月が綺麗な夜の楽しみ
僕は基本的に、現実の世界で寝泊まりすることにしている。こっちの世界で寝ても、向こうの世界ではそんなに時間が経っていないので何か問題があるわけではないんだけれど、やっぱり生活リズムを崩す訳にはいかないし。
それに、その……ずっとこっちの世界、この森に入り浸ってしまいそうだから、そんな自分を律するために設けたルールなんだ。
……けれど例外というものはある。
珍しいその『例外』が、今夜。
春が初夏に切り替わるような今日この頃。僕はレネから手紙を貰ったんだ。
『巣ごもりの時にトウゴに貰ったたんぽぽの鉢植えが、綿毛になりました。窓辺に置いておくと、夜、月の光に綿毛がふわふわ輝いてとっても綺麗なんです。そこで、森のたんぽぽが月明かりの下で煌めいている様子を見てみたくなってしまったのですが、今度遊びに行ってもいいですか?』と。
……月明かりの下の綿毛たんぽぽって、どんなかんじだろう。先生の家でお月見した時、ススキの穂に月明かりが輝いてとても綺麗だったけれど、あんなかんじだろうか。
と、まあ……そういう風に僕も気になってきてしまったので、折角だから今晩、レネと一緒にたんぽぽ畑を見ることにしたんだよ。
「とうごー!」
「レネ!いらっしゃい!」
そうして、夜。月が上る頃、僕は祭壇の前でレネを出迎えた。
最初に鳥がででん、と祭壇の上に出てきて、その上にレネがふわっ、と出てくる。……いや、今日は満月に近い月だから、レネは自力ではゲートを開けないんだよ。だから鳥にお願いして、レネを迎えに行ってもらったんだ。
レネはすぐに僕を見つけて、鳥から降りて駆け寄ってきた。ぎゅ、と抱き着いてくるのは竜だからなんだろうか。やっぱり竜って、人にくっつくのが好きなんだろうか……。
鳥はぱたぱたと巣へ帰っていった。多分、眠いんだと思う。夜にどうもありがとう。後でお礼に行こう。
『今日をとても楽しみにしていました。どうぞよろしくお願いします!』
『こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。沢山描こうと思って今からわくわくしています!』
鳥を見送ったレネと僕はそれぞれ筆談で挨拶し合って……さて。
「じゃあ、早速……」
「いー!」
レネに手を差し出すと、レネはちょっと照れたようににこにこしながら僕の手を握って、それから僕らは一緒に飛び立った。……空を飛べる同士だと、移動が楽だよね。
ぱたぱたと森の空を飛んでいく。レネのお目当てのたんぽぽ畑は、森の外、ソレイラの外れの方にある。妖精公園の近くの方、かな。たんぽぽ畑の方が先にできたんだけれどね。
「とうごー、つき、きれーい!」
「うん。今日はいい月夜だね」
レネは最近、ちょっとずつこっちの世界の言葉を覚えてきている。『月』とか『太陽』とか、『森』とか。そういう単語を1つ1つ覚えていっているので、ちょっとずつ片言ながらも会話ができるようになってきているんだ。
レネの言う通り、今日はいい月夜。満月に近い月は、その分明るさも中々のもの。月光で木々に影ができるぐらいだから、これはきっとたんぽぽ畑も見ごたえがあるだろうなあ。
そうして僕らはたんぽぽ畑へ到着。
……そこは、昼間の明るいたんぽぽ畑とは一線を画す、別世界のような場所だった。
「きれーい……」
夜の帳が下りた世界はぼんやりと藍色に沈んだようで、只々静かに暗い。
けれどそこに真っ直ぐ降りてくる月光が、ぼんやりと辺りを照らしている。
……そこにふわふわと揺れる綿毛たんぽぽは、白銀。柔らかな綿毛に月光が乱反射して、綿毛たんぽぽだけが光を放っているかのように見える。まるで、ほわほわとした光の球が沢山浮かんでいるみたいだ。
レネはそっと、綿毛たんぽぽ畑の中へ入っていく。レネが進むと、たんぽぽの綿毛がふわふわ、と揺れて、光がほわほわ零れていく。……いや、たんぽぽの綿毛が茎から離れて、ふわふわと飛んでいくだけだった。でも、飛んでいく綿毛の1つ1つも月光に照らされて、輝いて見えるんだ。
「とうごー!」
たんぽぽ畑の真ん中、藍色の影と銀色の光でできた優しい景色の中、レネもまた、髪を銀色の光に煌めかせながら笑う。
レネの前髪が目元にはっきりと影を落として、月光が当たる肌は白く眩しいくらいに輝いて……周りのふわふわした光とは違って、はっきりとコントラストの強い色合いだ。
それでいて、周りの景色に調和している。
「……レネって本当に、夜の国の人なんだなあ」
たんぽぽ畑の中、うっとりと綿毛を見つめるレネを見ていると、只々、夜の国の人、というかんじがする。或いは、月の精霊さん。そういうかんじ。
レネがあんまり綺麗だから、描くことにした。レネは僕がすぐ描きたくなっちゃうということにも慣れっこなので、にこにこしながらたんぽぽ畑の中に座って大人しくしていてくれる。おかげで筆が進む進む。
……月明かりに照らされるまん丸の綿毛も、夜風に吹かれてふわふわ舞う綿毛も、その中でふわふわ笑っているレネも、何もかもを描きたくなってしまう。幻想的で綺麗な光景に、僕はずっと、目を奪われていた。
……そうして随分描いて、一段落したところで。
「とうごー、とうごー」
レネに呼ばれて、僕はたんぽぽ畑の中へ入る。
中に入ってみると、外から見ていた時とはまた印象が変わる。周り全部がふわふわ白銀に輝く綿毛だらけで、なんだか夢の中に入り込んだような、そんな錯覚をしてしまいそうだ。
「たんぽっぽ、きれーい?」
「うん。すごく綺麗だね」
ふわふわした白銀の光の中で、僕らはしばらく、風に揺れては時々飛んでいくたんぽぽの綿毛を眺めていた。
のんびりとした夜の時間が僕に染み込んでいって細かな傷を修復してくれるような、そんな心地よさだった。
それから僕らは家に帰る。
レネはもう夜も遅いので、僕の家に泊まっていく。……レネのことだから、また僕のベッドに入りたがるんだろなあ。なんだろう、やっぱりドラゴンっていうものは、寝る時に誰かとくっついていたがるんだろうか。それとも、巣ごもりみたいな気分で僕と一緒に寝たがるんだろうか……。
……なんてことを考えながら、僕の家の側へ降り立ったら。
「あ、トウゴ!レネも!丁度良かったわ!」
「ライラ?こんな時間にどうしたの?」
何故か、ライラが僕の家の側に居た。ライラは僕らを見つけると、ぱっ、と顔を明るくして……そして、言った。
「ねえ。あんた達さ。……ウヌキ先生の家に、夜食をたかりに行く気は無い?」
「お邪魔します」
「おにゃにゃしま!」
「ウヌキせんせーい!トウゴとレネも連れてきちゃったー!いいかしらー!」
ということで、先生の家の、玄関。
……なんとなくふんわりと、いい香りがする。醤油とみりんの匂い、だろうか。
「おおおおお!?増えたなあ!まあいいか!よし!こんな月夜だ!君達も夜食の誘惑に負けたとしてそれを恥じることは無いさ!ささ、一緒に堕落しようではないか!」
そして出てきた先生は、割烹着に三角巾、という恰好だった。……気合が入っているなあ。
「ええと、僕とレネは今一つ事情が分からないままここへ来たんだけれど……」
何やら気合が入っている先生に説明を求める。僕ら、何か夜食があるらしいということしか知らないんだよ。
「ん?何、まあ、簡単な話さ。ライラが僕の家で『かえし』を作っている匂いを嗅ぎつけてやってきてね」
「へへへ。私の家、丁度ウヌキ先生の家から風下の方なのよねー」
ライラ、すごいなあ。……いや、でも、確かにこの香りがふわふわ漂ってきたら、お腹が空く。うん。なんだか僕、お腹が空いてきてしまった……。
「なんとなく興が乗ってしまって、みりんをたっぷり煮詰めて、ざらめと醤油も加えて、ちょいと本格的に『かえし』を作ってみたのさ」
先生は僕らを伴って台所へ向かいながらそう説明してくれた。
かえし、っていうのは……ええと、確か、蕎麦やうどんのつゆの下地、みたいな。それを出汁で割って蕎麦やうどんのつゆにするんだっけ。
「そして昆布で水出しにしておいた出汁を沸かして、鰹節をたっぷり入れて……合わせ出汁を作って、さあいざ蕎麦!というところだな」
「成程……」
案外本格的だった……。
先生は不摂生なようで案外ちゃんとしている人で、やろうと思えばちゃんと自炊ができる人なんだよなあ。時々、趣味で料理をしたりもしていたし、している。
……でも、先生曰くの『自炊ジャンクフード』みたいな……ええと、その、レンジでチンするご飯を温めて、そこにバターと醤油を乗っけて食べる、とか、そういうご飯もよく食べているし、まあ、振れ幅がすごい。
「蕎麦を打つ技術は無いので蕎麦は書いて出した」
「……ねえ、ウヌキ先生。それってさ、かえしも書いて出したら済むんじゃないの?」
「いや、一度ちゃんとした蕎麦汁を作ってみたかったのだ。何事も経験、ということで……」
先生はそんなことを言いつつ、鍋に沸かしたお湯の中へ、書いて出したらしい生蕎麦を入れていく。菜箸でくるくる鍋をかき交ぜて、そして、茹だった蕎麦がザルにあけられる。
氷水できゅっとしめたら、蕎麦が小さめのお椀にちょっとずつ入れられていく。……そして、先生が作りたくて作っちゃった例の蕎麦汁が、お椀の中を満たしていった。
ふんわり漂う醤油とみりんの香り。そして出汁の華やかな香りがなんとも食欲をそそる。ああ、お夜食なんて、健康には悪いと思うんだけれど……!
「今日はいい月夜だから、ちょいと季節外れだがこうするっきゃないだろうね!」
更に、先生は悪いことをする。
先生の長い指が器用に動いて、卵の白身と黄身を分けていく。そして蕎麦の上に、ぽん、と黄身が乗せられる。
最後にぱらりと刻んだ小葱が乗せられて、完成。
「さあ、月見蕎麦だ。折角だし、月を見ながら頂こうじゃあないか!」
先生の満面の笑みにつられて、僕らもついつい顔がほころんでしまう。……今日だけは、ちょっとくらい不健康でもいいよね!
それから僕らは縁側に並んで座って、月見蕎麦を食べることになった。
「うみゃあ……」
「美味しいねえ……」
出汁の利いたコクのある蕎麦汁に、香りのいい蕎麦とまろやかな卵黄が加わってとても美味しい。
風が少し冷たい春の夜にぴったりの味だ。
「ん!美味しい!私、この味気に入ったわ!ねえ、ウヌキ先生!後でレシピ頂戴!」
「うむ、いいとも。ついでにかえしも一瓶あげよう。うっかりみりんと醤油を一斗缶で書いて出しちまったからな。是非消費に貢献してくれたまえ」
「なんで先生そんな無謀なことを……!」
僕が知らない間に18リットルのみりんと醤油を生み出していたらしい先生にちょっとびっくりしつつ、まあ、またこういう月見蕎麦が食べられるなら大量の醤油とみりんがあるのは悪くないかなあ、なんて思ってしまったりもしつつ。
「……いい月夜だなあ」
「……うん」
並んで蕎麦を食べている僕らを見て、先生はなんだかじんわりと嬉しそうな顔をしていた。
その横顔も月明かりに照らされて、なんだか随分と優しく見えた。
「まあ、泊まっていくなら泊まっていきたまえ。布団ならたっぷりあるからな。この間魔王が来て干していってくれたからフカフカなはずだ!」
その後、僕らは先生の家に泊まることにした。
そう。先生の家には布団があるから、お泊り会をするには丁度いいんだよ。ベッドだとそうそう数を増やせないし、数を増やさないと狭かったり落ち着かなかったりするけれど、布団だったら同じ部屋にいくつも敷いて皆で一緒に寝られるし。
……それにしても、魔王、ついに布団干しまで始めたのか。働き者だなあ。
「わー、ふかふか!」
「ふかふかー!」
先生の言う通り、押し入れから出した布団はふわふわしていて軽やかだった。元が最高級の布団だっていうこともあるだろうけれど、これはきっと魔王が陽に当ててふかふかにしておいてくれたからなんだろうなあ。ライラもレネもこれには大喜び。
「さあ。ゆっくりお休み。よく食べてよく寝て、よく育つんだぞ」
先生も僕の隣に布団を敷きつつ、なんだか楽しそうにくつくつ笑っている。
「じゃあ、明かりを消すからね。お休み」
「はーい。おやすみなさい」
「おにゃすみなしゃ!」
「おやすみなさい、先生」
そして僕らが皆布団に入ったのを見て、先生は電灯からぶら下がった紐を引っ張って、ぱちん、と明かりを消した。
途端、障子越しにほんのり差し込む月光だけが部屋の明かりになって、一気に部屋の中が静まり返る。
もう少しお喋りして過ごしたいような、この静かな空間を大事に味わいたいような、そんな気持ちのせめぎ合いがあったのだけれど……でも、気づいたら寝てしまっていた。
……随分と穏やかで、ふんわりとして、まろやかな夜だった。
まるで、月光の下でふわふわ光るたんぽぽの綿毛や、月見蕎麦に乗っかった卵黄のような……。
『じゃあ、また今度会いましょう』
『はい。また会えるのを楽しみにしています!』
翌朝、僕とレネは解散した。レネは夜の国で仕事があるし、僕は現実の世界に戻って家に帰って寝る、という仕事が待っている……。なんだか変な気分だ!
『昼の世界は昼間の暖かさがとても素敵だけれど、また、夜にお出かけしてみたいです。とっても綺麗で、とっても楽しかったです』
レネはにこにこ笑いながら、満足げにスケッチブックの文字を見せてくれた。これには僕も、にこにこ。
『それで、帰りにウヌキ先生の家で夜食をご馳走になりたいです。またお月さまのおソバ、食べたいです!』
『それはいいね。是非また、夜食を食べに行きましょう!』
今回は沢山絵が描けたし、夜食も美味しかったし。……その、寝る前にものを食べるのは体に悪い、って、散々聞いてきたけれど。
でも……寝る前に食べるものって、体に悪い代わりに、心にとてもいい、みたいなので……。
……先生。また、月が綺麗な夜に夜食をご馳走になりに行くね。




