魔女の森
――魔女の森。
それはこの世界で最も忌み嫌われていると言っても過言ではない場所の一つであった。
同列に語れるものがあるとするならば、魔族達の住む場所である魔の領域ぐらいだろうか。
ただそこと魔女の森とでは、明確に異なっている点が一つある。
それは……忌み嫌っていながらも、大半の人間はその魔女の森が何処に存在しているのかを知らないということだ。
とはいえ、同時にそれは仕方のないことでもある。
そもそも魔女の森とは、この世界の何処にも存在してはいないからだ。
架空のもの、あるいは、空想上の場所、というわけではない。
単純に、この世界とはほんの少しだけ位相のずれた空間に存在しているのだ。
厳密には、とある森とその一部とが繋がっていたりするのだが……まあ、普段は封印されている以上、やはりこの世界には存在していないと言ってしまって構わないだろう。
ともあれ、森と呼ばれるだけあって、そこは鬱蒼と生い茂った数多の草木が生えている。
数十メートルほどもある樹木も珍しくはなく、人の手が入っていないことは明らかだ。
おそらくは、百人に聞けば九十九人は、こんな場所で人が暮らしていくのは不可能だと答えるだろう。
詳細な情報を得れば、尚更だ。
地形的な理由に地理的な理由、食料的な理由に心情的な理由など、その理由となるような事柄など幾らでもある。
あるいは、危険な魔物が存在していることや、そこに生えているものの多くに毒が含まれていることを理由にあげるものもいるかもしれない。
逆に暮らしていけると答えるような者は、きっと冒険者か研究者だ。
冒険者ならばその大半の理由は問題ないし、危険さを上回るほどに希少な魔物達は、挑戦する理由にこそなれども諦める理由にはならない。
研究者ならばその大半は問題ではあるが、毒などというものを含め、それが退く理由にはならないほどに貴重な草木で溢れているのだから、やはり挑戦一択だ。
だがそれでも、実際にここに住みたいかと言われれば……いや、行きたいかと言われてすら、首を縦に振る者はいないだろう。
何故ならば、先の回答はあくまでもこの森のみに条件を限定しているからである。
確かにここがただの森ならば、喜び勇んで訪れようとする者も数多くいたに違いない。
しかしここは、魔女の森。
真実魔女の住む森であるが故に、そこに近づこうとする者など、いるはずもないのであった。
だからいつも通りに一人そこを歩きながら、フェリシア・L・ヴァルトシュタインは周囲を見回していた。
警戒しているわけではない。
前述の通りここには人が訪れるわけがないのだし、そもそもここは世界から僅かに外れた場所に存在しているのだ。
来ようと思っても来られるような場所ではなく――
「っと、ありましたね」
そうこうしているうちに目的のものを見つけると、フェリシアはその場に屈みこんだ。
手を伸ばすのは、ちょうど今居る場所の斜め前、その木の根元に生えている一本の花である。
だがフェリシアはそこで、ふとあることに気付いた。
その花には一本の草が絡みつき、とても花だけを引き抜くことは出来そうになかったのだ。
「む……みだりに命を奪うべきではありませんが……この場合は仕方ありませんか」
小さく息を吐き出すと、一度軽く目をつぶった後で、その二つを纏めて引き抜く。
そうして草の方を丁寧に解くと、ジッとそれを眺め……もう一度息を吐き出した。
「何かに使えるならば、とは思いましたが、さすがにそう都合よくはいきませんね。まあ目的のものを首尾よく見つけられただけで、よしとしましょう」
――その光景を、もし見るものが見ていたら、絶叫を上げ、気を失ってすらいたかもしれない。
その直後に少女の華奢な腕が無造作に放り投げたそれは、とある霊薬を作り出す上で必須となる、非常に希少な素材であったからだ。
それ一つを売り払うだけで、一生を遊んで暮らすことが出来る、と言えばその価値の程が分かるだろうか。
まあそれを言ったら、その周辺に生えている草花は、その大半がそんなものばかりなのだが。
しかしそんなことを知らない、あるいは知っていたところで意味のないフェリシアは、そのまま他のものには目もくれずに身体を起こす。
瞬間、その純白の如き髪の毛が視界を横切り……ほんの少しだけその口元に力が込められた。
だがすぐにそれを緩めると、手元へと視線を移す。
そこにあるのは今摘み取ったばかりの花であり、その花弁は見事なまでの赤で彩られている。
自身の瞳と似た色のそれをしばし眺めるも、そのまま仕舞いこんだ。
「さて、それでは――」
帰りましょう、と呟こうとしたところで、フェリシアはその端正な眉を僅かに歪めた。
不意にあることを……ここに来る前に告げられたことを思い出してしまったからだ。
正直なところ、別に無視しても構わないのだが――
「……覚えていたら、と言ってしまいましたし。約束を守らないのは、よくないことですよね?」
そんな言い訳めいた言葉と共にフェリシアが足を向けたのは、帰るのとは真逆の方角だ。
しかし既に理論武装を終えたフェリシアは、迷うことなくその先へと進んでいく。
少しずつ周囲が薄暗くなっていくも、やはりその足取りに迷いはない。
その理由は単純に、恐れる必要がないということが分かっているからだ。
薄暗くなっているのは、ただ周囲に木々がさらに密集し、空を覆い始めているからでしかない。
そもそも文字通りの意味で自分の庭なここで、何を恐れるというのか。
勿論魔物に襲われたりすればその限りではないが、ここはまだ魔物避けの結界の中だ。
先祖……いや、歴代の者達によって代々引き継がれ、補強され続けたここには、たとえ龍であろうとも――
「――っ!?」
だがその瞬間、有り得ないはずの音が耳に届いたことで、フェリシアの肩が思い切り震えた。
「えっ……嘘、ですよね……?」
それは何かが、草木を掻き分けているような音であった。
自分が立てているものでは勿論なく、風の音とも違う。
明らかに何かがそこで、フェリシアの位置からはそう離れていない場所で動いていた。
「……っ」
咄嗟に息を殺しその場にうずくまるも、そこにどれだけの意味があるのかは不明だ。
しかし慌ててこの場から逃げ去ろうとするよりは、きっとマシだろう。
音はがさごそがさごそと、移動を繰り返しているようであった。
まるで何かを探しているような動きに、自然と身体が強張る。
こんな調子では見つかった時に逃げられないと思うも、その時になれば逃げられないのは同じかとも思い直す。
フェリシアが安心してここを歩けていたのは、あくまでも結界があったおかげなのだ。
フェリシア自身に魔物と戦うような術はない……あるわけがない。
だって――
「――っ!?」
瞬間、自身の真横で音が鳴った。
それと共に、そこにあった自身の背丈を優に越えるほどの草木が揺れる。
それは明らかに、こっちへと何かが向かってこようとしている動きであった。
それを認識したフェリシアは、一瞬迷う。
どの方角へと逃げるのかを、だ。
戦うなどという選択肢は最初からあるわけがなく……だが迷ったことに違いもない。
それは決定的な遅れとなり、次の瞬間には、ガサリとそこにあった草木が左右に分かたれた。
そして。
「むぅ……見つからんであるなぁ。意外といけるのではないかと思ったのであるが……おや?」
「…………え?」
魔物が飛び出してくるのを予想し、咄嗟に両腕で顔を庇っていたフェリシアは、そこに現れた姿を見て、思考が停止していた。
完全に予想外だったからである。
魔物でないのは、一目瞭然だ。
人の言葉を口にしていたのもあるが、何よりもその姿を見て魔物と間違える者はいないだろう。
外見的特徴で言えば自分と大差ないそれは、間違いなく人であった。
視界の中に収まったその姿を、フェリシアは自然と眺め、確認する。
黒髪黒瞳。
パッと見はフェリシアと同年代にも見えるも、纏っている雰囲気は明らかに異なっている。
自分も相応ではない自覚はあるが、それは既に別格だ。
その右手には、何のつもりなのかそこら辺に落ちているような木の棒を持っており……いつもと違うところがあるとすれば、それぐらいだろうか。
そう、いつも、という言葉からも分かる通り、目の前の人物はフェリシアにとって見知った顔であり――
「こんなところで一体何をしているのである、フェリシア?」
「…………それはこちらの台詞です。こんなところで一体何をしているんですか――ソーマさん」
つい一週間ほど前にこの森で倒れていたのをフェリシアが発見し、連れ帰った少年。
ソーマ・ノイモントであった。




