終わる物語*2
「……そう、なんだよなあ」
先生はびっくりとぽかんの間ぐらいの顔でそう言うと、もそもそ、と動く。するする、と膝が机の向こうに引っ込んでいって、先生はまた、座椅子の上にちゃんと収まった。よし。
「僕も見てみたい。うん。その通りだ」
「そうだと思った」
「すごいなあ、トーゴ。君、魔法使いみたいじゃあないか」
「僕もずっと、いや、今だって、先生のことそういう風に思ってるけれど」
先生に言われた言葉が嬉しくて誇らしくてしょうがない。
僕だってずっと、先生のこと、『まるで魔法使いみたい』って思ってた。先生の言葉は魔法みたいなんだ。僕の心をするりと読み取って、そっと寄り添ってくれて。先生の言葉が見せてくれる世界は、本当に、僕にとって魔法みたいなものだから。……だから、そういう憧れのものにちょっと近づけた気がして、嬉しい。
「そうかい?いやあ、照れるね」
先生もまた、ちょっとてれてれしながら座椅子の上でもじもじして、それから手慰みに魔王を抱き上げて膝の上に乗せて、のんびり撫で始めた。撫でられた魔王は気持ちよさそうにとろろん、ととろけてきて、先生の膝の上に伸びていく。まるでチーズかお餅のようだ。
「……そうだな。僕としてもな。ちゃんと、完成させたいんだ。完成しないっていうのは……ある種の安寧ではあるが、その、寂しいだろ」
のびのびしている魔王を見ながら、先生はまたぽつぽつ話し出す。
「死んでいないことを生きているとは言わない、と、僕は思っている。永遠の未完は……特に、先を書かないことによって未完になっているだけの物語は、まあ……ある種、死、みたいなもんだから……」
「なら、終わるにしても、ちゃんとお葬式はしたいよね」
「うん。そうだなあ。作りかけのものをほっとくんじゃなくて、ちゃんと完成させて飾りたい。それができないならちゃんとごめんなさいして処分しなければならない。それが作品ってもんだ」
お別れもできずにお別れっていうのは、あまりにも悲しい。……僕がそうだったわけだけれど。もし、この世界が無かったら、僕は先生と唐突にお別れすることになっていたんだから。
……ちゃんと、先生は死んでしまったっていうことを認識して、その上でこうやって生活できているっていうことは、とても幸福なことだって、知ってる。
「それで……物語は産んでしまった以上、ちゃんと羽化させて飛び立たせたい、と思う。うん。そうなんだ。そうなんだよ、トーゴ」
「うん」
「……だが、愛する芋虫君が綺麗なちょうちょになって飛んでいってしまうのは、それはそれで寂しいのだ!」
「そうだねえ」
先生は思い余って、魔王をぎゅっ、と抱きしめた。魔王は気持ちよくとろけていたところで急にぎゅっとやられてびっくりしたらしく、まおん!と鳴き声を上げていた。
「……まあ、これも愛着が湧き過ぎた故、なんだろうなあ。こんなにも自分が書いたものを愛せるっていうのは、まあ、これはこれで幸せなことだな」
ちょっと抗議の意思があるらしい魔王に尻尾でぺちぺちやられつつ、先生はそう言って息を吐く。
そうしている間に先生は落ち着いてきたらしく、ずず、とお茶を飲む。湯飲みを両手で包むようにして持って指を温めて、しばらくそのままで居た。多分、先生の中で言葉を整理してるんだろうなあ、と思うから、僕も黙って先生の真似をして待つ。
手があったかい。陶器の湯飲みを通してじんわり伝わるお茶の熱が、手のひらを温める。手が温かくなってくると何となく眠くなってくるような、落ち着いてくるような。
……そんな僕を、先生はじっと見ていた。観察するみたいな目だ。時々、先生は僕をこういう目で見る。先生が書くために必要なことみたいだ。僕やライラが、ものを描く時にじっと観察するのと一緒。
前に聞いてみたら、『対象をじっと見つめて、そこに付随している言葉を探ってみるんだ。例えば、学校の屋上のフェンスには錆や風や青空もしくは夕焼け空なんかが付随してくるだろうし、罅の入ったコンクリートの床、それも酸性雨によってちょっと溶けてコンクリの中の砂利が表面に出てザラザラになってるようなのがくっついてるわけだ』って言ってた。
先生は今、僕を見てどういう言葉を読み取っているんだろう。或いは……どういう言葉をくっつけて、形にしようとしているのかな。
「よし……ちょっと元気が出てきたというか、頭がすっきりしてきたというか」
そうして湯飲みを湯たんぽにしつつ僕を見ていた先生は、ふ、と視線を緩める。
更に、よっこいしょ、なんて言いながら伸びをする。魔王もそれを見てのびのび伸びて真似をしていたので、僕も向かいで真似をする。のびのび、のびのび。
「ありがとうな、トーゴ。ちょっと頭が整理できた」
「そう?よかった」
どうやら先生の頭の中は少し片付いたらしい。先生は肩を回して、コキ、と鳴った関節に『なんか音がしたが僕の肩は大丈夫だろうか』みたいな顔をした。先生曰く、先生くらいの齢になると、自分の体は最早ちょっとしたミステリーでサスペンス、そして時々デンジャラスなんだそうだよ。刺激的なようで何より。
「僕が物語に対してしてやれることっていうのは、ちゃんと綺麗に完結させることぐらいだからな。愛しているなら……愛しているからこそ、そうしなければ。そう思うことができたよ」
「そっか」
「物語を完結させたくないっていうのは、僕の我儘だからなあ……うん、よし」
先生は立ち上がると、その場で元気に屈伸運動を始めた。どうやら気分にも体にもエンジンがかかり始めたらしい。つまり、先生は多分これから、原稿を書き始めるんだ。
どうやら大丈夫そうだ、と僕はほっとして、湯飲みに残っていたお茶を飲む。
……ぬるくなったお茶は渋くて、けれど後味が甘くて、僕は中々、この味が好きなんだよ。特に、先生と一緒に居る時はこの味がしっくり来ていいと思ってる。
先生がいよいよ作業に取り掛かり始めたので、僕はお暇することにした。ついでに作業の邪魔にならないように魔王も回収していく。魔王は尻尾、僕は手を振って先生に挨拶したら、特にあてもなく歩いて、歩いて……。
「……僕も、なんとなく寂しいけれどなあ」
ほんのり冷たくて、でも暖かい春風に吹かれて、ああ、今の気分は正にこんなかんじだなあ、と思う。
ちょっと冷たい。暖かい。それで、ちょっと寂しい。
……先生も同じような気分なんだろうか。それとも、僕よりもっと寂しいかな。そりゃあ、寂しいだろうなあ。だってあの先生が、書くことを躊躇っているわけなんだから。
「先生が、ちょっとでも寂しくなければいいんだけれど」
ね、と魔王に話しかけると、魔王はのんびり、まおーん、と返事をしてくれた。
……そうして森の中を歩きながら魔王を撫でて、ふと、思う。
どうしたら先生は寂しくないだろうか、と。或いは、寂しいのを上手く割り切れるかな、とか。僕にできることはないかな、とか。
先生が『今日も絵に描いた餅が美味い』を完結させたくないのは、それが僕の物語だからだ。あれは例のでっかい鳥の視点で、森に迷い込んできた僕が森で生活して、仲間に恵まれて、幸せに過ごす、っていうのを観察した、そういう話だから。
だから……だから、先生は多分、僕とお別れするような気分になってしまって、寂しい、んじゃないかな。いや、僕の思い上がりかもしれないけれど。
でも先生は僕と同じく芸術を愛する者なので。自分が生み出した作品は、ちゃんと完成させて羽ばたかせなきゃいけないって、思っている人なので。
なので……先生はちゃんと、原稿、書けると思うんだよ。なんだかんだ、先生はそういうところ、ちゃんとしている人だし。編集さんとの約束もあるわけだから、頑張ってくれる、と思う。
そして僕は、先生のお仕事について手伝えることはほぼ無い。精々何かのモデルになるとか、ちょっとした気づきのきっかけになるとか、そういうことしかできない。大体、それって僕だからできることというよりは、先生がありとあらゆるものから色々なアイデアを拾ってこられるっていうだけの話でもあるし。
うん……。
「何か、先生の役に立てればいいんだけれど」
僕、先生には助けられてばっかりだ。ずっと。
だから何かできたらいいな、と、ずっと思ってはいるのだけれど……これが中々難しい。
「先生が寂しくないように、かあ……」
考えてみても、中々いいアイデアは浮かんでこない。それはそうだ。僕の頭で思いつくことなんて、そもそも先生が全部、考えているだろうしなあ。
「ままならないねえ」
魔王を撫でてみると、魔王はまおーん、とのんびり鳴いて、尻尾を伸ばして僕の頭を撫で返すのだった。
……そうしてちょっと寂しいような、もやもやした気持ちで現実の世界へ帰る。
空っぽの先生の家を意味も無くうろうろして、ちょっと庭の様子を見て、それから特にしたいことも無くなってしまったから帰ることにした。
「ただいま」
「お帰り。遅かったわね。今日は予備校、無かったんでしょう?」
「うん……宇貫護さんの家で描いてきた」
家のリビングに入ってすぐ、母親とそんな会話をする。母親はいつも通り、台所で夕飯の支度をしているところだった。
……僕は一度自分の部屋に戻って荷物を置いてコートを脱いで、それからまたリビングへ戻ってきて……ちょっと台所に入って、『何?』みたいな目を母親から向けられつつ、聞いてみた。
「ねえ、お母さん。僕が居なくなってしまったら、寂しい?」
「そうね」
本当にそう思っているのかはよく分からないし、ちょっと不安にもなるのだけれど……まあ、僕、こうやって不安になるようになったんだから、その、多分、僕自身、ちょっと母親にかける期待みたいなものが、増えてきてしまっているのかもしれない。よくないなあ、とは思うんだけれどね。
「じゃあ、どうすれば寂しくないだろうか」
「……何?家出の予定でもあるの?勘弁してよね、そういうのは」
あ、うん。いつもの反応が返ってきたので、ちょっと安心した。まあ、僕の親はこういう人。
「予定は特にないんだけれど……その、誰かとお別れする時に寂しくない方法を知っていたら、教えてほしい」
でももう少しお話ししたい気分なので、ちょっとしつこく聞いてみる。
すると、母親は少し考え始めた。
以前だったら『しつこいわよ』って言って、次に『そんなことどうでもいいから早く勉強しなさい』って言っていたところだと思うんだけれど。……僕ら、ちょっとずつ変化していることは確かなんだ。
……そうして僕が待っていると、母親は、ぽつり、と話してくれた。
「……別れた人のこと以外の何かに集中する、とか?」
「成程」
結構ドライな意見がやってきた。まあ、貴重なご意見。いろんな方向から物事を見た方が解決策は見つかりやすいって聞くし。
「私達もね、桐吾が居なくなったら旅行に行こうと思ってるの」
「いいと思う。いや、なんなら、僕が独り立ちする前でも行ってきたらいいんじゃないかな」
僕が巣立っていった後の両親の心配は要らない、と。まあ、知ってたけれど。
……いや、でも、これも両親の変化なのかな。最近、旅雑誌を母親が買ってきたんだけれど、前は受験関係の本ばっかりだったから。例の事故の後、僕が目覚めてからの両親は、僕と僕の受験以外のことにも興味が出てきたみたいなんだよ。きっとそれって、いいことだと思う。
「まあ、あなたもいつかは居なくなるわけだから、色々考えてるけれど。楽しみなことがあると寂しいとも思わないものでしょ」
そっか。それもそうだね。成程、じゃあ先生にも是非、『今日も絵に描いた餅が美味い』完結後は早速、別の話を書いてもらうことにすればいいのかな。そうすれば多分、寂しさは紛れると思う。
……と、僕がそんなことを考えていたら。
「まあ、だから私達が安心して旅行に行けるように、早いところ独り立ちしてね。それも、ちゃんとした独り立ち。私達の手が要らないようになってくれたら安心して旅行に行けるから」
母親は、そんなことを言った。
……ええと。
「不安だと、寂しい?」
「……不安と寂しいのは別でしょ?」
「あ、うん」
そうか。そうだな。そうだ。ええと、でも……僕の頭の中で、何かが繋がりそうで、繋がらない。うう、なんだろう、これ!
「えーと、じゃあ、僕が手のかかる状態で独り立ちしていくのと、そうでもない状態で独り立ちしていくのだと、どちらが寂しい?」
「さあ。実際にそうなってみないと分かりっこないでしょう、そんなの」
まあそうだね。そうなんだけれど……うーん。
……僕が悩んでいる間も母親は順調に夕食の準備を進めていく。春キャベツが鍋の中で煮込まれて甘い香りがする。春の香りだなあ、なんてぼんやり思いながら、僕は頭の中のもやもやと対峙して、言葉にならない答えを探しているのだけれど……。
「でも、手が掛かってもそうじゃなくても、桐吾がものすごく楽しそうに出ていくんだったら、寂しいとは思わなさそうね」
母親がそう言った途端、頭の中のもやもやが、すぽんっ!と吹き飛んだ。
「……そっか」
「実際、そうなりそうだけれど。はあ……」
母親はため息を吐いているけれど、でも、でも……僕、それどころじゃなくなった!
「あの、ありがとう。とても参考になった!」
頭の中にあった、繋がりそうで繋がらない何かが繋がった。そんな気分になって、段々と気分が高揚してきて……。
「それはいいけれど勉強もしてね?第一志望は美大にしてもいいけれど、ちゃんとした滑り止めの学校も……」
「分かってる!次の模試も楽しみにしてて!」
母親の心配を跳ねのけて、僕は自分の部屋に駆け込んだ。一応、早速勉強道具を広げる。なんだかそわそわして、今にも走り出したいような気持ちなんだけれど……でも、それはそれ、これはこれ。
ひとまず学生の本分は勉強なので。今日の分って決めた分はちゃんと片付けてから。片付けてから、改めてそわそわしよう……。




