漆黒の魔物
その場にソーマが居たならば、その存在のことを悪魔とでも呼んでいただろう。
もちろん本来の意味としてのそれではなく、ソーマの知るものとしてのそれだが……どちらにせよ、スティナはそれを知らない、ということにおいて違いはない。
だがそれでも、それがどれだけ危険であるのかを察するには、その姿を目にするだけで十分過ぎた。
咄嗟にその場からの離脱を考え――舌打ちを漏らしたのは、視界の端にその小さな姿を捉えたからである。
その娘のことは常に頭の片隅にありながらも、今まで確認してこなかったのは、その余裕がなかったからだ。
圧倒していたように見えたかもしれないが、その実そこまでの差はなかったのである。
あくまでも自分の間合いで戦う事が出来たからであって、距離を離されていれば結果は真逆になっていただろう。
スティナは魔法が使えるとは言っても、得意としているのは自身の強化のみだ。
遠距離での撃ち合いとなれば、勝ち目はなかったに違いない。
ともあれ、改めてその様子を伺ってみれば、どうやら気を失ってしまっているようであった。
動いている様子がなかったので、何となく予想は出来ていたものの、舌打ちを漏らしたのは、それも一因だ。
男は彼女を放り投げたのか、その距離は多少離れていたが、アレからすればその程度誤差でしかないだろう。
その気になれば、あの男がそうだったように、一瞬で食い殺されてしまうはずだ。
そしてそれは、スティナも例外ではない。
それでも今すぐこの場から逃げ出せば、あるいは逃げ延びることも出来るかもしれないが……彼女の方は絶望的だ。
意識があれば、逃げ出し隠れることでチャンスもあったかもしれないものの、この状況では万に一つもない。
だから彼女が助かる可能性があるとすれば、ただ一つだけだ。
しかしそれは――
「っ……!?」
吼え終わったそれは、部屋の中を見回した後、端の方へと転がっている小さな姿へとその目を向けた。
途中スティナも見たはずだが、意識に留めた様子すらない。
まるでどうとでも出来るから後回しでいいと、そう言っているかのようだ。
とはいえその認識は正しく、それが今意識を向けているのが何なのかは一目瞭然である。
数秒後にそこにどんな光景が広がっているのかを想像するのも、容易なことだ。
ゆえに。
「このっ、少しぐらい悩ませろってんです……!」
逡巡したのは一瞬。
気が付いた時には、半ば反射的にスティナは地面を蹴りその娘の元へと向かっていた。
左手でその身体を掻っ攫い、そのまま奥の通路へと――
――魔王の加護(偽)・気配察知中級:奇襲看破。
「……っ!」
――槍術上級・体術上級・魔導上級・魔王の加護(偽)・痛覚遮断:雷光一閃。
瞬間、反転と同時に右手の槍を振り抜いたのは、半分は勘で、残りの半分は本能によるものだ。
迫っていた死に対抗するように、出鱈目に、だが確かな形をもって感じられたそれへと向け、腕を振るう。
その時視界に映ったのは、あの魔物と同じような漆黒の色をした何かであり……スティナに認識出来たのはそれだけであった。
それ以上を認識する前に、身体を衝撃が襲ったからだ。
こちらの抵抗など無意味とばかりにそれが突き抜けてきたのだと理解したのと、スティナの身体が吹き飛ばされたのはほぼ同時。
そのまま壁へと叩きつけられた。
「ごほっ……!」
咄嗟に左手に抱えたままの娘を庇うようにするも、そのせいでろくに受身を取る暇がなかった。
叩きつけられた際の衝撃をもろに受け、口内より赤黒い液体が吐き出される。
直後に全身を激痛が走り、だがそれは意識を失うほどのものではなかった。
相手の一撃がそれほどではなかったのか、それとも槍の一撃で多少は軽減させることが出来たからなのかは分からないが、致命傷にも程遠い。
奥の通路からは離されてしまったが、それもある意味では好都合だ。
奥へ逃げたところで、事態が好転するわけではないのである。
むしろ追ってこられた場合、悪化しかしない。
向こうからも外には出られるとは思うが、詳しいことは分からないのだ。
それを探している間に殺されてしまう可能性の方が高いだろう。
しかしここからならば、直接外に逃げる事が出来るのだ。
それをアレが許すかはまた別の話だが、それでもこちらの方が生存できる可能性は高いに違いない。
追ってこられたらアレを外に出してしまうことになるが、遅かれ早かれそうなるのは確実なのだ。
ならば大差はない。
もちろんそうなれば、街にはかなりの混乱がもたらされることだろう。
魔物避けの結界がある街中に魔物が出現するなど、混乱が起こらないわけがない。
とはいえ、それはあまり気にする必要はないはずだ。
スティナに勝ち目がない以上、アレに勝てる可能性のある者はこの街に二人しかいない。
そのどちらに知らせるにしても、街で騒ぎを起こさせるのが最も手っ取り早いだろう。
というか、現状どこにいるのか分からないのだから、それしかないのだ。
「……その途中で発生する被害に関しては、目を瞑るしかねえですか」
最初から分かっていたことではあるも、今の一瞬で互いの力量差は嫌でも理解出来た。
抑えようとしたところで、スティナでは十秒も保つことが出来ないに違いない。
それならば大人しく逃げ、周囲に注意を呼びかけた方がマシだ。
それにそもそもの話……途中で発生する被害など、どの口が言うのだという話である。
そうだ、あの男の言った事は、何一つ間違っていない。
所詮スティナとあの男は同類であり、今更博愛精神に目覚めたところで、全ては後の祭りだ。
……だが、それでも。
「……譲れねえもんの一つや二つぐれえは、こんなスティナにもあんですよ」
生体兵器だとか何だとか、そんなことはどうでもいいことだ。
たとえそれが偶然だとしても、スティナはこの娘を一度助けてしまったのである。
ならば最後まで責任を持って助けるのが、道理というものだろう。
そこに個人的な感情が、共感めいたものがないと言ってしまったら嘘になるが――
「オメエだけでも、助けてみせるです……!」
それはきっとただの自己満足だ。
贖罪ですらない。
何かをやったのだと、自分に言い訳をするためだけの行為。
しかしそれを分かっているからこそ、スティナは迷うことはなかった。
痛む身体を無視しながら、左腕に僅かに力を込め、視線の先のその姿を見据え、外に――
「……ぱ、ぱ」
「……っ!?」
向かおうとした瞬間、腕の中から小さな呟きが聞こえた。
おそらくそれは、ただの寝言だろう。
一瞬だけ視線を向けても、意識が戻った様子はない。
だがスティナはそれを聞いてしまったのだ。
そして同時に気付く。
あるいは、目を背けていたことを突きつけられる。
そう、宿の主人の姿を見ていない、ということに、だ。
この状況で姿を見せないというのは、どういうことだろうか。
出かけているという可能性はないだろうし、寝直していることもないだろう。
そもそもあの男は、普通に宿から出ようとしていた。
ならば入る時も同じだったと考えるのが自然であり……その時対応したのは誰か。
そこで殺されてしまった、というのならば、まだマシだ。
何故ならば、その場合は既にどうしようもないからである。
このままここから離脱しても、何の問題はない。
しかしまだ生きていて、アレがここで暴れたり……もしくはもっと直接的に、アレに殺されてしまったら。
その時は……果たしてこの娘を助けたと言えるのだろうか。
だが何にせよ、主人の安否を確かめる手段はない。
どちらかに決め付け、行動するしかないのだ。
……本来ならば、それを悩む暇すらなかっただろう。
アレが襲い掛かってくれば、逃げる以外の選択肢などなかったはずだからだ。
だというのにそれは、こちらに視線を向けたまま、動こうとしてはいなかった。
それはまるで、こちらの状況を把握し、どちらを選ぶのかを待っているようですらある。
あるいはこちらのことを警戒してるだけだったのかもしれないが……一度思ってしまえば、そうとしか思えなくなってしまった。
「ったく……性質の悪い魔物です」
そしてもしもその通りならば、このまま逃げるというのは負けにしか思えない。
スティナがどうするのかを決めたのは、だからきっとその瞬間だ。
それはもしかしたら、単なる言い訳に過ぎなかったのかもしれないが――
「もうどうでもいいこと――です!」
――魔導上級・槍術上級・体術上級・魔王の加護(偽)・痛覚遮断:雷光一閃・烈。
叫ぶと同時、痛む身体に鞭を打ち、右腕を振り下ろした。
当たり前のように槍の届く距離ではないが、その間を埋めるが如く、軌跡に沿って雷が生まれる。
遠距離は得意ではないが、この程度のまねならば出来るのだ。
それがそのまま魔物へと叩き込まれるのを見ることなく、スティナはさらに左腕を振り上げる。
掴んでいるのは、もちろんあの幼女だ。
――魔導上級・魔王の加護(偽):魔法・身体強化。
構わず振り下ろし、ぶん投げた。
一瞬だけ視線を向け、その向かう先が間違いなく宿の外だということを確認すると、スティナもすかさず奥へと駆け出す。
まったく手加減せずに投げたが、可能な限りの強化魔法を叩き込んだし、死んでしまうことだけはないはずだ。
かなりの無理やりで力ずくな方法だが、生憎と優しくしながら全てを叶えるほどの力量はスティナにはない。
それでも何とかしようと思えば、強引に行くしかないのだ。
――もっとも。
上手くいくかどうかは、また別の話ではあるが。
「――」
今度は、反応する暇すらなかった。
気がつけばスティナの身体は宙に浮き、物凄い勢いで吹き飛ばされていたのだ。
攻撃を受けたのだということを理解したのは、遅れて痛みがやってきたからで、それと壁に激突したのは、ほぼ同時であった。
「っ、ぁ……っ!」
今度は壁は壁でも、通路の壁ではあったが……それが果たして何かの慰めになるかどうか。
……いや。
どうやら、一つだけ慰めとなるものが見つかったようだ。
すぐそこに、見覚えのある人物が倒れていたからである。
この宿の主人であった。
「……っ、どう、やら……生きては、いる、みてえ、ですね……っ」
胸が上下しているから、それは確かだろう。
ただ……その胸からは血が止めどなく流れているので、まだ生きてはいる、というのが正解かもしれないが。
だがそれでも、生きてることに違いはない。
こんな無茶をして、痛い思いもした甲斐があったというものだ。
あとは、ここから無事脱出できれば、全て解決だが――
「……ま、んな上手く、いくわきゃ、ねえです、か……」
痛む全身の中で、一際痛みを訴えている背中の方から、明確に何らかの気配がした。
どくどくと流れ出ているものに混じり、冷たいものが背筋を走る。
それをスティナはよく知っていた。
今まで直接誰かに与えたことはなかったが、きっと間接的ならば幾らでも与えてきたもの。
即ち、死、だ。
「……因果、応報、ってやつ、ですね」
数日前にも感じ、結局訪れることはなかったもの。
しかし今後こそそれは、スティナのことを捉えて離すことはないだろう。
それでは、道理が合わない。
せめてあの娘と……出来ればこの人も、と思うが、それも虫のいい話だ。
どちらかが叶えば万々歳。
叶わずとも……それがこの世界の理というものだ。
恨むのは、きっと筋違い。
ああ、それでも――
「……やっぱ、せめて、とか、思っちまう、あたり……救い、ようが、ねえ、ですねえ」
「――ふむ、そんなことないと思うであるがな?」
「…………え?」
自分の末路は、既に確定していたはずであった。
だからそちらへと視線を向けることもなく諦め……だが聞こえた声に、思わず視線を向ける。
そこに居たのは、やはりと言うべきか、漆黒の魔物であった。
しかし次の瞬間、その身体の中心に、一筋の線が走る。
そして直後、そこを中心に左右に分かたれ……その向こう側に居た漆黒の髪と瞳を持つ少年が、こちらを見つめながら、安心したように息を吐き出したのであった。




