魔神の巫女と蛙
完全な油断だった。
あるいは慢心と言うべきかもしれないが、どちらにせよ同じことだ。
現在スティナは冗談とか抜きに、人生最大のピンチを迎えていた。
「っ……ってか、なんでコイツがこんなとこにいやがるんです……!? ばっかじゃねえんですか!?」
だが悪態を吐いたところで無意味だ。
何せそもそもの話、相手はこちらの言葉を理解できているのかすらも分からないのである。
眼前にある空洞の如きものを睨みつけ、身体に巻きついたそれを思い切り叩くも、やはり効果はない。
せめて足元に転がっている槍を手に取れれば――
「まあそれで下手に突っついたからこんなことになってるわけですがね……! 本当に我ながら馬鹿なんじゃねえかと思うです……!」
自分自身の間抜けっぷりに罵倒の言葉が口から飛び出すが、それで状況が改善するでもない。
その怒りを転化させるように、拳を握り締めると振り上げ――振り下ろそうとした瞬間、足元が滑った。
「っ、やば……!?」
慌てて踏み止まるが、変な体勢になってしまったうえ、僅かに引っ張られたせいで先ほどよりもそれに近付いてしまっている。
さらにはもうしゃがんだところで、槍には手が届かないだろう。
精一杯身体と腕を伸ばせば分からないが、この状況でそんなことをするのは不可能だ。
元より手に取れたところでどうにかなるものでもないが、やはり槍から完全に離れてしまったというのは心にくる。
例えその槍で目の前のこれ――ジャイアントフロッグを突いてしまったのがその原因だとしても、だ。
その名前からも分かる通り、眼前の魔物は一見すると巨大なだけの蛙である。
しかし今も開いているその口の中に放り込まれてしまえば、半端な生き物では魔物だろうと一瞬にして溶かされてしまうし、スティナでも数秒持てばいい方だろう。
かといって逃げようにも、ジャイアントフロッグの舌に掴まり引っ張られている真っ最中である。
ジャイアントフロッグの舌は粘液に覆われており、その粘液は獲物に絡むことで接着剤のような役割りを果たす。
しかもその粘液のせいで打撃は滑らされ、刃物による斬撃等は最初から効き目が薄い。
あるいは万全の態勢で放てれば、スティナであれば多少傷を与えることは出来たかもしれないが、今となっては望むべくもなかった。
さらには魔法への耐性も高いことから、ジャイアントフロッグはかなり強力な魔物だ。
中級どころか、上級の冒険者でさえも下手をすれば簡単に壊滅状態に陥ってしまう。
だが強力ではあるが、あまり危険視されていない魔物でもある。
ジャイアントフロッグは基本的に穏やかな性格をしているからだ。
普段は身体を丸めて眠っており、その傍を通ろうとも何かをしてくることはない。
しかし誤って強い衝撃を与えてしまえば最後だ。
その瞬間にジャイアントフロッグは眠りから覚め――通常閉じているその瞼を、ほんの数秒だけ開ける。
ジャイアントフロッグの瞳は、強力な拘束の魔眼だ。
強い耐性を持っていようとも関係なく、その耐性を貫き、瞳を開けているその数秒間だけ相手の身体の自由を奪う。
そうなれば後は簡単だ。
身動きの取れない獲物へと向かって舌を伸ばして掴み、食らえばいい。
スティナがギリギリのところでそうならなかったのは、ジャイアントフロッグの存在に気付いた瞬間、後方に飛んでいたからだ。
直後に魔眼で身体の自由を奪われてしまったものの、引っ張り込まれる前にジャイアントフロッグの瞼が閉じられた。
とはいえそれでも舌に捕らえられてはしまったのだが、何とか踏ん張ることは出来た、というわけである。
だがそこで、こう着状態へと陥ってしまった。
こうなればもう、あとはどちらが先に力尽きるかだ。
体勢の関係もあってスティナの方が分が悪いが……言っている場合でもない。
死にたくなければ、何とか頑張るしかないのだ。
もう一度魔眼を使われてしまえば最後だが、その心配はないはずである。
魔眼は強力な代わりに物凄く力を使い、だから普段は目を閉じているのだ。
それだけではなく、魔眼を使う時はそっちに全力を使ってしまうから、でもある。
魔眼を使っている間は完全に無防備になってしまうのだ。
そのため、その時に攻撃を加える事が出来れば、呆気なく簡単に倒せたりもする。
ジャイアントフロッグが強力でもあまり危険視されていない所以だ。
しかもジャイアントフロッグは、一度獲物を捕らえると離そうとしないが、その分そっちに注力もしてしまう。
完全な無防備とはならないが、攻撃が向けられたりすることもないので、ここに他に誰かがいれば、攻撃を加え続けることで比較的に簡単に倒せたりもするのだ。
「……まあ、仲間とかがいねえスティナには望むべきもねえことですが。誰かが偶然通りかかってくれたりは……しねえですよねえ」
幾ら何でもそれは都合がよすぎる。
あるいは、既に誰かが見つけており討伐依頼が出ている可能性はあるが……問題は、倒せるような誰かがいるか、ということだ。
魔眼――というか、精神的な攻撃に対しての完全な耐性を持っているか、囮役と攻撃役に分かれ、囮役に魔眼が使われた瞬間に攻撃を加えれば割と楽に倒せる事が出来るものの、それは口で言うほど簡単なことではない。
そもそも精神的な攻撃に対しての完全な耐性など持っている方が稀だし、楽に倒せるというのはあくまでも基準が上級冒険者の場合だ。
きちんと準備した上で上級冒険者が対処に当たれば比較的に楽に倒せる魔物ではあるが、中級冒険者程度ではどれだけ事前に準備したところで壊滅してしまうような相手であることに変わりはないのである。
そしてこの近くにあった街にいた冒険者は、その大半が下級冒険者だ。
中級冒険者すらろくにおらず、スティナがギルドカードを見せたら驚いたことなどから考えれば、きっと上級冒険者はいないのだろう。
あの後偶然上級冒険者が現れ、偶然ジャイアントフロッグの討伐依頼が出され、偶然それをその人たちが受け、偶然この場に現れる?
何だその作為的なものすら感じる偶然の連続は。
「……そんな運に恵まれてたら、きっともっとマシな人生送れてたに違いねえです。……いやまあ確かに、さっきまではちっとは運が回ってきたとか思ってたですが」
偶然立ち寄った街で、偶然探してた魔物の討伐依頼が出ているなど、どれだけ運がいいのかとか、そんなことを思いはしたけれど。
見つけるのに結局二日かかってしまい、それでも目的の素材が無事回収できて、これで魔神復活に一歩進んだと、喜んではいたけれど。
だがあまり寝ていなかったこともあって、つい気が大きくなってしまい、調子に乗って岩だと思っていたものに槍をぶん回したらそれが実はジャイアントフロッグで――
「……運とか関係なしに、これスティナが間抜けなだけじゃねえですか?」
ふとそのことに気付いてしまい、身体から力が抜けかけ、慌てて持ち直す。
そもそも自分が間抜けだなど今更だろう。
そんな分かりきったことが原因で死ぬなど、死んでも死にきれない。
「って、なんか本当に色々と間抜けっぺーですが、なら尚更死ねねえです……! 少しずつ引っ張る力も弱まってきた気がするですし、このままなら――って、げっ!?」
乙女の口から出てはいけない類の声が漏れたが、そんなことを言っている場合ではない。
大きく開かれたジャイアントフロッグの口、その両脇に見える瞼が、ピクピクと震え、持ち上がり始めていたのだ。
「っ、この状態でさらに魔眼を使いやがる気ですか……!?」
獲物を逃がすぐらいならば、無防備なところを晒すぐらい、ということなのだろうか?
それとも、ここまで何も起こらなかったことから、それでも大丈夫だと判断したか。
「どっちにしろ、割とガチで絶対絶命じゃねえですか……!」
しかしこのままこの状態が続くよりは、まだマシかもしれない。
いい加減辛くなってきたし、一瞬でも気を抜けばそのままあの口の中に飛び込んでしまいそうである。
それならば……刹那のチャンスに賭けた方が、分はあるだろう。
魔眼を使おうとする一瞬、舌から完全に力が抜けるはずだ。
その瞬間に舌から抜け出し、身体と手を伸ばして槍を掴み、投げる。
そこまで出来れば、魔眼が発動してしまったとしても、そのまま槍は突き刺さるだろう。
それで倒せなくとも、隙は出来るだろうし――
「その間に逃げれば……なんて、上手くいったら拍手喝采ものですね」
出来るとは、正直思えない。
だが、死にたくなければ、やるしかないのだ。
――それがとても自分勝手で、都合のいい考えだというのは、分かっているけれど。
それでも……それでも――
「こんなところで、まだスティナは死ぬわけにはいかねえんです……!」
まだ、やり残したことがあるのだ。
せめて、それを果たすまでは。
「――っ」
そう決意を固めたのと、ジャイアントフロッグの瞼が持ち上がり、瞳が見え始めたのは、ほぼ同時であった。
瞬間舌の拘束が緩み、スティナがそこから抜け出す。
反転し、身体と腕を必死に伸ばし……その時にはもう、当然ながら魔眼がどうなっているのかは見えない。
しかしそれでも構わず、槍を掴み、もう一度反転し、槍を――
「――あ」
視界に映ったのは、赤い瞳。
――魔眼。
硬直し、何も出来なくなったスティナの身体へと、ジャイアントフロッグの舌が再び伸び、しっかりと捕らえる。
そしてそのまま無慈悲に、大きく開いたままの口の中へと――
「――閃」
放り込まれた、と思った次の瞬間、視界が開けた。
真っ暗な闇の中に一筋の光が走り、その向こう側の光景が目に映る。
それは、土と草と木と空と雲と……それと。
「ふぅ……ギリギリ、というところであったな。ああそれと、やはり汝だったであるか。何となく聞き覚えがあったような声だった気がしたのであるが。……とりあえず、久しぶりであるな。まあ実際には、一週間程度ぶり、であるが」
気安い感じでこちらに片手を上げてくる、見知った少年の姿であった。




