第参拾肆話 武
津波のように状況が変わっていく。その変化に頭が追い付かない。自分ではもうどうしようもなかった。頭の容量はすでにパンクしている。ただ眺めているだけしかできなかった。
ギリが右腕を引いてもファルは動けないでいる。たとえその右腕が振り抜かれたとしても動けないだろう。
ギリもそれをわかっているが、情けをかけるはずがなかった。
右腕は振られ、そして止まった。
細い左手でそれを受け止める。ギリの腕力にも引けをとらないその力は守るべきものを守る為に存在しているのだ。
「おまたせ、待った?」
「狗飼……それ、私のセリフ」
笑顔を向けて、すぐに正面を向きなおす。その表情に笑顔など微塵もなかった。手を払いのけて二人は対峙する。
「……ギリ、あんた何がしたいんや」
「知る必要はない」
拒絶の言葉に狗飼は歯を鳴らす。
「あんた、魔王の座を返上したってな。聞いたで」
「誰にだ」
「紫の心臓の持ち主、鬼の女王」
「……あのお喋りめ」
「伝言。魔王とかめんどくさいからやだ。受け取らんよ」
「あいつの意思など関係がない。あいつがやる事になるのはわかりきっている」
「なんで言い切れんねん」
「あいつが、そういう奴だからだ」
「意味がわからへん」
「わかる必要などない」
話は平行線を辿っている。ギリは確信を言わない。それが尚の事、狗飼の神経を逆なでる。
「あんたが何をしたいんかはもういい」
「なら、どうする」
「とめる」
「やってみるがいい」
そう言うとギリは左手を平行にして少し前に出した。そして右腕を引く。まるで弓矢を引いているかのような恰好だった。それを見てファルは叫ぶ。
「狗飼! 武術だ!」
「わかってる」
「ただの武術じゃない! 古い文献で見たことがある。数百年も前に途絶えた源弓流だ!」
「よく知っているな」
古くに途絶えたはずの武術。しかも、武術は人間が編み出したものだ。それを魔者が使おうとしている。違和感しかなかった。
「武術の世界に、種族など関係がない」
「え?」
「武の道を歩む者はみな等しく平等なのだ。源弓流は途絶えたわけではない。私が引き継いだのだ」
人間のものであったものを魔者に引き継ぐ。ありえない話ではないのはわかる。だが、それは歴史がかわるほどの事だろう。
「源弓流はその時代に一人にしか相伝者を生まない。門下生は何人もいるが、その中から一人だけが選ばれるのだ。人間の古い武術は衰退を辿っていた。そんな中、私が門を叩いたのだ。まわりの人間はどのような反応をしたと思う?」
「え? それは……」
普通に考えて拒絶されるだろう。武術は人間が使うものだからだ。
答えはわかっているが、答えられないファルは見たギリは話を紡ぐ。
「快く門を開いたのだ。魔者の私をだ」
想定外だったのはギリ本人だろう。
「私は問うた。なぜ魔者を受けいれたのかと。すると師範は先ほどの言葉を言った」
武術の世界に種族など関係がない。
その言葉がファルと狗飼の脳裏をよぎった。
「衰退を辿ろうとしていた源弓流は私に引き継がれた。師範の最後の言葉はこうだ。『お前が長く生きれば、お前が死ななければ源弓流は消えないだろう。今は武術の時代ではないのだろう。時代が変わった時、お前が再び源弓流を蘇らせるのだ』とな。私は思った。魔者と人間は分かり合えるのだと私は痛感した。だが、そのような考えを持っている者など、皆無だった。私は魔の世界で人間の素晴らしさを説いた。このような人間がいるのだと。歩み寄るべきだと。賛同する者は多数いた」
そう言ってギリは視線をクラウに向けた。そして深く眼を瞑る。
「だが、人間はどうだ。たった数十年の人生ではその事に気がつく者がいなかった。武を極めた者しか理解してもらえなかった。そんな武人たちは口を揃えて言う。『どれだけの時が過ぎても振り出しに戻る。お前がやっている事は報われないだろう』」
それでも諦めなかったのだろう事が伝わってくる。
「私が人間に興味を持ったのは、すべては乙姫が馬鹿な事を言いだしたから。あのときに、止めていられたら、と思わんか狗飼」
「…………」
沈黙する。ファルの位置からは狗飼の顔は見えなかった。
「結局、お前たち二人の所為なのだ。いや、狗飼、お前も共犯だ。お前たち、三人が馬鹿をやった所為だ。わかっているだろう。あの時から、魔の世界は狂い始めたのだ」
「……だから、こんな事していいって事にはならへんやろ」
「戻す必要がある。狂ったのなら戻せばいいだけの話だ」
平行線だ。お互いに引けない理由がある。その想いはぶつかり合う他ない。
「アルさん、見んといて」
「え?」
「目、つぶって」
「えぇっ」
何を勘違いしたのか、ファルはそんな事を言われて、大人しく眼をつぶり唇を尖らせて前に出した。
「んん~」
「……なにしてんのアルさん」
「え? 何ってキッスじゃないの」
狗飼はエプロンを無造作に脱いでそれをファルの顔目掛けて投げた。
「ぶっ、何をっ」
「だから、見んといて」
再度同じ言葉を投げかける。狗飼はファルの冗談には乗らなかった。
「見られたくないねん。この姿」
視界は遮られた。だが、聴力は生きている。
瞬間、狗飼の気配が膨れ上がった。見えてはいないが確実にわかる。
そこに、巨大な何かがいる。
地面はその巨大な身体を支えるために悲鳴を上げてひび割れた。獣の咆哮が木霊し、自然が恐怖に怯える。そこにはきっと、恐怖が具現化した姿があるのだろう。
そこから数秒で勝負は着くことになる。
人間にとっては数秒でも、狗飼とギリにとっては十分すぎる時間だった。会話はなく、お互いの想いを通すために相手を倒す。たった一つの目的を二人で共有したのだった。




