇者は何故かそのまま魔王の座を引き継ぐとまで言い出したのだ。
いつの間にか姿を消していたらしい前回の勇者とは大違いであり……だがそれだけであれば、あるいはニコラウスは魔王を騙るそれに従っていたかもしれない。
魔族にとっては力こそが法だ。
それは魔王に関しても例外ではなく、魔王を倒した者が新たな魔王を名乗るというのは、ある意味では理に適っている。
もちろん、そこだけをみれば、の話ではあるが。
魔王にとって必要なのが力だけでないのは、二年前の反乱から始まった一連の出来事を見ても分かる通りである。
それよりも重要なものがあると思っている魔族は多くいたし、今もいるのだ。
自分のように。
ともあれ、そうして父の話から自分の経験してきたことへと思いを馳せたニコラウスは、もう一度息を吐き出した。
眺めているだけで吸い込まれてしまうような、濃く深い闇。
今が最もそれの深くなる時刻であり……だからこそ、きっと今この時が最も自分達には相応しい。
「……そうは思わないですかな?」
「さてな……面倒だし、どうでもいいことだ」
と、そんな言葉を紡いだ直後、返答と共に足音が響いたのはほぼ同時であった。
視線を下ろせば、そこにあった色はやはり漆黒。
――イオリ・カンザキ。
元勇者にして現在魔王の名を騙る者……あるいは、ニコラウス達の仇敵とでも呼ぶべき存在であった。
来るだろうと思っていたので、現れたことに対して驚きはない。
むしろこれもまた、ようやくかと思うようなことだ。
当然、他に人の気配を感じない、ということも含めてのことであり……緩みそうになる口元を隠すように、小さく息を吐き出した。
「やれやれ、つれないものですね。折角こうして遠路はるばるあなた様にお会いするためにやって来たといいますのに」
「そういうことは、せめて正面から来てから言えっての。というか、おっさんにそんなこと言われても嬉しくねえよ」
「まあ、でしょうな。正直私でしたら、そんなことを言われたら問答無用で追い返すでしょうし」
「喧嘩売ってんのか? それとも、問答無用で追い返して欲しいって催促してんのか?」
「いえいえ、まさかそんな。『魔王様』相手にそんな失礼なことをするなど、とてもとても」
そんなことを言いつつ、慇懃無礼に頭を下げ……相手に見えない角度で、ニコラウスは口元を吊り上げた。
これは完全な茶番だ。
さすがにこんな状況でこんな場所にいる者が味方などと考えるほど、相手は甘くないだろう。
なのに雑談めいた言葉を交わしているのは、こちらの様子を窺っているからだ。
つまりこの会話そのものは相手にとって無意味であり――
「よくもまあ、そんな心にもないことを言えたもんだな」
「心にもないこととは、心外ですな。今のは完全に心からのものでありますぞ?」
それは本音であった。
先の台詞は、間違いなく心からのものだ。
――ただし。
先の言葉を解説するならば、こうなる。
「この私があなた様に失礼なことをするなど、有り得ますまい。――あなた様が本当に『魔王様』なのでしたら、の話ですが」
直後、ニコラウスの後方にある茂みから一斉にそれらがイオリに向かって投げられ、爆ぜた。
その数は、総勢で三十。
茂みに潜んでいる者達と同数であり、それだけのものが次々とぶつかっては、轟音を立てながら爆ぜ飛ぶ。
彼方で響いている音とは異なり、それは相応の威力が込められたものだ。
規模は小さいながらも……いや、だからこそ、その分威力が凝縮されている。
人間どころか、魔物すらも一撃で葬るような、使い捨ての魔道具だ。
あれだけの数を連続で叩き込まれたら、普通の人間では一たまりもあるまい。
……問題があるとすれば、どこまでを普通と表現するのか、というところだが。
「やっ、やった……!? は、ははっ……ざまあみやがれ……! 魔王様の名なんて騙るからそうなるんだ……! 仲間達の敵の分も含めて、思い知ったか……!」
と、そんなことを叫びつつ茂みから姿を現したのは、仲間の一人であった。
どうやら奇襲が成功したことで、気が高ぶってしまったようだ。
とはいえ――
「……奇襲が成功したことと、それが効果があったかは、また別の話なのですがね」
「は……? 一体何を……」
「気をつけた方がよろしいですよ? 死にたくないのでしたら、すぐに隠れた方が――」
瞬間、ニコラウスが言葉を途切れさせたのは、手遅れだった、ということに気付いたからだ。
それとほぼ同時に、小さくともはっきりとした声がその場に響く。
「――堕ちろ、天の雷」
音は遅れて聞こえた。
反射的に閉じた瞼越しにでも分かるほどの白が周囲を染め上げ、数瞬遅れ自分達が作り出したのとは比べ物にならないほどの音が、その場に轟く。
耳を押さえながら待つことしばし、全てが収まるのを待ってから目を開け、ニコラウスは周囲を見回すと溜息を吐き出した。
そこにあったはずの茂みは全てが焼き尽くされ、後に残ったのは、真っ黒い塊となった三十ほどの何かだけだ。
それが人であったのを示すのは、その形ぐらいのもので、それも風でも吹けば跡形もなくなることだろう。
まさに瞬殺であった。
「手加減は皆無、ですか……まったく酷い話ですな」
「慈悲は与えた後だからな。前回来た時に言っといたはずだ。次来た時には容赦はしない、とな」
「さて、私はその言葉を直接聞いてはいないのですがね」
そう言って肩をすくめてみせながら、目を細める。
こうなることは予想通りではあったが、想定以上でもあった。
数は三十程度、その全員が下級スキルすら持っていない者達ではあったが、その全てを一瞬でなど、ニコラウスには不可能なことだ。
いや……こちらに残された者達の中ですら、それを可能とする者などいないに違いない。
さすがは元勇者。
何だかんだ言いながらも、かつて魔王を単独で滅ぼしてみせたのは伊達ではないようだ。
「しかし、だというのに、どうして私は無事なのでしょう? まさか、情けをかけたということでしょうか?」
「それこそまさかだな。顔見知りとかならともかく、わざわざそんなことをする理由がない。……で、何をしたんだ?」
「さて……原因は私ではなく、あなた様にあるのではないですかな? 例えば、無意識のうちに外した……などという戯言は、さすがに通じそうもなさそうですね」
それで一瞬でも隙を見せてくれれば楽に進んだのだが……どうやらそうもいかないようである。
先ほどからジッとこちらを見つめてきている視線は、一度たりとも離れる事がなかった。
「そりゃ、そんな気配を漂わせてるやつ相手に油断できるほど、俺は自惚れちゃあいないからな」
「なるほど、言われてみれば、それもそうですか……」
元勇者を誘き出すためとはいえ、垂れ流しにしていたのだ。
アレを感じていながら油断できるような者など、そうはいないだろう。
「まあ、バレてしまっているのであれば、これ以上隠しておく意味もありませんか。目的はもう達成出来てるわけですし、問題もないでしょう。――来なさい」
言った直後、ニコラウスの真横で炎の柱が上がった。
不思議と熱は感じず、だがその気配が濃くなったのを、ニコラウスですら感じる。
こちらを襲ってこないとは分かっていても、冷や汗が流れ落ちるのを止めることは出来ず……炎が凝縮されるように、少しずつその柱は小さく、確かな形を取っていく。
が。
当たり前のように、向こうにそれが終わるのを待つ道理はない。
「――奔れ轟雷」
瞬間、言葉の通りに雷が走った。
一見すると先のものとは比べ物にならないほど細く、だがきっと威力はこちらの方が遥かに上だ。
先ほどのが手を抜いていない一撃だとすれば、こちらは本気の一撃である。
ニコラウスが食らったら、間違いなく生きてはいられない……どころか、原型を留めてすらいられないようなものであり――
「――ちっ! お前……一体何を解き放ちやがった……!?」
舌打ちと共に元勇者がこちらへと視線を向けてきたのは、当然のことだろう。
何せ元勇者が放った雷は、コレへと突き刺さる前に霧散してしまったのだ。
防いだとかそういうレベルではなく、まるで自ら攻撃をするのを止めてしまったかのように。
そしてその感覚を、今度こそはっきりと認識したからこそ、おそらく元勇者はこちらへと問いかけてきたのだ。
「さて、答える義理はありませんし……そもそも、聞くまでもなく理解しているのではないですか?」
それは別に誤魔化そうとしたわけではなく、教えるまでもなく理解しているのだろうと思ったからである。
それは、解き放った、という言葉のあたりからしても、明らかだ。
元勇者は少なくともコレを、どこかに封印されていたようなものだと認識しているからである。
まあ、こんなものがそこら辺にいるわけもないので、それに関しては当たり前と言えば当たり前ではあるが。
「それとも……認めたくはないのですか?」
「っ……!」
睨み付けるように目を細めてくる元勇者へと、ニコラウスは微笑を浮かべて返した。
とても愉快な気分だったからだ。
そしてここは、さらに畳み掛けていく場面である。
「まあですが折角ですから、教えてさしあげましょう。私はこう見えて親切な人物ということで通ってますから。ええ……お察しの通り、コレは所謂魔神と呼ばれるものです」
「っ……やっぱり、か。ということは……!」
「はい。つまるところ、あなた様の天敵、ということです」
それはただの事実であった。
元であろうが何だろうが、勇者である以上は、絶対に魔神に勝つことは出来ないのである。
それを最もよく理解しているのは、本人だろう。
出来ることと言えば後は逃げることぐらいであり……実際のところ、その選択をされると非常に困る。
さすがに逃げに徹されては、コレを用いたところでニコラウスは捕まえられないだろうからだ。
そもそもだからこそ、ここで待って誘き寄せたのである。
だがそこでニコラウスが慌てることはなかった。
ここまで理解している以上、元勇者は逃げないということをニコラウスは確信していたからである。
逃げるのならばとうにそうしているはずであり……そうしない理由というのも、ニコラウスは当然のように理解していた。
いや、というよりも、そのためにこそ、わざわざコレを使ったのだから。
魔神というものは、強力ではあるものの、単体ではこの世界で存在することの出来ないものである。
というのも、魔神とは魂のみの存在であり、肉体を持たないからだ。
この世界で力を振るうには、この世界に留めておくための核となる物質と、肉体を用意しなければならないのである。
その肉体は生きている必要があり、かつ意識が希薄である方が望ましく、絶望していたりすると最善だと言われていた。
即ち――
「くそっ……可能性はあると思ってはいたが……嫌な予感ほど当たるとはよく言ったもんだ……!」
完全に人の姿を形取ったそれを前に、元勇者は忌々しげに吐き出した。
より笑みを深めるニコラウスを射殺さんばかりに睨みつけてくるが、生憎とまるで怖くない。
コレさえいれば、元勇者などどうとでもなるのだ。
二重の意味で。
「お前……スティナを……!」
「はて……こうなることはきっと、彼女も望んでのことだと思いますよ? 何せ、あなた様は……父親の仇なのですから。彼女のことを少しでも思っているのでしたら、仇として討たれてあげるのが、一番ではないですかな?」
相も変わらず睨みつけてくるその姿に……それだけの姿に、ニコラウスは深い、深い笑みを向ける。
戦うことも、逃げることも出来ない元勇者へと、傍らのモノと共に、一歩、ゆっくりとした歩みで踏み出すのであった。




