3話:少し寂しい世界*2
さて。病室に母親を置いてけぼりにして、僕は宣言通り、トイレに向かう。よいしょ、よいしょ。……松葉杖で歩くのって、ちょっと大変だ。
病院の廊下を歩きながら、僕はちょっと、考える。
次に父親と会う時には何を言われるだろうか、と考えて少し怖くなって、何を伝えればいいだろうか、と考えて少し緊張して……。
……なんだか考えているだけで少し疲れてきてしまったので、一時中断。僕からしてみたら、あれだけ母親に自分の意見を言えたっていうだけでも、結構な進歩なんだよ。うん、何事も、一歩ずつ、っていうことで。……自分に甘すぎるだろうか。
それからトイレを済ませて、僕はまた、よいしょよいしょと病室へ帰る。
病室へ帰ったら、もう、母親は居なかった。僕と顔を合わせる前に帰ってしまおう、っていうことだったらしい。まあ、僕としてもありがたい。あの状況で冷静な話はできなかっただろうし。
……さて。
ベッドに戻って、僕はまた、考える。今度考えるのは、ちょっと楽しいことの方。
先生が書いた世界を、守らなきゃいけない、っていうことだ。
僕にできることって、何だろうか。どうやったらあの世界を助けることができるだろう。
「先生の原稿、が、どこかに残ってる、だろうか……」
……多分、あの世界は先生の未完の作品の世界なんだ。だったらきっと、先生の未完の原稿がどこかに残っていて、それを完結させる、っていうのが、それらしい解決方法のような気がする。
それに、世界を救うとか云々はさて置いても……先生が生み出した世界が残っているなら、それを綺麗な形に仕上げたい。そうすることで、僕の気持ちに少し、整理がつくような気がするから。
でも、なあ……。
「どうやってそんなものを手に入れればいいんだろうか」
この世界に帰ってきてから思い出したのだけれど、僕はただの人間で、何なら子供で、ありとあらゆることに不便と不自由が付きまとう存在だった。
絵に描いて何でも解決できるわけじゃないから、残念ながら、先生の原稿を探しに行くっていうことも、そうそうできやしないわけで……。
うーん……。もう一度、先生の家を尋ねてみる、っていうのが、一番いい、だろうか。いや、でもなあ。僕、先生の御親族からしてみたら、全くの他人だ。そこを一体どうやって、原稿を譲ってもらうっていうところまで持っていけるだろうか……。
そもそも今の僕、移動手段すら無い。何と言っても、脚が折れている。これじゃあ、先生の家に行くことすらままならない。
……現実って、寂しい。
なんだか悲しいけれど、そういうわけで僕の一番の目標は、退院すること。退院して、先生の家に行って……先生の御親族とか、或いは編集さんとか、そういう人になんとか会って、そこで話をする機会を貰えたら、と思うのだけれど……。
……『こっちも忙しいんだ』という父親の声が頭の中にふと木霊する。
そう、なんだよな。僕の言葉なんて所詮は子供の我儘なので、わざわざ聞く意味なんてないんだよ。それでも話を聞いてくれる先生みたいな人も居るけれど、先生みたいな人ばかりでこの世界ができているわけじゃあない。今日も深く思ったことではあるけれど。
……なんだかやるせない気持ちになりつつ、ベッドテーブルの上に積まれた勉強道具を開く。
「5ページだけやったら、絵を描いていいことにしよう」
ちょっと記憶があやふやになってきている数学の参考書とノートを開いて、僕はちょっとだけ、勉強しておくことにした。一応、勉強って何の役にでも立つので……。
……勉強が終わったら絵を描くぞ、と思って挑んでみたら、なんだか思いのほか進んでしまった。勉強しながら、これを絵にするとどうなるかな、なんて考えていたら更に進んでしまった。
どうやら、勉強中、絵のことを頭から追い出しているよりも、絵のことを当たり前に自分の頭の中に置いておく方が、僕の勉強の効率が上がるらしい。もっと早くこの方法を取り入れておけばよかった気がする。
そうして僕は消灯時間前には勉強も絵も終わらせて、就寝することになった。
まあ、今はとにかく治すのが先決だから、たっぷり眠らなくては……。
……そうして僕は、しっかり食べて、よく眠って、適度に運動も頑張りつつ隙間の時間で勉強もする、実に模範的な入院患者の生活を送っていた。
尚、当然だけれど絵も描いた。当たり前だ。僕が生きている限り、僕が絵を描くことは呼吸することくらい至極当然なことなので……。
まあ、そういう風に模範的な生活をしていたものだから、僕は看護婦さん達と仲良くなることができた。にこにこしながら世間話に付き合ってくれたり、絵のモデルをやってくれたりする看護婦さん達の存在は今の僕にはすごくありがたかった。……好意的に接してくれる人がいるって、すごく大事なことだ。
……それから、僕の退院の日まで、両親はほとんど来なかった。来ても荷物を看護婦さんに預けて帰ってしまうようなかんじで、僕とは直接会わなかった。どうせ話すなら病室がいいな、と思っていたのだけれど、まあ、仕方ない。彼らだって、病室で僕を怒鳴りつけたり殴ったりするのは抵抗があるんだろうし……。
まあ、そういうことで僕は無事、退院した。
「どうも、桐吾がお世話になりました」
母親が挨拶する中、看護婦さん達はにこにこ。
「いいえいいえ、桐吾君ったら、ものすごくいい子でしたから。お世話なんてほとんど何も!」
「桐吾君、可愛いし格好いいし頑張り屋さんだし、見ていてとっても気分がいいっていうか。ねえ、お母様も鼻が高いでしょう?」
「また来てね……って言えないのよねぇ、ここ病院だから。桐吾君にはもう怪我なんてしてほしくないわ」
「ああ、でも遊びに来てくれたっていいのよ?ほら、モデルさんなら私達、やるからね?」
「はい。ありがとうございます!」
看護婦さん達に見送られて、僕もにこにこ。母親だけはなんか、まごまご。まあ、うん。
それから帰るまでの間も、あちこちでモデルにさせてもらった患者さんとか、回診の度に僕に描かれていたお医者さんとか、僕が何度も描いた観葉植物とか、そういうものに行き会いながらだったので、その度にちょこちょこ挨拶があって……。
……ということで、僕の退院の日は、ちょっとだけ病院が賑やかだった。
家に帰ってきて、荷解きしたらもう、くたくただった。
病院の中でも相当頑張って運動するようにしていたのだけれど、やっぱりそれじゃ足りなかったらしい。家に帰りつくまでは大体タクシーだったし、マンションの自宅の階までは当然エレベーターだったし、僕、そんなには動いていなかったんだけれど。……うーん、先が思いやられる。
なんだか心配になりつつ夕食を食べる。まあ、我が家の食事は概ね病院食みたいなものなので、特に変化は無い。
「お父さんは?」
「今日は外で食べてくるって」
まあ、こういうご飯の家なので、父親は外で食べてくることが多い。元々職業柄、外食が多いらしい、んだけれどね。まあ、家のご飯が美味しくないっていうのは大きな理由なんじゃないかと、思う。
「早く食べてね、片付かないから」
「うん」
僕は元々、食べるのがそんなに速くないものだから、ちょっとせかせかと慌ただしい食事になる。食べることに精一杯。味わっている余裕は特にないので、我が家の食事には丁度いいのかもしれない。
……けれど、食事中に会話するっていうことができないので、それはちょっと、不満。
食事が終わったら就寝。久しぶりの自室のベッドは、なんだかんだ落ち着くものだった。
肌触りのいい毛布を被って、ちょっとベッドの中でもぞもぞやって丁度いい姿勢になったら、もう、あとは眠気が僕を攫っていく。そのままとろとろと眠りの世界に引き込まれて、とぷん、と沈んで、朝までぐっすり。そんなかんじ。
そうして朝になったらカーテンの外の景色を見る。今日も快晴。ヒヨコ色に染まった街並みを見て勇気を貰う。
……今日は土曜日。
ちょっと遠出するには丁度いい日だ。
家を出る時にも特に何も言われなかった。『ちょっと散歩してくるね』と言って出てきたのだけれど、母親は特に何も言わなかった。父親はそもそもまだ起きていなかった。……つまり僕、結構長い間、父親と顔を合わせていないのだけれど。まあ、そういうものか。
家の外に出てみると、ひんやり冷えた空気が僕から体温を奪っていくようだった。ちょっと火照りが冷めて丁度いいかもしれない。それに、これからものすごく運動するわけだから、寒いくらいがいい。
……これから僕は、先生の家に行く。行ってどうするのかはまだ決めていないけれど、ひとまず行ってみないことにはどうしようもないよな、と思って。
町を歩く。松葉杖と脚との二人三脚で。
駅前の通りをずっと進んで、途中で横に逸れて図書館の方へ。そのまま図書館でちょっと休憩してから、更に家から離れた方へ。
いつも歩いていた道程が、何となく長く感じる。松葉杖だからかもしれないし、気分が重いからかもしれない。
……先生が居ない先生の家を見て、僕、正気でいられるだろうか。少し想像しただけで駄目になってしまいそうな、そんなかんじがするけれど……。
いや、でも、ここで何もしなかったら一生後悔するぞ、っていうことは、分かっているから。だから、僕はまた、松葉杖との二人三脚でのんびりのんびり、進んでいく。
……先生の家に到着。するとそこには何故か報道局の車が停まっていて、何かのリポートをしているところのようだった。
リポーターの人が、言っていた。『被害者の宇貫護さんのご自宅です』って。
成程。どうやら、先の事件のことについて、まだ世間のニュースは賑わっているらしい。悪趣味だよなあ、と思う。でもまあ、そういうものだっていう諦めはもう付いているので、まあ、そんなかんじ。
ただ、ぼんやりその様子を見ていたらリポーターの人が僕を見つけて、僕に向かってやってきたものだから、ちょっと困った。『ご近所の方ですかー!?』って叫ばれながら追いかけられたら、もう、慌てて逃げるしかない。すたこらさっさ、すたこらさっさ。
先生の家の前から逃げ出して、近くにあった公園のベンチでちょっと休憩して、それからまた先生の家の前へ戻る。
もう、テレビ局のワゴンはいなくなっていた。なので安心して、先生の家の前まで進む。
……がらんとして、寂しいかんじがした。
特に、それほど何かが変わったっていうことは、無いはずなんだよ。先生はついこの間までここに居て、ここで暮らしていて……まだ、家が荒れ果てているとか、そういう風な変化には、なっていないんだ。
なのに、寂しい。
……ここに先生が居ないっていうことが、すごく、寂しい。
「……先生」
呼んでみたって返事は無い。いつもみたいに門を抜けて、呼び鈴を鳴らしてみたって、返事は無い。
ちょっと緊張しながら玄関のドアノブに手を掛けてみたけれど、鍵が掛かっているようだった。……先生があの日、家を出た時に掛けたまま、鍵が閉まりっぱなしなのかもしれない。
そうしてなんだかぼんやりと、先生の家を眺めていた。家の中に入れなくたって、見えるものがたくさんあるし、そこには思い出がたくさんある。
ついこの間、枯れたトマトやピーマンや枝豆の苗を抜いて耕し直した小さな畑。
手持ち花火を灯したり雪まろげを眺めたりした、小さな庭。
先生が座って笑っていた、縁側。
……見ていたら体が動かなくなってくるような、そんなかんじがした。
これ以上ここに居たら本当に動けなくなってしまいそうだったから、僕はまた、門を抜けて、先生の家の前の道路に出て……。
「……失礼。少し、いいかな」
そこで、初老の男性に声を掛けられた。50歳か60歳か、その辺りに見える人で……何故か、どことなく懐かしいような、そんな雰囲気がした。
またリポーターの人かな、と思った。被害者が死んだことについてどう思いますか、なんて不躾なインタビューを求められるんじゃないかと思って、僕はさっと踵を返して、精一杯の速度で移動し始めて……。
「ま、待ってくれ!君、トーゴ君、じゃあないか!?」
……そう、声を掛けられて、止まった。
どうして僕のことを知っているんだろう、と思って振り返ったら……その男の人は寂しそうに笑って、じっと僕を見ていた。
その顔を見て、僕はやっと気づいた。
……先生に、ちょっと似てる。
「トーゴ君、だね?」
ちょっと発音を面倒くさがったような、そういう風に名前を呼ばれる。
つまり、『桐吾』じゃなくて、『トーゴ』。
「……はい。僕、トーゴです」
僕のことを上空でも桐吾でもなく、『トーゴ』と呼ぶ人は先生しかいない。だから、『トーゴ』は僕にとって少しだけ、特別な名前だった。きっと、僕の本当の名前は『上空桐吾』じゃなくて『トーゴ』なんじゃないかな、なんてことをぼんやり思うくらいには、特別。
「そうか、やっぱり!……聞いていた通りの子だったものだから、そうじゃないかと思って声をかけてみたんだ」
近づいてくるその人をぼんやり眺めながら、なんだか沸々と、怖いでも苦しいでもなく、でも、どうしようもなく大きく僕を揺るがす気持ちがじわじわと這い上ってくるのを感じて……。
「僕は石ノ海秀太、という。宇貫護の叔父だ。……生前、護が世話になったね」
……『生前』。
そう聞いた時、僕は、自分の中をいっぱいに満たしているこれが『寂しい』だっていうことに気づけた。




