4話:少し寂しい世界*3
……そうして僕らが向かったのは、カフェだった。初めて会った日もその後も、時々先生が連れてきてくれた『コーヒー以外はとても美味いのにコーヒーだけはクソまずい店』。
僕が率先してここのドアを開けるのは初めてだった。けれど、特に緊張もなく、からん、とドアベルを鳴らして店内に入る。
「いらっしゃ……ああ、君は……」
お店に入ると、マスターが僕を見つけて少し目を瞠った。ぺこ、と頭を下げて挨拶する。
「……宇貫先生の、ええと、ご友人、だったかな」
「ええと……多分、まあ、そんなところです」
僕らの関係は今一つ言葉にしにくいものだけれど、まあ、一応、こういう時には『ご友人』っていうことにさせてもらう。便宜上。
「君も、あの事件に?」
マスターは僕の脚のギプスと松葉杖を見ながらそう聞いてきた。はい、と頷くと、そうか、と痛まし気な顔をして、マスターはしょんぼりと肩を落とした。
「……良い人ばかりが、嫌な事件に巻き込まれるものだ。まだ私は宇貫先生がお亡くなりになったと実感できていなくてね」
「僕もです」
しょんぼりしたマスターは、それから石ノ海さんに目を向けた。
「そちらは、お父様かな?」
「先生の叔父さん、です」
そうか、僕ら、親子に見えるのか。……まあ確かに、石ノ海さんくらいの齢の父親でも、おかしくはないのか。……それにしても、さっき会ったばかりの人と親子に間違われるっていうのは、なんだかくすぐったくてむずむずするけれど。
「石ノ海秀太と申します。生前、甥がお世話になりまして……」
「ああ、いえいえ、こちらこそ……いや、うーん、宇貫先生については『お世話』はどちらかというと私の方に分がありますかね……」
……うん。まあ、確かに。先生はなんとなく、お世話される側だったと思う。このカフェにおいては。
「そしてその分、お代金以上のものを頂いていました。……それが二度と手に入らないというのは、やるせないですね」
マスターの寂しそうな苦笑いに、僕らも同じような表情で応える。
……悲しい話をしているけれど、完全に悲しい顔、っていうことには、ならないんだ。
先生の話をしている以上、どうしたって、表情の成分の半分は、笑顔になってしまう。だって、先生との思い出なんて、全部楽しくて幸せなものなんだから。
うーん……やっぱり、先生はすごい人だ。
それから僕らは、窓辺のテーブル席に案内された。いつも僕と先生が案内されていた席だ。
なんとなく、いつも先生が座っていた方の席に座ってみた。見える景色が全然違って、ああ、先生はこのカフェで、こういうものを見ながら僕とお喋りしてくれていたんだなあ、と、ちょっと新鮮な気持ちになる。
「ご注文はお決まりですか?」
「ココア、ください。マシュマロが入ってるやつ」
注文を聞かれて、迷わず答える。初めてこのカフェに連れてきてもらった時に飲んだメニューを注文するって、決めていたから。つまり、僕と先生が出会った日……僕が川に飛び込もうとした小学6年生の時のあの日に飲んだやつ。
「はい、かしこまりました。マシュマロ多めにお入れしましょうか?」
「お願いします!」
先生はこのカフェでココアを注文する時、ココアの表面が分からなくなるくらいにマシュマロを入れてもらうのが好きだったみたいだ。そこに熱いココアを注いでもらって、とろけかけのマシュマロとほんわり甘いココアを楽しむんだよ。
「では、お連れ様は?」
僕がココアを思ってちょっとうきうきしていると、石ノ海さんはじっとメニューを見て……。
「ええと、僕は……じゃあ、ブレンドコーヒー」
そう言った。よりによって!
「あっ、やめておいた方がいいですよ……」
「へ?」
いや、あの、事情はマスターの前であんまり説明できないんだけれど……その……ここのお店でコーヒーを頼むのは、ちょっと……!
「……トーゴ君。言ってくれても構いませんよ?宇貫先生がよく言っていたあれでしょう?」
けれども、マスターからのお許しも出たので……うん。
「……石ノ海さん」
「あ、ああ……」
僕は意を決して、言った。
「ここのお店、コーヒー以外は、美味しいんですよ……」
……言った途端、石ノ海さんはきょとん、とした顔をして、マスターはなんだか妙に嬉しそうににこにこした。
そういうわけで、石ノ海さんはミルクティーを頼んだ。あと、アップルパイ。よくミルクティーとアップルパイの組み合わせで先生が注文していた、っていう話をしたら、なら折角だから、って。
ついでに僕は、ガトーショコラを注文した。ココアとガトーショコラって、まあ、チョコレートでチョコレート、みたいな組み合わせなんだけれども、こういう日には甘すぎるくらいで丁度いいよね。
やがて注文の品が運ばれてきた。先生と来た時と変わらない、白い磁器のカップに並々入ったマシュマロ入りのココア。
ココアのカップを両手で包んで暖を取って、とろけたマシュマロとココアの甘い甘い香りを吸い込んで……先生のことを思い出しながら、ちびちびココアを飲む。
「護はこういう場所でこういうものを注文していたのか。なんだか感慨深いな」
石ノ海さんもミルクティーを飲んで、それからアップルパイをさくさくとフォークでつつきつつ、少しの間、僕らはお互いの飲食物に夢中になって……。
「……あの、石ノ海さんは、先生のことで、ここに?」
それからやっと、本題に入る。いや、このカフェも石ノ海さんも、なんとなく落ち着く要素になってしまって、あんまり本題に急いで入れなかったっていうか、そんなかんじ。でも、いつまでもお茶を楽しんでいるだけだと、話が進まないので……。
「ああ。まあ、一応、葬儀のために戻ってきたんだが……その後の遺品整理のためにまだここに残っている、といったところかな」
ちょっと聞くのが辛い話ではある。葬儀があったんだなあ、とか、それに僕は参列できなかったなあ、とか。色々思ってしまって、ちょっと辛い。
「あのお家は、ええと、石ノ海さんのもの、なんですよね」
「おや。そういう話も聞いていたか。そうそう。僕が死んだらあの家は護に相続しようと思っていたんだがね……まさか、あいつの遺産を僕が相続するかもしれない、っていうことになるとはなあ」
石ノ海さんはなんだか苦笑しつつミルクティーを飲んだ。
「まあ、そういうわけで何とか、護の遺品整理は姉と一緒に僕も担当することができて……僕の姉っていうのは、護の母親にあたるんだが」
ああ、それも聞いてる。……先生の母親も、あんまり良い人じゃないみたいな、そういう話を先生から聞いたことがあったの、覚えてる。
「そしてひとまず、この家の鍵やら権利書やら諸々を探す、という名目で、二週間ほどの停戦期間を設けているんだ。……ということで、明日の夕方、僕は日本に帰国する手筈となっているんだよ。僕が日本にまだ留まっているっていうことは、姉は知らないのさ」
成程。賢い。ちょっと先生っぽい。
……まあ、それはさておき。
「それで、僕に声を掛けてくださったのは……」
「ああ、それは勿論、君と護の話をしたかったからさ。……どうも、我々は親戚一同の中でははぐれ者でね。葬儀の時には碌な話が出なかったもんだから、護の良き友人が居たなら、その人と話をしたい、と思ったんだ。それで、もう1つは……」
石ノ海さんはちょっと申し訳なさそうな顔をして、それから、頭を掻きつつ、聞いてきた。
「君の荷物が、護の家にあると聞いている。それにどうやら、あの家に一番最近出入りしていたのは君みたいだから。もしよかったら、荷物の整理をちょっと手伝ってはくれないかな、と思ってね。どうだろうか」
……そういうわけで、僕らはカフェを出た。カフェに入った時よりも、ずっと明るい気持ちで。
先生の話ができる人が居るっていうのが、すごく嬉しかった。あの世界どころか、先生のことだって夢か幻か何かみたいに思えてしまっていた僕にとって、先生のことを話せる人の存在が、ものすごく、ありがたかった。
「まあ、後片付けっていうと色々あるけれどね。護の仕事についてはどうしたものかなあ……」
「それなら多分、連絡先をまとめたファイルがカウンターの上にあるので、それを見れば分かると思います。今、仕事が進行していた出版社の名前なら、多分、それを見れば思い出せると思うから……」
「おお、早速頼もしいなあ、トーゴ君は!」
先生の家までの道すがら、僕らはそんな話をしつつ、とことこ歩く。
……石ノ海さんは、やっぱりちょっと、先生に似ていた。話し方も、表情も、雰囲気も。どことなく似ていて……それがちょっと嬉しくて、ちょっと寂しい。
「テレビ局の連中は……よし、居ないみたいだな」
僕らは曲がり角の所で一度、リポーターの人達を警戒した。さっきとは別のテレビ局が来ているかもしれないし。けれどもまあ、家の前には誰も居ない。よしよし。
ということで僕らはさっと走って、さっと門を抜けて、石ノ海さんが持っていた鍵でガチャリと玄関のドアを開けて、中に入って、さっさと内側から鍵を閉めて……一呼吸。
「これでよし。ふう、この齢になると小走りでも息が上がるなあ……」
石ノ海さんはそんなことを言いつつ、にっこり。
「さて、どうしようか、トーゴ君。早速片付けを始めるか、少しゆっくりするか……君に任せようと思うんだが」
「ええと……なら、早速、始めたいです。体を動かしていた方が、気が紛れるから」
「分かった。そういうことなら早速始めようか」
石ノ海さんは僕を気遣ってくれる。その気持ちが嬉しいし、こういう風に気遣われることで、なんとなく先生を思い出せるからそれも嬉しい。
「僕の荷物は……ええと、今日持って帰るので……」
「ああ、いやいや、別に構わないよ。しばらくここに置いておいてくれていい」
どこから片付けようかな、と思っていたら、石ノ海さんはそう、慌てたように言った。
「え?いいんですか?」
「ああ。姉には上手いこと言っておくし、彼女は金目の物にしかどうせ興味が無いだろうからね」
「いや、あの……だって、先生、もう、居ないのに」
先生が石ノ海さんから借りていたこの家の、更にその一角を借りていた僕としては、只々申し訳ないような気持ちになる。要は又借りなわけだし、石ノ海さんとは今日会ったばかりだし……。
けれど、石ノ海さんは笑って言う。
「構わないさ。大事な甥っ子が大事にしていたものは、僕も大事にしたい。……君がここに居てくれると、護もきっと喜ぶだろうしなあ」
僕、本当に幸せ者だなあ、と、思う。
先生は僕のことをそういう風に石ノ海さんに話してしまうくらい、僕のことを大事にしてくれたんだ。
本当に、本当に僕は幸せ者だよ。すごく幸せ者で、だから……だから余計に、先生がここに居ないことが、悲しい。
「護は幸せ者だなあ」
悲しくてちょっと俯いた僕を見て、石ノ海さんはふと、そんなことを言う。
「こんな顔をしてくれるくらい、君は護を大事に思ってくれているんだろう?」
頷いて、そのついでに僕は深く俯いた。床に顔を向けて……その僕の後頭部に、ぽふ、と、温かな手が乗せられた。
「ありがとう、トーゴ君」
なで、なで、と行ったり来たりする手が、やっぱりなんとなく、先生に似ている。嬉しくて幸せで悲しくて、僕はしばらく、そのままで居た。




