20話:さよなら絵に描いたような世界*1
少しだけ、ぼんやりさせてもらった。先生の文字で書かれた走り書きの意味を考えて。
どうやら僕は、棺の中に入ればいい、らしい。そうすると、元の世界に戻れる、と。
先生の走り書きっぽい文字を見ながら、成程、これがこの世界を壊さずに元の世界へ帰るための方法か、と納得した。
夢見たまま眠って夢見たまま目覚めるには、確かにベッドより棺の方がいいかもね。
「……先生」
それから……この文字を書いた先生のことを考えて、また、ぼんやりする。
先生は、どう思っていたんだろうか。
僕にこの世界に居てほしいと思っていた?それとも、早く現実に帰ってほしいって思っていただろうか。
……どっちでもいいぜ、って、言ってくれそうな気がする。だから、探さなきゃ出てこない場所に棺を隠して、その蓋の裏なんていう場所に走り書きを残した。僕が探さなければ元の世界に帰る方法なんて出てこなくて、それでいて、僕が探したらちゃんと情報が出てくるように。
そういう風にしてくれた。こんなに優しい世界を創って、僕がそこで幸せに生きていけるように……そして、もしこの世界を出ていこうと思ったらその時にちゃんとそうできるように、準備しておいてくれた。
それが嬉しくて、申し訳なくて……それから、悲しい。
こういう風に僕のことを大切に思ってくれた人が、今、棺に入っている。その事実が、どうしようもなく悲しい。
……考え始めたらきりがない。
先生は死んでしまったことをどう思っているだろうか、とか。まだやり残したことだってあっただろうし、とか。もう先生とお話しできないんだなあ、とか。そういうことが頭の中をぐるぐる回り始めて、ようやく、ようやく……実感してきた、というか。
先生は、死んでしまった。
……今まで胸にぽっかり空いていた穴を自覚できていなかっただけだったんだと思う。大丈夫だ、なんて皆に言ったくせに、今更、急に、駄目になってきてしまった。先生の文字を見て、先生が僕を思ってくれていたのを読んでしまったら、もう、駄目だった。
生きていた人が死んでしまった実感っていうのは、後からやってくるものらしい。
自分の胸にぽっかり開いた穴がある、と分かって、急に、何か、取り返しがつかないという恐怖が冷たい風のように胸の中を吹き抜けていって、ただ、どうしよう、と、思う。
分かってる。どうしようもない。どうしようも、ない。死んでしまった人は、生き返らない。取り戻せないものは、どうしようも……。
「……あ、絵」
でも、ふと、気づく。
そうだ、僕には、絵を実体化させる力がある。絵に描いた餅を餅にする力が!
急いで、僕は先生の絵を描き始めた。棺の中で目を開いている絵を。
こういう構図、前にも描いたことがあったような気がするなあ、と思い出してみたら、ライラの絵だった。
そうそう、夜の国でまおーんを小型化させた時の、ライラも僕も10か月寝たきりになっちゃった後の絵。僕が、ライラを起こそうと思って描いた奴で……えーと、結局その絵とは関係なくライラが起きてしまったから、あの絵は今も画廊に飾ってある。僕のお気に入りの一枚だ。ライラの柔らかくて優しい表情が、なんかいい、ってやつなんだよ。
……そうして、僕は先生の絵を描き上げた。すると、絵が、ふるふる、と震えて、きゅ、と縮んで、ふわ、と広がって……。
広がっていった絵は、確かに先生を包み込んだ。
けれど。
「……あれ」
先生は、目を開けて微笑んだまま、動かない。
何枚か立て続けに、先生を描いた。
棺の縁に座っている先生を描いて、そこらへんに立っている先生を描いて、手帳にメモを取っている先生を描いて……。
でも、全部駄目だった。
棺の縁に座ったまま動かない先生や、立ったままマネキンみたいに動かない先生、手帳にペンを走らせた姿勢のまま動かない先生になっただけだった。
「……駄目かあ」
最後にもう一回、棺の中ですやすや、っていう先生を描いて、ただ眠ったような表情のまま棺の中で動かない先生を見て、ぼんやり、『何もかも、もう駄目だ』っていう気分になる。
どうして取り返しのつかないことって、あるんだろうか。この世界は、取り返しのつかないことも解決できる世界じゃ、なかったのかな。
「……トウゴ」
フェイが気づかわし気に声をかけてくれる。
……分かってるよ。分かってる。どうしようもないことがあって、でも、まだ、どうにかできるかもしれないこともあって……もう何もかもが駄目なら、まだ残っている希望のために動くのが、最適解。
となれば、よし。
「まあ、先生は細いから、いけそう……」
よいしょ、と、先生を棺の奥に寄せる。
それで、よっこらしょ、と、棺の中に……。
「お、おいおいおいおい!ちょっと待て!ちょっと待てトウゴ!」
「準備もなく入るな!」
先生と棺の隙間に収まろうかな、と思って棺の中につま先を突っ込んだあたりで、右からフェイ、左からラオクレスに取り押さえられてしまった。
「……トウゴぉ」
そして、隣からフェイが、覗き込んでくる。
フェイは……見たことが無い顔をしていた。いつも堂々としていて強くてしっかりしていて、格好いいフェイが……どうしようもなく戸惑って、困って、泣きそうな顔をしていた。
「……ちょっとだけ、時間、くれよ。まだ世界は滅びねえしさ。だから……ちょっとだけ。な?」
そしてそう言ったフェイは、無理矢理に笑顔を作る。
「……うん」
それを見て、僕は思う。
僕にとってこの世界もこの世界に居る人達も、ものすごく大切なものになっていたんだなあ、と。
……もう何もかもどうでもいいって思ってしまえるくらいに絶望しているはずなのに、先生が、死んでしまったっていうのに。
なのに僕は、そっと、棺に突っ込みかけていた足を、引き戻した。
熱い飲み物だって喉を通り過ぎてしまえば耐えられるし、寒い風の中にだって飛び込んで数分歩けば体が慣れてくる。逆に、一度ひんやりしたものを口にしたら熱さが余計に堪えるようになるし、暖かな室内に入ってしまったら冷たい風の中に戻るのが億劫になってしまう。けれど……。
……最後にもう一度、この世界の優しさに包まってから棺に入ろうと思う。
もう先生も居ない、ただ悲しいことしか待っていない世界へ帰る前に、先生以外の大事な人達と、もう少しだけ一緒に居よう。
余計に別れが辛くなるのだろうし、それで先生が戻ってくる訳でも、悲しいことが無くなる訳でもないけれど。
でも……無駄なことだったなんて、思いたくないから。きっと、僕らには、これが必要なことだから。
一度、森へ帰った。そこでちょっとだけ、過ごさせてもらうことにした。……先生を待たせてごめんなさい、っていう気持ちはあるけれど、でも、やっぱりちゃんとお別れするのは大切なことなので。ちゃんとお別れできないまま二度と会えないことだって、あるんだからさ。
「よし!とりあえずできること片っ端からやるぞ!とりあえず飯だ!飯食ってから考えよう!ぽかぽか食堂だ!」
そして、こういう時に誰よりも率先して動いてくれるフェイが僕らには居るので……早速、僕ら全員、ぽかぽか食堂に向かう。
「僕が居なくなってしまうこと、町の人達にも伝えておかないといけないよね」
「いや、伝えねえほうがいいかもな。精霊様が居なくなったとなったら、結構混乱しそうだし……」
……いや、僕は精霊じゃないことになってると思うけれど。
「あ、そうだ。そもそも精霊の引継ぎ……どうしよう」
それから、もう1つ思い出してしまった。そうだった、そうだった。僕、元の世界に帰る前に精霊業を誰かに引き継がなきゃいけない。
「鳥に返す、っていうわけには……いかないか。なら、鳥と仲良くやっていける人がいいと思うんだよ。ええと、どうしようかな……」
どうしようどうしよう、と悩んでいる間に、シチュー定食がやってきた。今日はクリームシチューだ。まろやかでコクがあって、ふんわり優しい甘みと旨味のバランスがいい。美味しいなあ。こういうご飯は元の世界に戻ったら、もう食べられない……。
ちょっとまた寂しくなりつつ、考えをさっきのところに戻す。ええと、精霊の引継ぎ。誰にするか、っていうことだけれど……。
「……フェイ、精霊やる?」
妥当かなあ、と思って聞いてみる。すると。
「やめとく!」
「あ、そう……」
即答されてしまった。満面の笑みで。いや、そんなにすぐに答えなくったってさ。
「レッドガルドの子が森になってくれたら、すごく安心だったんだけれどな」
「いや、そう言われてもよお……俺は元々の魔力が少なすぎるしな。多分、向いてねえよ。あと、為政者側が精霊になって人間の感覚無くなっちまったらやべえって。レッドガルドと森は別の方がいいと思うぜ?」
あの、僕、そんなに人間の感覚、無くなってるんだろうか。やだなあ。後遺症とかあったら困るなあ。
「……なら、ライラ、かなあ」
「へ!?私!?なんで!?」
「君なら鳥を遠慮なく怒れそうなので」
フェイが駄目なら、ライラかなあ、と思って聞いてみる。ライラはシチューのスプーンを虚空に固めたまま、目を見開いている。驚かせてしまった。ごめん。
「ということで、ライラ、どう?」
「えええ……正直、身に余る、としか言いようがないわよ。まだ、アンジェとかの方が向いてるんじゃない?」
「アンジェは妖精の女王様なんだぞ!これ以上人間離れさせられねえっつうの!」
「ならリアン。君も馬と仲がいいし上手くやっていけると思うけれど」
「アンジェが人間離れしちまう以上、俺まで人間離れするわけにはいかねえの!」
リアンにも振られてしまった。うーん……駄目か。
「大体あんた、どうやって精霊の引継ぎってやるのよ」
更に、ライラに呆れたようにそう、聞かれる。……そうか。ええと、引継ぎの方法……。
「……どうやればいいんだろう。鳥は卵を産んでいたけれど……僕も卵、産めばいいのかな……」
「落ち着け」
「それで、ライラが僕の卵あっためて孵してくれればいいんだろうか」
「ちょっとトウゴ落ち着きなさいよぉ……何よあんたの卵ってぇ……」
「あっ、そもそも卵ってどうやって産むんだろうか!」
「ああもう駄目ね!ラオクレス!やっちゃって!」
「よし。落ち着け」
考えていたらラオクレスにつまみ上げられてしまった。うわうわうわ、落ち着きます、落ち着きます!
落ち着きました。僕はちょっと冷静じゃありませんでした。人間じゃなくて森になっていました。なんなら鳥になっていました。反省しています。
……反省してみてもなんとなく僕の卵を誰かにあっためて孵してもらいたいような気持ちがしてきてしまって、それをなんとか頭の端っこに追いやる。それはだめ、それはだめ……。
「それで、どうしようかな、精霊業」
「……引き継がなくてもいいように思うが。どうやらあの鳥はカチカチ放火王や夜の国の侵攻に備えて、もう1人精霊を欲していたように思えた。なら、それらの脅威が消えた今、精霊が鳥だけになっても問題ないように思う」
「そうねえ。まあ、トウゴ君が卵を産むよりはいいと思うわ……」
……あ、うん。はい。そうだね。それが一番平和かもしれない。うん。なら、精霊業の引継ぎは、鳥に集中させるっていうことで……。
で、それはさておき……。
「……ねえ、ライラ」
「何よ」
「羽、いる?」
「いらないわよ!」
あ、そう。そっか。似合うと思うんだけれどな。案外便利だし。……いや、でも、人間離れはしてしまうからしょうがないか。
えーと、じゃあどうしようかな、僕の羽。生やしたまま帰るっていうのも……いや、もうこのままでいいか……。
ぽかぽか食堂でシチュー定食を食べ終わったら、その日はとりあえず寝ることにした。
……そして、寝るとなったらやってくるのが、レネ。
「とうごー!とうご、とうご……」
レネは一度夜の国に戻っていたのだけれど鳥に攫われてきたらしい。こっちの世界に来て、そして、僕が元の世界へ帰ることを知って……今、ほろほろと大粒の涙を零して泣いている。ああ、ごめんね、ごめんね……。
けれどもレネは一頻り泣いた後、『困らせてごめんね』と書いて見せてきた。それから、『トウゴがトウゴの世界で、大好きなもののために生きられるよう、願っています』とも。
……そして、目元がすっかり赤くなってしまったレネに引き込まれて、僕とライラとレネの3人1ベッドでの就寝。狭い!狭いけれど、この狭さがちょっと安心だ。なんでだろう……。
「ねえ、トウゴ」
レネを挟んだ向こう側から、寝間着のライラが、にっ、と笑って僕を覗く。藍色の瞳が優しく細められて、長い睫毛に月明かりが煌めいて、なんだか綺麗だった。
「明日、起きたら何する?」
「何、って……」
ライラをぼんやり眺めて、なんだか不思議な気持ちになる。
そうか、明日があるのか、みたいな。そういう。
「なんかさ。折角だから、楽しいことしましょ。思いっきり楽しいことすんの。お金だって惜しみなく使っちゃえばいいし……あ、そうだ。あんたさ、いいハム台所に隠してない?あれ、出してよ。折角だし」
ライラの言葉を聞いて、なんだか……ちょっと、楽しい気分になれそうな気がしてきた。
悲しいことばかりの中に、楽しいことの種を蒔いてもらって、それに水を注いでもらって、それがもぞもぞ、芽を出したような。そういうかんじ。
「……なら、貰い物のいいチーズも出そうかな」
「えっ、そんなのもあったの!?生意気!」
ライラの驚く顔がなんだかおもしろくて、ちょっと笑って……そうこうしている間にレネがもそもそ動いて、「わにゃーにゃ?じゅー、みゅ!」と僕らに『2人で話してばっかりでずるいです!』みたいな顔をする。うん。大丈夫、大丈夫。一緒に食べようね、ハムとチーズ。
……うん。明日も、来るんだから。
その明日は、ものすごく楽しまなきゃいけない明日なんだから。




