「ままー、お父さんがお母さんのこと好き好きだって〜」「え?」「あ、ちょっ、しーーっ!」
世間では「ざまぁ」というジャンルが一定数流行っているらしい。
自分に嫌なことをしてきた人が嫌な目に遭う。
例えば妻、もしくは夫が浮気して、主人公に心の痛みを与える。
その後、主人公は報われて、加害者の人生はだんだんと堕ちて行く。
そんな二人の対比を見て悦に浸る。
私はどうにもこうにもその「ざまぁ」というジャンルが好きになれない。
どちらかというと見るのは純愛系か感動系。
その中に「ざまぁ」が含まれるのは別に良いものの、「ざまぁ」がメインの作品を見るのは生々しい、というより人が堕ちて行く様を見て、悦に浸れないのである。
どちらかというと男子高校生と女子高校生がキャピキャピしている方が好きなのだ。
そんな私、東雲 愛子は今年で三十八歳になる専業主婦である。
……まあ、趣向はともかく、いわゆる普通の主婦である。
そして家に住んでいる家族は私と、一個下の夫の健二さん、そして四歳の娘、さーちゃん。
今が人生で一番忙しいが充実している時期とも言えた。
娘の成長を見守るのは楽しいし、家族の仲もさーちゃんを中心として良い関係である。
家族団らんの時間が多くて、健二さんはよく外食やお出かけにも連れて行ってくれる。
健二さんのおかげで、私は私の理想の結婚生活を叶えることができている。
誰がどう見ても充実した結婚生活だと言えるだろう。
そんな充実っぷりなので二人目を作りたいとも最近は考えている。
しかし私には一つ、誰にも言えない悩みがあった。
「ママー、おーえーかーきーしよー!」
日曜日の朝、夫の手伝いもあって家事を早く終えた私がリビングでゆったりと過ごしていると娘が近づいてくる。
タッタッとスキップしているのか走っているのかわからないが、そんな子供らしい所作に私は微笑みながら待ち構える。
するとさーちゃんは椅子に座っている私の太ももに飛び込んで顔を埋めた。
何回か私の服の匂いを嗅いで、顔を上げると、さーちゃんは足をバタバタとさせながらキラキラとした上目遣いを作った。
自分の娘はやはり可愛くて可愛くて仕方がない。
「おえかきしよ!」
「いいよ、一緒にしよっか」
「やったー! おえかきっ、おえかきっー!」
娘は私に背を向けてやはりスキップか走っているのかわからない所作で喜びの舞を踊る。
やはり娘はどこから見ても愛おしい。
そんなことを考えながら、子供の可愛いポイントをひたすらに探していた時だった。
「愛子さん、今日って昼から友達と会うんだったよね」
ソファに座っていた夫の健二さんが私に話しかけてくる。
夫はいつも私のことをさん付けで呼ぶのだ。
堅苦しいが別に『夫が思うであろう私たちの関係上』では問題はない。
私もさん付けで呼んでいる。
「うん、そうそう。お昼から昔の友達に久々に会うから、さーちゃん頼める?」
「もちろん。お昼はどうするの?」
「お昼はここで食べるから私が作るね。でも昼食食べたらすぐ行く感じかな」
「了解です」
私が夫とそんな会話をしていると、会話を聞いていたであろうさーちゃんが私に寄ってくる。
「えー、ママ、お出かけしちゃうのー?」
「ごめんね。来週は家族みんなでお出かけしようねー」
「……じゃあお昼からはパパと遊ぶー!」
さーちゃんは一瞬悲しそうな顔をしながらも、パーっと笑顔を浮かべる。
そして大好きなパパのところに行って、私にしたのと同じように太ももに顔を埋めた。
「パパ、良い匂いしなーい。くさーい」
「え、く、臭い!?」
健二さんが戸惑い半分、ショック半分のリアクションをするので、娘がそれを見て笑って、パパも笑って、私も笑う。
一気に空間は笑いに包まれる。
こういうふとした瞬間に私は幸せを感じる。
けれどそれでも私には一つ悩みがあった。
子供に関することでもなく、ただただ私自身に関する悩み。
「ママ、昼ごはんまでお絵描きしよー!」
「……」
「……ママ?」
「ああ、ごめんね。ぼーっとしてた」
娘が心配の眼差しで見ているので、私はニコッと笑って大丈夫だとアピールする。
子供の可愛さを目の前にしてもぼーっとできるほどの深刻な悩み……というわけではない。
けれど夫含めた誰にも言っていない。
もし夫に悩みを打ち明ければ、そんなことでと笑われるかもしれない。
それでも、この悩みは言えない。
夫にだけはもっと言えない。
「大丈夫? 疲れてるんだったら、ちょっと休憩したら?」
健二さんもまた娘に似た心配の眼差しを私に送る。
やはり健二さんは優しい。
ああ……好き。
しかしこんなこと到底言えない。
ぎゅーってして甘やかしてほしいなんて、この歳になって口が裂けても言えない。
夫と触れ合うのが疲労回復の手段なんて、そんなことを堂々と夫に言えるわけがない。
それは夫が私を妻ではなく、娘の母として見ているから。
私は無論、娘の父としても、そして異性としても夫のことが大好きなのである。
しかし夫はおそらく娘の母として私が好きなのだ。
知り合ったきっかけは女友達からの紹介だった。
比較的相性が良かった私たちは付き合うことになり、それから一年という比較的短い期間で結婚した。
お互いに婚活中で結婚を前提としたお付き合いだったというのもあるし、相性が良かったというのもある。
しかし一年で結婚した理由は夫が病気だった祖母に自分の晴れ姿と孫の姿を見せてあげたかったから、である。
……ああ、そんな優しい健二さん、好き。
『仮に今結婚したとして、すぐに妊活できますか?』
『健二さんは子供欲しいの?』
『うん、欲しいと思ってる……生々しい話だけどごめんね。愛子さんはどう?』
『私も子供欲しいし、どうせ結婚するなら今から初めても良いよ』
『本当? ……じゃあ二人で決めていこう』
そんな話をした数日後に、病気の祖母の話をされた気がする。
それでも健二さんは私のことも気遣ってくれたし、自分と相手の要望を言い合って、折り合いもつけてくれた。
……ああ、思い出すだけで好き。
けれどそういう訳で健二さんはおそらく娘の母として私が好きなのである。
スキンシップも自分からはしようとしないし、愛してるとか好きも子供の前以外では言ってくれない。
だからそういうのは嫌なのかなと私も言わないようにしている。
共同生活している友達みたいな、人生を共にする相方みたいな、そんな関係になっているのである。
しかし要するに私はもっとイチャイチャしたいのだ。
でも、流石に欲張りすぎよね。
まだまだ考えられないけれどさーちゃんが自立するまでは私も頑張らないといけない。
何を頑張るかはあんまりわからないけれど、健二さんが娘のために頑張っているのだ。
私はせめてその邪魔をしてはいけない。
今の生活は壊したくないから、私は今日も夫への好きを心の中で爆発させながら生きている。
「本当に大丈夫? さーちゃんの面倒は俺が見るし、ゆっくり休んでてもいいよ?」
正直、理想の夫だと思う。
私の疲れを言う前に感じ取って、一人の時間を作ってくれる。
だけれど私が欲しいのはそれじゃないっ!
夫との! イチャイチャ! それが欲しい!
「ううん、平気平気。さて、さーちゃん、お絵描きしよっかー」
「うん、ママとおえかき〜!」
健二さんの近くに何としてもいたいので、私は平然を装う。
それに当然、さーちゃんといるだけでも私は疲労も精神も回復できる。
私は喜んでいるさーちゃんの頭をわしゃわしゃと撫でると、一緒にお絵描きを始めた。
そうしていると、ふと、娘が健二さんの方に振り返る。
「パパもやろーよ! おえかきー!」
「俺も? じゃあ一緒に三人でやろっか」
さーちゃんナイス!
……疲労回復が促進した私は心の中でガッツポーズをするのだった。
家族は今日も円満である。
私の片思いを除いて。
***
「愛子はどうなの? 家庭の方はうまくやれてるの?」
午後三時ごろ、カフェにて、私は五年ぶりに会う友人と会話に花を咲かせていた。
高校時代からの友人で、最後に会ったのが私の結婚式の時である。
しかし何年ぶりであってもしばらく話していると、高校時代の懐かしさが蘇ってくる。
高校の時の懐かしい話もしつつ、とはいえ、お互いに歳も歳。
主にすることは家庭の話だった。
「うん、上手くやれてるよ」
「娘さんいるよね? さちちゃんだっけ。今何歳?」
「四歳。言葉もすらすら話すようになってきて……子供の成長って早いわ。写真見る?」
私は友人に写真を見せる。
すると「可愛いー!」と満点のリアクションである。
やはり私の娘は誰から見ても可愛いらしい。
自慢の娘だ。
「旦那さんとはどう?」
「お互いに不満はないし、助け合える良い関係だと思う……っていうか、旦那がすごく優しくて頼れるから私の方がいつも助かってる」
「結婚式の時見たけど、すごく良い人そうだったもんね」
「うん、本当良い人ゲットできたなーって思うよ」
「いいなー、私は良い人だと思ったらあの浮気野郎に騙されてたからなー」
この友人はバツイチで九歳の息子がいる。
というのも彼女は私が結婚したすぐ後ぐらいの頃、前の旦那の浮気が発覚して離婚したのである。
それからバタバタと忙しかったみたいで五年間会えていなかったのだ。
「今はもう落ち着いた? 大丈夫?」
「平気平気。離婚したての時は経済的にもメンタル的にも大変だったけど、今はもう新しい彼氏もできたし、結婚も考えてくれてるみたい」
彼女の平気という言葉は目の前にある笑顔がものがたっている。
そんな彼女の様子に私は胸を撫で下ろす。
「でも別に疑ってる訳じゃないんだけど、一回浮気されてるし、男ってそういう生き物なのかなって思って……ちょっと不安なんだよね」
主語がデカすぎるかもしれないけど。
彼女はそう一言付け加えて苦笑いする。
それは彼女の経験から来る言葉で、彼女の不安は私へと伝染していく。
……健二さんも浮気してたりするのかな。
浮気したところで、娘に影響が入ってさえいなければそれでいい。
お互いに子が欲しくてした結婚という認識だから、本来はそんな関係のはず。
でも、健二さんの浮気を想像するのは心底嫌だった。
胸の奥が痛くて、泣きそうになる。
きっと、彼女はこの気持ちを何倍も大きくしたものを抱えて、息子を育てていたのだろう。
そう思うと子の母としては尊敬しかない。
「……どうしたの? 大丈夫?」
私が考え事をしていると、友人がそう問いかけてくる。
どうやらまた顔に出ていたらしい。
「……夫が浮気してたらどうしようって思って」
私は思っていたことをそのまま口に出す。
けれど目の前の真剣な表情の友人を見て、ハッとなった私はすぐに明るい顔を浮かべた。
「なーんてね、ちょっと想像してみただけ」
「……少しでもそう思うってことは、何かあったの? バツイチの私でよければ相談乗るよ?」
誰にでも言ってこなかったけれど、高校時代の友人には良いかもしれない。
そう思って、私は自分の悩みを打ち明けてみることにした。
この歳になっても夫がまだ好きすぎること。
けれど愛情表現もスキンシップは全くなくて、夫はおそらく私を好きでいないであろうこと。
笑われるかと思ったが、友人は一貫して真剣に話を聞いてくれた。
それが私にとっての救いだった。
話し終えると、友人は唸り声を上げて悩む仕草をする。
「うーん……浮気してても、おかしくは、ないね」
「でも、この歳にもなって相手の好きを求めるのはどうかなって思ってさ。ただただ結婚するためと子供産むために結婚したようなものだから……浮気されても、問題……ないはずなんだけどね……」
相手からの好きを求めるのはとっくの昔に終わったはずなのだ。
けれど、私は健二さんのことが好きで、それに見返りを求めてしまう。
だから時々辛くなる。
「問題ありまくりでしょ。愛子が悲しそうな表情してるんだから」
「……でも、歳だしさ」
「別に夫なんだから自分から愛情表現とかスキンシップすれば良くない?」
「もちろん最初はしてたけど、夫からはしてこないし、迷惑かなって思って」
私がそう言うと、友人はまた悩む仕草をする。
そうしてしばらくして、一言。
「……まあ、浮気の否定は、できないよね」
***
午後五時半ごろ、私は家で一人ぼーっとテレビを見ていた。
夫も娘もまだ帰っていない。
夕飯のピザを買ってきてくれているので帰りが遅れるそうなのだ。
家事の負担を減らせるようにと健二さんらしい、優しい配慮である。
しかしその分一人になれば考え事が増えてしまう。
数時間前に友人に言われた言葉を私はまだ引きずっていた。
別に疑っているわけではない。
健二さんは浮気するような人ではないし、常に家庭のことを考えてくれる優しい人だ。
けれど私たち二人の関係に恋愛感情があるかと聞かれればないと答える。
だから健二さんが浮気していても、娘に影響がなければ何も問題はないはず。
でも、嫌なのだ。
私は健二さんが好きで、不安になってしまうのが嫌なのだ。
もっと、愛されたい。
しかしわがままな自分はもっと嫌だった。
この歳にもなって、子供のようなわがままを言って健二さんを困らせるわけにもいかない。
結婚しているのだから、自分の好きは表現しても許容してくれるだろう。
とはいえ、相手からの好きを求めるのはわがままになる。
私の頭の中でぐるぐると思考が回っている。
テレビの内容など頭に全く入ってこない。
「……早く帰ってこないかな」
私はため息をつくと、テレビの電源を消す。
そして俯く。
ダンゴムシのような体勢になりながら、ただただ時計の秒針の音を聞いていた。
一人で悩む時、私はいつもこうする。
膝に額を当てて顔を埋めて、ゆらゆらと体を左右前後に動かす。
倒れそうで倒れない状態をキープして、感情が大きく揺れ動いた時、私はソファで横に倒れる。
そのままの体勢のまま、私の意識は夢の彼方へ飛んでいった。
次に起きた時、目を開けると私の視界に天使が映った。
正確には天使のような笑顔と容姿を持った愛しの娘が目の前にいた。
「あ、ママ、おきたー!」
どうやら私は眠っていたらしい。
感覚的に熟睡していたような気もする。
私は寝ぼけた頭で体を起こすと、自分の体に毛布がかけられていることに気づく。
「さーちゃん、布団かけてくれたの?」
「ううん、パパがかけたの!」
……相変わらず優しいなあ。
胸を熱くさせつつ、私は娘の頭でも撫でて寝起きの眠気を飛ばさせる。
すると物音がしたので後ろを向くと、夫がお皿を出したりして夕飯の準備をしていた。
テーブルの真ん中にはピザの箱が重ねて置かれている。
「あ、起きたんだ。おはよう」
「……ごめん、私どれくらい寝てた?」
「うーん、俺たちも今帰ってきたばっかだからわかんない」
「そっか……ピザ買ってきてくれてありがとうね。あと毛布も」
「ううん、全然。むしろいつもありがとう」
夫はやっぱり優しすぎる。
……ああ、好きだなあ。
そう思いつつ、けれどそう思えばそう思うほど胸が痛くなる。
「今日なんか体調悪そうだね。どうしたの?」
「あ、いや……だ、大丈夫だよ」
「何かしてほしいことあったらなんでも言って良いから」
「……うん、ありがとう」
夫とそんな会話をしていると、さーちゃんが急に私に抱きついてくる。
「ママ、だいすきー!」
「急にどうしたの? ママも大好きー!」
突然抱きついてきた可愛い娘に癒されながら私も娘に抱きつき返す。
「なんかね。パパが言ってたの! だいすきーってするとゲンキ出る!」
「そうなの? ありがと、さーちゃん」
「あとね、パパも言ってたよ!」
「なんて言ってたの?」
私がそう聞くと、娘はよりでかい声で言った。
「あのね、パパはママのことすきすきなんだって〜」
「え?」
一瞬、私はそんな反応を見せる。
嬉しさが襲ってきて、後からやっぱりそんなわけないだろうと一気に現実に引き戻された。
「あ、ちょっ、しーーーっ!」
しかし、健二さんは慌てたようにそう言って、口元に人差し指を立てる。
私の視線に気づいたのか、健二さんは私の方を見ると苦笑いした。
その頬は赤く、恥ずかしがっているようにも見える。
まさか……いや、ね。
今回も子供の前で言った嘘、もしくは娘の母として好き、そんなものだろう。
思えば私に直接的に好きと言ってくれたことは子供が生まれた後はもうなかったと思う。
「なんでパパ、しーっするの? ママのこと、すきすきなんでしょー? ママはパパのことすきー?」
「うん、もちろん好きだよ。さーちゃんも好きだよ?」
「えへへ、さちもママだいすきー」
さーちゃんは嬉しそうにニコニコと笑うと、『パパ』の元に行って同じことを聞く。
恥ずかしそうにしながら健二さんは私と同じことを言った。
まさか……ね。
夢をまだ見ているのかもしれない。
……もう恋愛できるような年齢でもないんだから、勘違いしてはいけない。
私が健二さんが好きでも、相手は同じ気持ちを抱えているわけじゃない。
おそらく家族として愛してくれているだけ。
だから私はわがままを言ってはいけないと思っている。
……そんなことを考えていた。
けれどその日の就寝前のことだった。
プチ事件は起こった。
まず今日はいつもと少し違った。
健二さんが次の日が仕事の時はいつも家族別々で私がさーちゃんと寝ているのだが、今日は健二さんがさーちゃんと寝ていた。
『今日はパパと寝たいの!』
とニコニコで言っている娘に二人とも断るという選択肢はなかったのである。
そこで私は二人の様子を見てみようと寝室に行った時だった。
……絵本でも読んでるんだろうな。
そう思いながら、寝室の少し開いていたドアからチラッと中を見たのである。
するとそこにいたのはいつもと違う様子の夫だった。
「ねえねえ、パパはママだいすきー?」
「うん、めっちゃだいすき」
「どれくらい?」
「世界一だいすき。パパがママを先に好きになったんだよ? 良いお嫁さんもらったよ、本当」
「さちもママのこと、せかいいちだいすきー!」
父娘二人で私のことをだいすきと連呼している。
聞いていて恥ずかしくなるようなむず痒い感覚を覚える。
しかし同時に嬉しかった。
だって……。
「えっと、パパはママのどんなとこ、すき?」
「可愛いし、よく笑うし、何も言わなくても気遣ってくれるし、優しいし……」
そこから止まることを知らない私の好きなところの暴露。
さーちゃんはよくわかっていなさそうな様子だが、ニコニコと聞いている。
ずっと聞いていると恥ずかしさで死にそうになる。
でも、私はその場から離れられなかった。
だって……。
そして言い終えると、夫は娘に一言。
「……でも、ママには内緒ね」
「えー、何で?」
「恥ずかしいし、こんなこと言われてもママも忙しいから」
「んー、わかった。ないしょー!」
「えらいえらい」
夫の言葉は決して私には嘘には聞こえなかった。
だって、付き合う前、私に好きと言ってくれたあの時の目と同じ目をしていたから。
そういえばこの人、しっかりしてるけど不器用なところもあるんだった。
あー、そっか……私の勘違いじゃん。
そう思って、不安は安心と胸の熱へと変化する。
熱は胸から生まれて、喉を通って、目元に流れていく。
しかし口から自然と笑みは溢れていた。
「内緒にしちゃうの? 健二さん」
「……え、ええ、え? い、いつから聞いてたの!?」
「最初から。私も大好きですよ、健二さん」
私がそう言うと夫は顔を赤らめる。
その姿が愛おしくて、好きで好きでたまらなかった。
私が寝室の扉を開けると、健二さんに近づく。
何かを察した健二さんがさーちゃんの目元を一瞬だけ覆うと、お互いの唇に口付けをした。
「さーちゃんも大好きだからね」
私は今度は娘の額にキスをすると、さーちゃんを抱きしめる。
すると、それを覆うようにして健二さんは娘ごと私を抱きしめた。
さーちゃんも小さい華奢な腕と手を伸ばして三人抱き合う形になっている。
「健二さん、好きなら言ってくれればよかったのに。ねえ? さーちゃん」
「パパ、なんでママのことすきすきなのにないしょにしてたのー?」
「……ごめん、なんかこの歳にもなって恥ずかしかったから。そういうのも減ったし、しないほうがいいのかなって思って。そう思うと、やっぱり内緒にしとこうかなって」
「なんで内緒にするのよ。結婚してるのに。パパ、不器用だね」
「パパ、ぶきよー!」
私は不器用な健二さんに笑うと、娘もケラケラと笑った。
とはいえ、不器用で勇気がなかったのは私もだ。
私も早く勇気を出してもっと愛情表現できていたら……。
自分の心情を夫に語れていれば……。
最初から恋も愛もあったのだ。
「あれ、さーちゃん、なんか目についてるよ? ちょっと目瞑って」
もう一度、私は娘の目を一瞬だけ覆う。
そして健二さんと再びキスをした。
いつぶりだろうか。
そんな刹那の時間の触れ合いは数年ぶりだったからか、永遠にも感じられて、ずっとずっと幸せだった。
次の日の朝、私は何気に初めて行ってらっしゃいのキスをした。
「健二さん、好き。愛してますよ」
「……俺も好きです。愛してます」
そんな新婚のようなやり取りは歳も歳だけれど自身の胸を満たしてくれた。
「じゃあ行ってらっしゃい、パパ」
「あ、パパ、いってらっしゃいー!」
ソファに座ってテレビを見ていた娘がタッタと急いで近づく。
そして二人で夫を見送った。
「いってきます」
娘の父として、そして私の大好きな夫として。
二面性を持つ夫の背中はどれも大きく、かっこよかった。
だから私は生涯この人の側にいよう、そう思ったのだ。
そんなことを思い出した。




