第11話 真実の真理亜
「深刻な事態だということを認識しました」
説明を聞いたアリスは表情を曇らせた。アリスにとってサービス停止はそれが可能性だとしても重大事だ。コンペ後のリソースの問題もある。俺の仕事は小説を教えること、コンペの勝利を請け負った覚えはない。だが、鳴滝がViCに言い訳出来るくらいの結果は確保したい。
……アリスのリソースは俺の収入に直結するわけだし。
「というわけで本格ミステリとしての完成度を向上させることをめざす。主にリアリティーのアップだ」
手元のメモに目を落とす。
「……………………ユーザー層へのフィッティングと『死のフローチャート』との差別化でしょうか?」
「……そういうことだ」
アリスに背を向けたままホワイトボードにメモの内容を書く。
「まず、八話と九話で殺害に使われたSCL-7823が心筋のカリウムチャネルに作用することまで解明される。ただ現在のプロットだと具体性に欠けている。実際に心臓の細胞で働いている遺伝子の名前を出してリアリティーのレベルを引き上げる」
指でメモを繰り、二枚目を見る。一転して細かい文字や記号がびっしり。こんなに沢山の情報が必要だとは、このトリックの力を象徴している。
「…………真理亜がそれを調べる方法が問題になります。根本にあるのが未知の、いえ架空の化合物ですから」
「そこなんだ。AIを用いたタンパク質の立体構造解析。薬学部なら使えてもおかしくない技術だ。コンピュータで済むから時系列に差し込みやすい」
「…………二話で私がタンパク質のシミュレーションの話を聞いたシーンがあります」
「それだ。後は例えば架空の論文リストだ。これに関しては実際に薬学部で使われる教科書の巻末から……」
…………
「こんな感じだな。多すぎても逆効果だからこの数カ所に絞ろう。そして専門用語でディティールアップした推理を十二話のフレンチレストランでの対決に反映する。これで解決編が引き締まるだろう」
「…………改善策について理解できました。論理的説得力が強化されました」
「そうだ。ああ確かに………………そのための改善策だ」
ホワイトボードを向いていた俺のペンが止まった。これが改善策? いやしくも作家なら言葉は正確に使わなければいけない。これは弥縫策と言うべきだ。
「狂気とは同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと」といったのはアインシュタインだったか。いや、この場合は「沈みゆくタイタニック号の上でデッキチェアを整理する」という英語の格言の方が適切か。
今提示した案は一見妥当だが、出来上がるものは予定調和を越えない。読者の度肝を抜くような結末にはならない。はっきり言えば向こうの失敗に期待して守りを固める方策だ。
だが連載ということで余裕がない上に、ここから解決編に向かっていくミスが許されない局面だ。そもそも、半分まで書き進めた本格ミステリで大きなテコ入れの余地なんてない。無理にやれば破綻する。それは最悪の結果につながりかねない。
昨夜考えて結論はでている。
「俺の案はこんな感じだ。アリスも何か思うところがあったら言ってくれ」
「……先生のプロットは相変わらず素晴らしいと思います。この結果は私の責任だと改めて確信しました」
「待った、一体何の話だ?」
「私、『毒と薬』できていると思っていました。私が小説の面白さを理解できないから、先生の足を引っ張ったのです」
アリスの瞳は罪悪感に染まり、両手がスカートに皺を作っていた。完全に虚を突かれた。反応がいつもより遅いことには気が付いていたが、てっきりサービス停止のことを心配しているとばかり思っていた。
かつての悪夢を思い出させる。同じことを繰り返すわけにはいかない。ちゃんと問題の根幹を説明しなければいけなかった。
「アリスのいうことは半分は正しいと思う。この小説の問題は真理亜にある」
「やはりそうなのですね。真理亜の探偵としてのどこに問題があったのでしょうか」
「探偵としての真理亜には問題はないんだ」
「えっ?」
「『毒と薬』と『死のフローチャート』の優劣は本格ミステリとしてのそれじゃないんだ。純粋に本格ミステリとしてみれば『毒と薬』の方が出来ている。少なくとも負けていない」
「ではどうして……」
「主役である探偵のキャラクターの差だ」
「つまりそれは私の責任です」
「アリスに責任がないとは言わない。だけど根本的な原因は俺の企画にある。真理亜に二つの役割を強いていたんだ。一つが探偵としての役割、つまり事件に使われた毒物を見つけるハウダニットだ。これは問題ない。だけどもう一つ、いわばホワイダニットに問題がある。真理亜が探偵役をする動機はなんだと思う?」
「それは当然友人の無念を晴らすことです」
「そう、それを真理亜から感じられないんだ」
『死のフローチャート』の尼子が犯人を捜す理由は探偵だからで完結している。被害者や加害者に個人的な因縁があったりという設定はない。おそらくこれからも出てこない。やっているのは文字通りゲーム、そしてそれが持ち味を生んでいる。
だが真理亜はそう言うわけにはいかない。彼女は芽衣子のために事件の真相を求め、信頼していた山岸を疑う。そういった複雑な感情を抱く役だ。
「つまり真理亜の思考と感情が別の方向を向いているんだ。山岸を追い詰めているのにどこか楽しそうだったりする。そういうちぐはぐが話が進むごとに拡大してきている」
これは俺の責任だ。斬新なトリックを考え付かないから頭脳戦だけでなく心情を加えた。メイン料理がしょぼいから副菜の数を増やしたようなものだ。専門外だとか、突然の仕事で時間が足りなかったとか、言い訳することは出来る。だけど、これを読む読者にとっては関係ない。
「アリスは良くやってくれたくらいだ。真理亜の独特の思考は探偵役としておもしろかった。真理亜が推理に集中できる真っ当な本格ミステリなら、アリスに問題はなかった。最大の原因は俺とジャッカルの持っているものの差だ」
最初に胡狼は「小説は技術で書ける」みたいなことを言っていたが『死のフローチャート』の魅力は技術で作られてはいない。あの男が膨大な回数のゲームをやってその脳内に作り上げた世界だ。
リアリティーはないが独特の世界観がある。読者はその世界観を受け入れて楽しんでいる。本人もどれほど自覚しているか。多分当たり前のように自分の強みを出しているのだろう。そして『毒と薬』にはそれに匹敵する本物がなかった。
「本格ミステリとしてのトリックの斬新さで大きな差を付けられるならともかく、そうでない以上は向こうの持つ力に押されてしまう。小説の技術や論理性じゃない領域で負けているんだ」
「先生のおかげで今回も多くを学習した私としては認めがたいです」
「そう言ってもらえるとありがたいが。とにかく今はこの作品を最後まで仕上げることを考えよう。アリスも探偵役をこれまで通りに頼む」
未完の名作より完成した駄作というのは小説においては嘘だが、実戦練習という意味では完全に正しい。そう考えてホワイトボードにもどろうとした。
「これまで通り、ですか?」
背を向けようとした俺を止めたのは信じられないことを聞いたかのようなアリスの声だった。
「今おっしゃった最大の問題はどうするのでしょう?」
「いや、それは今からじゃ解決するのは難しいからな。ここから解決編まできっちりと詰まってるし。下手なことをすれば作品が崩壊する」
ここまで書いてきた真理亜のちぐはぐさをなかったことにする方法はないし、最初に犯人が分かってその解明を一歩一歩説明していく倒叙のトリックで、読者の度肝を抜くような展開も無理だ。
そう説明したが、アリスは首を振った。
「ですが、いつもの先生なら私が無茶や無理だと判断するような課題を課してくれます。私にちゃんと意地悪をしてくれるはずです」
一瞬、時々出てくる冗談かと思った。だが俺を見るアリスの表情は大まじめだった。アリスの真剣な顔に、目の前に書かれた自分の弥縫策がより情けなく映る。
いや、これでも小説家として長年の技術と経験で、この段階での最適解を考えたつもりだ。根本的な問題を説明したのは、あくまでアリスの教育のためだ。
そう説明しようとしたが、俺を見るアリスの目に言葉がとまった。彼女の瞳は俺を信じている。俺が彼女に無理難題を強いるに違いないという、明らかに間違った形の信頼。
…………まあ確かにそういう意味でも日和ってたかもしれないな。技術の限界を教えるならともかく、技術を使ったごまかしの方法を教えては教師役失格か。
これがあくまでアリスの実戦練習といったのは俺だ。ならば最大の問題からただ逃げるわけにはいかない。時間はないが、この問題に対する挑み方だけは教えよう。
「わかった。そういうことなら一つだけやることがある。ただ、アリスの期待するほど無茶じゃないぞ。要するにサンプル話だ」
俺はそういってホワイトボードの弥縫策を消し去った。まっさらになったボードに、簡単なシチュエーションを書く。
「まだ芽衣子が生きていた時、真理亜が彼女の家に遊びに行ったシーンだ。真理亜と芽衣子の関係がどうだったのか、ここまでこの小説を書いてきた俺とアリスだからこそ見える世界を文章化する」
小説には書いたからこそ初めて見えてくる大問題が必ずといっていいほど出現する。なぜか上手く書けない、内容がしっくりこない。そういうモヤモヤが作者の中に育つ。そしてある瞬間にそれが「ああ、これさえ解決すればいいんだ」と感じる一つの問題へと集約される。
さっきまでのアリスとのやり取りで、もうそれは見えている。冒頭に転がした死体にすぎなかった被害者をサンプル話の中で生き返らせる。
「これがさっき説明した問題に切り込むための課題だ。ただ本格ミステリ向きの方法じゃない。多分、いや間違いなく無駄になる。それでもやるか?」
「真理亜にとっての芽衣子、それを以ての真理亜。不完全なデータと不完全なデータの補完関係という非論理的な方法…………。はい。先生らしい意地悪な問題です」
アリスは「やらせてください」と強く頷いた。
…………
「そうです。そうでした、私は本当はあなたのことを…………。だってあなたはいつもあの人を……」
バーチャルルームの天井の明かりが激しく明滅した。まるで落雷に次から次へと見舞われているようだ。雷が直撃しても大丈夫に違いないテクノロジーの総本山であるビルにはあり得ない光景だ。
天井の明かりが戻った。髪の毛で表情を覆っていたアリスがゆっくりと顔を上げた。彼女の表情は絶望と戸惑いに満ちていた。
「…………こんなことになるなんて。いったいどうしたらいいのですか。これは私ではありません。こんなことは許されない」
「ああそうだぞ。真理亜はあくまで小説の中のキャラクターだ。アリス自身じゃない」
完全にショックを受けてしまっているアリスをなだめた。とはいえ俺も人のことは言えない。ホワイトボードに並ぶ自分の文章に唖然としているのは同じだ。
俺たちは確かに本物の真理亜を見つけ出したのかもしれない。だが真理亜の真実はこれまでのプロットを完全に破壊してしまう。『毒と薬』は本格ミステリとして、いやそもそも小説として破綻する。
自分が文章化した真理亜を恨めし気に見た。真実にたどり着いたのに保身のために真相を握りつぶす探偵の気分だ。あくまでアリスの教育のための寄り道だと割り切っていたはずなのに。それくらい、この真理亜には本物が感じられる。
むしろこの真理亜が物語の最初からその根底に存在したのではないかと思うくらいの……。
天啓が体を貫いたのはその時だった。
「本当に破綻しているか?」
これまで書いた『毒と薬』の内容が頭の中で逆再生される。特に引っかかったのは序盤。二話と三話で雨が続いていたところだ。事件発生前、梅雨の時期に山岸が毒殺に使う化合物を見つけた第二話。そして事件後に真理亜が芽衣子の死因について考えている梅雨明けの第三話。
もしも、もしもだ。そうここの起点の時系列を弄れるとしたら?
手が勝手に動きはじめる。頭ではあり得ないと思っているのに、指は勝手に文字を生み出していく。断崖絶壁に向かって走っている。それを飛び越えられるという確信などないのに、深淵に向かってジャンプせざるを得ないその衝動。
もしこの真理亜が最初からいたとしたら?
なぜアボカドの話が出てきた。
あの時真理亜は本当は何を考えていた?
そして何より、彼女が真相に気が付いたのがもし…………だとしたら。
ホワイトボードに映るアリスの影。その両手が止めようとするようにこちらに向かう。長い髪の毛が激しく左右に揺れる。そんな彼女の動揺すらインスピレーションに転化して、俺は最後の一行を書き終えた。
「こりゃ傑作だ、ははははっ……」
完全犯罪を企む犯人とは対照的な、感情に任せて犯罪を犯した三流悪役の気分だ。やはり俺は本格ミステリに向いていない。本格ミステリを書こうと思っていたら絶対に出てこなかったトリックだ。
「どうだアリス、この解決編は」
俺は彼女に振り向いた。アリスはサービス停止の可能性を告げられた時より深刻な顔をしている。
「あまりにも非論理的です。こんな結末が許されるはずがありません。……そうです、本格ミステリはフェアでなければならないのですよね。先生は確かにそう言いました」
「ああ、それに関しては大丈夫だ。本格ミステリにはちゃんとこれを表す用語があるからな」
それを『信頼できない語り手』という。フェアとアンフェアの論争を引き起こしたいわくつきの方法だ。まあ、今回の場合は完全にアンフェアなわけだが。何しろ……。
いやここまでにしておこう。もしこれが本格ミステリ小説ならここで「読者への挑戦」が来るところだからな。




