第八話 荒行
俯いた月龍の瞳に、悲壮感は見えなかった。
范喬は恐る恐る近づくと、顎に手をかけて上を向かせた。
床に膝をついたり、座ることはしない。なにかが起こればすぐに逃げ出せる体勢だった。
月龍の目を覗き込んで、ひとつ頷く。
様子を見ていた限り、大丈夫だろうとは思っていた。ここ半日は発作も起きていない。その間もただの失神や放心状態ではなく、理性的な眼差しのまま何事か考えているようだった。
そして今、瞳を見て確信した。完全に薬が抜けきるにはまだ時間もかかるだろうが、差し当たっての危機は脱したと。
猿轡を外してやる。何事か言おうとしたが、口をついて出たのは声とも呼べない掠れた音と、空気を振るわせる耳障りな吐息の音だけだった。
それだけでも喉が痛んだのか、激しく咽せ返る。范喬はその背を撫でながら、水を口に流し込んでやった。
最初はうまく飲みこめず、口から零れ顎に伝っていた水も、次第に飲めるようになる。ごくごくと喉を鳴らして、飲み始めた。
耐えがたい渇きを癒したせいか、月龍はようやく一つ息を吐く。
「――蓮は――?」
まだいつもの声ではない。嗄れた、とても聞き取りにくいものながら、月龍が最初に訪ねたのは蓮の容体だった。
やはり月龍の想いが蓮の上にあることは疑いない。范喬は頷いて見せながら、月龍の縄を解いてやる。
「大丈夫です。確実に回復に向かわれています」
「――そうか」
よかったと声に出したわけではなかったけれど、安堵のため息が心情を物語っていた。
「邵殿、今はあなたのお体のことも気になります。どうか、ゆっくりとお休みください」
「けれど――一目でいい。蓮に会いたい」
「お気持ちはわかりますが、そのようなお姿で行っては、公主が驚かれるでしょう。心配をかけてはいけません」
立ち上がろうとしたのだろうか。身動ぎをして浮かせた腰が、また重力に負けて床につく。
あの邵月龍が立ち上がる力もないとは。
月龍自身、驚いたようだった。弱った体を確かめようとしたのか、愕然と見開いた目で手元を見る。
「それにもう、夕方を過ぎました。公主もお休みになっています。今夜一晩眠って、面会は明日にしましょう」
なるべく優しく、諭すように言う。一度范喬を見上げ、再び自分の体に目を落として苦笑した。自分でも酷い姿だと思ったのかもしれない。
「確かに驚くだろうな」
心配してくれるとは思えないが。
小さくつけ加えられた声が、聞き取れなかった。え、と問い返すと、月龍は苦みを残したまま曖昧に笑う。
「いや、なんでもない。蓮の体に障る恐れがあるのなら、控える」
憔悴のせいだけではない。やけに物わかりのいい、落ち着いた物腰に、違和感を覚える。
月龍ならば、眠っている蓮の姿を盗み見るだけでもいいから会いたいと言うのではないかと思っていた。
今彼に必要なのは、なにより休息だった。その点だけで言えば、素直に従ってくれる方がいい。
けれど、表情に全く覇気が見えないのが、ただ体の衰弱だけが理由ではない気がしてならなかった。




