第1話 授業再開
「先生にはこのコンペに参加して欲しいのです、アリスと共に」
鳴滝はまるでごく日常的な業務を告げるように言った。彼が指し示す画面にはキツネとイヌが混じったようなアイコンで顔を隠した男と、短い金髪を銀のカチューシャでまとめた3D美女が並んで映っていた。その二人の背後には映像配信プラットフォームのロゴが輝いている。
俺は思わずにはいられない。この男はやはり小説家について深刻な誤解をしているのではないか。もっとも、真に小説家を理解していれば、まずは俺の時給を半分にするだろうが。
梅雨が明けた。夏に向けた季節の助走は雨雲の中も進んでいたと気づかされる暑い午後だった。地下鉄駅からビルまでの間に滲んだ汗と共に、俺はクールな空間に飛び込んだ。
高速エレベーターはスマートに49階まで俺を運んだ。アルファベットのMの上に本を並べたロゴとViCの垂れ幕を通り抜け、メタグラフのオフィスに入った。九重女史と少し話をした後、俺が仕事場に向かおうとした時、一番奥のドアが開いた。
ガラス張りのスペースから、ここで一番偉い人間が柔和な笑みを浮かべていた。鳴滝は俺の年収くらいありそうな腕時計にちらっと目をやると「アリスの授業が終わったら顔を出してください」といって、すぐに部屋の中に引っ込んだ。
娘の家庭教師がその父親に呼び止められたような嫌な予感がした。
バーチャルルームはよく効いた冷房も相まって冷たい空間だ。一方、白い椅子に優雅に座った黒髪文学少女は温かい肌を持っているようなリアリティーがあった。
半そでだった白い上着は、脇から三角形に切り上がるフレンチスリーブになっている。ハイウエストの黒いスカートも質感が軽くなり、パールのサンダルが映える。麦わら帽子を頭に載せたら、セレブ御用達の避暑地のポスターが出来上がるだろう。
アリス曰く「季節に合わせて、暑苦しく見えないように」ということだ。驚くべきことに、彼女は自分で服装をコーディネートできるのだ。次回からのチャンネルで着るものらしい。一足先に衣替えを見れたのは、教師としての特権ということになる。
「九重さんの話だとチャンネルの方は順調って話じゃないか」
「そうですね。まだまだつたないとは思いますが、リスナーの皆さんとこれまで以上に小説を通じたつながりを感じます。ただ……」
輝く夏のようなアリスはその表情に梅雨の名残のような曇を浮かべた。
「その様子だと。小説のテーマは思いついていないみたいだな」
「はい。成果を活かすことが出来ず情けないです。小説の中に文章に書かれていないメタデータが見えたと思ったのですが」
「読めるようになっただけでも大きな進歩だけどな」
情景描写。小説の文章に描かれている外の光景で、それを見ているキャラクターの心の中を間接的に描くこと。読者に文章ではなく自分の心の中にキャラクターの心を見つけ出させる。それはこの授業の最大の成果であり、彼女が小説を書くための大事な“何か”を持っていることの証だ。少なくとも俺はそう考えている。
これが小説なら、困難を乗り越えて成長したアリスが素晴らしいテーマを思いつき、小説を書き始めるところだ。もちろん、小説と違って小説を書くことは現実だ。現実は小説のようには上手く行かない。そもそも、小説のテーマは人間の小説家でもそう簡単に出てくるようなものではない。
小説家はテーマを作る存在というよりも、それを生み出す土壌だ。例えば二十歳で作家になった人間は二十年かけてその土壌を育てたと言える。才能のある若い作家が数作で書けなくなったり、逆に四十を超えてデビューした人間が書き続けられたりするのはその為だ。
沖岳幸基などは五十近くで初めて小説を書き始めている。まあ、あれは例外だが。
アリスが小説を書くために最も大切な何かを持っているなら、それをどう引き出す手助けをする。これが俺に出来る最大の仕事だ。何しろ、それは決して直接教えることはできないし、してはいけないことなのだから。
「小説家は答えを知らないという、先生の言葉で小説について理解できたと思ったのです。ですが同時に、小説のことが分からなくなってしまったのです。あの、どうして小説家は小説が書けるのでしょうか」
「もう少し具体的に説明できるか?」
「はい。小説家が小説の答えを知らないのなら、小説はもっとあいまいで支離滅裂になると思うのです。ですが、私の読んだ小説には一つの作品としての統一感を感じます。書いている本人すら迷っているなら、どうして書いたものにそのようなまとまりが生まれるのでしょうか」
「なるほど。アリスの言っている問題が何となくわかってきたな」
「本当ですか。流石先生です」
自分には人間の感情を理解するモデルがあり、優れた言語能力がある。小説を書く技術さえあれば小説が書けるはず、そう言っていた以前とはえらい違いだ。当人はそれを後退と思っているのがむしろ微笑ましい。
「それはアリスが小説を書いたことがないからだ」
「…………」
期待に目を輝かせてこちらを見ていたアリスが、俺の言葉で顔を曇らせた。まるで小さな子が「またいじわるするの?」というような表情だ。
「ちゃんと説明する。アリスが読んだのはすべて完成した後の小説だ。執筆中の小説を見たことがないから、小説が完成までにどれだけ右往左往しているのかを知らないんだ」
執筆中の小説は生き物だ。小説家にとって作品とは我が子同然というのは嘘だが、小説家が書いている過程で作品が子供のように成長することは事実だ。というか、そんな風に小説家の想像を超える成長をしてくれないと、生き残れない厳しい世界だ。
「アリス自身が言っていただろ。自分に足りないデータは小説を作る過程にあるって。だから、小説家から学ぶ必要があるんだと」
「なるほど。確かに私はそう思ったのでした。先生の教えは不思議です。私が分かっていたことの、わかっていない部分をいつも指摘してしまいます」
コクコクと頷くアリス。だが、二度上下した可憐な少女は、その後その細い顎を傾けた。
「ですが、先生の説明では小説を書けなければ小説を書けない、という結論になります」
「……そうだな。だからどう教えたらいいのか悩んでいる」
論理的かつ優秀な生徒に俺は言葉を濁した。こういう時に思い知る。小説家が小説の答えを知らないように、教育者も教育の答えを知らないんだろうな。
「毎回これで悪いが、次の授業までにそこら辺のことを考えてみる」
「わかりました。よろしくお願いします。先生」
アリスの信頼の瞳が眩しい。小説家を信頼しては駄目だぞ。こいつらほど次の章に期待する人間もないんだから。ちなみに世間ではそれを問題の先送りというんだ。
バーチャルルームから出た俺は、玄関に向かいながら次の授業プランを考える。
一番シンプルな方法は小説を書いているところを実際に見せることだろう。二つ問題がある。まずは人選。アリスが情景描写を理解するために、沖岳幸基という超一流の小説から学ぶ必要があった。一方、彼女の前に存在しているのはリハビリ中の小説家だ。しかもこの男はリハビリ前ですら沖岳には全く及びもつかないへぼだった。
「……せい」
もう一つがアリスのリソースだ。チャンネルで紹介する本を読むためにこれまで以上に時間がかかっていると九重女史から聞いている。人気も上昇中だからバランスはとれていると女史は言っていたし、俺もそれはアリスの成長の結果だと思う。
だが、リソースが貴重なのは変わらない。執筆中の小説が生き物ように変化することを見せるには、短編ではなく長編小説が望ましい。十万字以上の小説を書くにはフルタイムでも最低一月。本当に迷いながら書き進めれば三ヶ月が最低ライン。
その過程がアリスが必要としているデータだとしたら、それを彼女に教えるのにはどれだけの……。
「……のせんせい」
アリスにとにかく書かせてみるという方法もなくはない。前回はアリスが小説をそもそも読めているかを危ぶんでいたので却下したが、今なら検討してもいいかもしれない。
だが、テーマを形にできないアリスに対して、俺がどこまで指示していいのか。彼女の言う過剰学習にならないか。アリスの記憶と心は密接に結びついている。思春期の少女のような脆さは前回思い知った。
本当に小説家ではなく教師の悩みだな。いや、昔の俺は自分の小説を作り出すときも、同じような悩みを持っていたか。挙句、その悩みから解放されようと技術と知識を追い求めて失敗した。アリスに同じ失敗をさせるわけにはいかない。
やっぱり小説を書くことを教えるなんて本質的に不可能なんだよな。なら、俺が教えられることは一体なんだ…………。
「海野先生!!」
「えっ、あ、ああ」
自動ドアから片足を外に出したところで体をぐっと引き戻された。あわてて振り向くと、柔和な顔をひきつらせた雇い主が俺の肩を掴んでいた。




