赤い約束
東雲先輩が言った言葉を聞いて、わたしは一瞬、ショックで頭が真っ白になったけど、わたしは、東雲先輩がなにを考えているのかをすぐに理解した。わたしは、その事実で胸がいっぱいになって、気づいたら、泣いてしまっていた。
「東雲先輩っ……! 東雲先輩は、葵ちゃんのために、わたしと、別れようって、言ってくれているんですよねっ? 葵ちゃんと、わたしが、ずっと一緒にいられるように、そう言ってくれているんですよねっ!」
わたしからの問いに、東雲先輩はコクリとうなずいてから、暖かくて、優しくて、悲しい笑顔のままで答えてくれた。
「うん。だって俺、ここまで佐伯さんを追い詰めてまで、来栖さんを佐伯さんから奪うのは嫌だから。来栖さんだけでも、佐伯さんのことを傍で支えてあげれば、佐伯さんの心の傷もいつかは癒えるかもしれないからね。だから、俺達、別れた方がいいんだよ」
東雲先輩、あんなに葵ちゃんから酷いことをされたのに、わたしと葵ちゃんのことを第一に考えてくれている。それはとても嬉しい。でも、わたしは、今日まで東雲先輩と過ごしてきて、ますます東雲先輩のことを好きになってしまっている。
だから、わたしは東雲先輩と別れたくなんかないっ! でも、葵ちゃんのことも支えてあげたいっ! ああ! わたし、東雲先輩のこの優しさに、どう答えてあげたらいいんだろう! わかんない、わかんないよおっ!
わたしが泣きながら東雲先輩になんて言ったらいいか考えていると、突然、わたしと東雲先輩の間に六条先輩が割り込んできた。そして、六条先輩は、拳を握って、その拳で、東雲先輩の頭を、殴った。
「こんの馬鹿者がっ!」
パカンッ!
「きゃっ!」
「痛っ! な、なんだよ! 沙羅姉っ!」
東雲先輩を殴った六条先輩は、そのまま東雲先輩の胸ぐらを掴んで、ものすごく険しい表情をしながら、大声で東雲先輩に向けて言葉をぶつける。
「お前はなにを自分の彼女を泣かせているんだっ! 来栖と別れるだと!? そんなこと、この私が許さんっ! お前と来栖の恋路は、もはやお前らだけのものではないのだぞっ!」
「で、でも、そうでもしないと、佐伯さんが救われないじゃないかっ! 俺が来栖さんと別れることが、この騒ぎが丸く収めるための一番の方法なんだよっ!」
東雲先輩がそう言うと、六条先輩は、目をグッとつぶってから、なにかを振りきるように、東雲先輩に向かって叫ぶ。
「いやっ! 手はまだあるっ! 言ったはずだ! 私はお前と来栖の未来のためなら、私の『全て』を捧げると! だから、お前はなにも心配せずに、私に任せていればいいんだっ! 解ったな! 海人!」
六条先輩のあまりの迫力に、その場にいたわたし達は口をはさむことが出来なかった。そして、少し間を置いてから、東雲先輩が六条先輩に訪ねる。
「あ、ああ、解ったよ、沙羅姉。でも、実際、沙羅姉はどうやって佐伯さんを説得するつもりなんだ? もう、佐伯さんを説得する材料がないじゃないか。沙羅姉、なにをするつもりだ?」
「なに、どうしても佐伯が認めないのであれば、私が体を張って説得するしかあるまい。これでダメなら、もはや私にはどうしようもないが、私は佐伯の良心に全てを賭ける!」
そういえば、さっきも六条先輩は同じようなことを言っていたっけ。でも、やっぱり六条先輩がなにをしようとしているか、わたしには解らない。それでも、わたしには、六条先輩のことを信じて、葵ちゃんのことを任せることしか出来ない。
「体を張ってって、沙羅姉、本当になにをするつもりだ? まさか、佐伯さんと殴り合いでもするつもりじゃ……!」
「ハハッ! そんな乱暴なことはしないよ。とにかく、ここから先は私に全て任せてくれっ! 私が絶対に佐伯を説得して見せるっ!」
そう言いながら、六条先輩はニッと笑いながら、片手でガッツポーズをとる。六条先輩からはなんだか自信がみなぎっている。そんな六条先輩を見ていると、こっちまで自信が湧いてくる。
「それでは、これから私は準備を始めるから、お前らはそろそろ教室に戻れ。もう午後の授業が始まる頃合いだからな」
確かに、時計を確認すると、時間はもう午後の授業が始まる十分前だった。わたし達は、六条先輩の言う通りに、それぞれ自分の教室へと戻った。六条先輩、葵ちゃんのこと、よろしくお願いしますっ!
…………
さっき、六条先輩は、私をみんなから少し離れたところに連れ出して、人差し指を口に当て、ウインクをしながら私に言った。
『悪いが、みんなにはあの約束は黙っていてくれないか? 大丈夫、私はそんな無理はしない。海人達のために命までくれてやる気はさらさら無いし、よしんば実行したとしても、私の体質は特殊なんだ。だから、鍋島は安心して私に全てを任せてほしい』
そう言って、六条先輩は他のみんなの輪に戻っていった。六条先輩、本当に、大丈夫ですよね? 葵のことを、任せてもいいんですよね? そんなこと、本当に、しませんよね?
…………
チクショウ、なんでこんなことになっちまったんだ。最初は、ほんのちょっと、東雲先輩に嫉妬していただけだったのに。なのに、東雲先輩と桃花が絡み合っている姿を想像したら、だんだんオレの心のなかに、恐ろしい感情が湧いてきて。
その感情は、オレのなかで風船のように膨らんで、結局、オレはあんな馬鹿なことをしてしまったんだ。でも、もう後戻りは出来ない。ハハッ、オレがこんなことして、兄貴も、桃花も、椿も、オレに愛想がつきただろうな。
それでも、桃花があんな奴に汚されるくらいなら、オレが桃花に嫌われる方がマシだ。だから、オレは、このまま嘘を突き通して、東雲先輩を退学に追い込んで、桃花を守るんだっ!
オレがそう心に誓っていると、近くから人の気配がした。オレがその気配を感じた方向を見ると、オレに向かって誰かがまっすぐ歩いてきていた。そして、その人物は、ベンチに座っているオレの前で立ち止まる。
「やあ、佐伯、やはり屋上だったか。前に来栖から、いつもここで三人で昼食をとっていたと聞いてな。なあ、佐伯、ちょっと私と話をしないか? 大丈夫、今は授業中だ。しばらくはここには誰もこないよ。隣、いいか?」
なんだ? なんのつもりだ、六条先輩。オレになんの用だ? このまま逃げてもいいが、取り敢えず話だけは聞いてやろうじゃないか。
「ああ、座りなよ。で? オレに話ってなんだ?」
どうせ、『海人はそんな奴じゃない』とか、『みんなに今回の件は誤解だったと説明してくれ』とか、そんなんだろ。ふん、そんなこと、誰がしてやるかよ。
(ソウダ、ソレニ、コイツハ、シノノメガ、トウカヲウバウタメノ、カタボウヲカツイダオンナダ。ダレガキョウリョクナンカ!)
でも、そんな六条先輩の口から出たのは、オレが全く予想していなかった言葉だった。六条先輩は、俺に頭を下げながら言った。
「済まない、佐伯。あの海人がこんなことをするとは、私も考えもしなかったのだ。でも、お前が言うように、あいつも男だ。何かの間違いであって欲しかったのだが、佐伯がここまで必死に訴えるのであれば、本当の話なのだろう。私の管理不行届だった。本当に、済まない」
なんだ? 六条先輩、なにを言っているんだ?
「それにしても、怖かっただろうな。誰もいない暗い教室で、助けも呼べずに犯されたとは、私も海人には愛想がつきたよ。あいつとは絶交だ、もう顔も見たくないよ」
六条先輩はそう言いながら、なにか汚いものを見るような目をしながら、コンクリートの床に唾を吐く。そして、六条先輩は、目に涙をたたえながら、オレをガバッと抱き締めた。
「本当に、怖かったよなあっ! 佐伯っ! 私のせいで、海人は肉欲に溺れた怪物になってしまったのだっ! 済まないっ! 済まない、佐伯っ!」
オレの制服が、六条先輩の涙で黒く変色する。オレは泣きじゃくる六条先輩に抱かれながら、困惑するしかなかった。あれは、オレの狂言なのに。六条先輩は、本当にオレが東雲先輩に襲われたと思っているってのか。
(バカカ、コノオンナ、オレノウソヲ、マニウケヤガッテ!)
いや、でも、これは六条先輩の演技かもしれない。だって、東雲先輩や、桃花は椿、そして、兄貴から、例の話を聞いているかもしれないし。ああ、六条先輩は、オレが改心して、自白するのを狙っているのかもしれないな。まったく、食えない先輩だぜ。
(ソウダ、コレハエンギ、エンギナンダ!)
しばらくして、六条先輩はオレから体を離して、ベンチから立ち上がり、フラフラとオレから離れていく。そして、六条先輩はオレの方に体を向けて、立ち止まる。
「佐伯、前にした約束を覚えているか? もし、海人が他の女子になびくことがあったら、私は腹を切ると」
は? 六条先輩、なに言ってるんだ? なんか、そんなこと言ってた気もするけど、あんなもん、冗談に決まってるだろうが、馬鹿馬鹿しい。
(ソウダ、ソンナコト、マニウケルバカガ、イルモンカ!)
「しかも、それが、無理矢理、来栖の友人を犯したなどというなら尚更だ。もう私にはこうすることでしか、来栖や鍋島、そして、佐伯に詫びることが出来ない。一度口にした言葉には、大きな責任が伴うものだ。これで許してくれ、佐伯」
そう言って、六条先輩は、制服を脱いで、上半身裸になる、人形のような白い肌に、真っ黒なレースのブラジャー、そして、スカートに挿された、一本の白い木の棒。そして、六条先輩は、その木の棒を、スカートから抜き出して、両手で横向きに持つ。
「思えば、きっかけは私が海人と同居したことだったのかもしれないな。それで、あいつの性欲に火をつけてしまったのかもしれん。だから、私は、私のやったことにけじめをつける」
六条先輩の手が左右に別れ、木の棒からギラリと光る鉄の刃が現れた。そして、六条先輩は左手の鞘を地面に放り、両手で刃の柄を逆手で握る。
「おい、六条先輩、なに、やってるんだよ。なんだそれ、わけわかんねぇよ。なあ、おいっ!」
(ナンノツモリダ! ヤメロ、ヤメロッ!)
六条先輩は、オレの叫びを無視して、ひざ立ちになり、その刃を腹に当てて、目を閉じて、深呼吸をする。そして、六条先輩は、目をカッと開けて、その刃を横一文字に、傷ひとつ無い白い肌に滑らせた。
「ふっ!!」
ブシュッ!!
オレの目の前で、六条先輩は、本当に、自分の腹を、ばっさりと切った。六条先輩の白い肌は、鮮血で赤く染まり、飛び散った血しぶきは、コンクリートの床を、点々と、赤黒く染めた。





