22話:灰色の空
僕が遠くの空の灰色を眺めていたら、見る見るうちに灰色は広がっていった。
広がっていく灰色を見て、改めて分かる。これ、雲じゃない。
……画用紙の空に灰色の絵の具を滲ませているみたいに、空自体の色が変わっている、ように見える。
「何だろう……」
濃い灰色が滲んで広がっていくのを見て、気持ちがざわつく。僕の気持ちに合わせるみたいに、森の木々もざわりとざわめいた。
「おーい、トウゴー」
絵を描く気分じゃなくなってしまった僕が画材を片付けたところで、フェイがレッドドラゴンで飛んできた。
「あれ、見たか?」
「うん。フェイも?」
「ああ。飛んでる途中で見つけちまって……ありゃあ、なんだ?」
僕も知らないよ。そしてフェイも知らないらしい、ということは……いよいよ、あれが何なのかよく分からない、というか。
「くそー、この町の名前、決まったからその報告に、と思ったのにぜってえあれ、なんか良くないもんだろ?嫌だよなあ……」
あ、この町の名前、決まったんだ。……にこにこトウゴ村とかじゃなければなんでもいいけれどさ。
フェイは難しい顔で空の灰色を眺めて、それから、僕に聞いてくる。
「……トウゴ。森の精霊としては、あれ、どうだ?」
「ざわざわする」
森としての僕も、なんとなく、ざわざわしてる。あれを見ていると、落ち着かない。焦りみたいなものを感じる。
「そうかあ……うーん」
フェイはちょっと唸ってから、すぐに結論を出した。
「とりあえず、ラージュ姫に聞いてみるか。あれ、魔王関連のものなら分かるかもしれねえし」
あ、そうか。魔王。
……色々あって頭から抜けていたけれど、そういえばこの世界、もうじき魔王が復活してしまうのだったっけ……。
「空が灰色に……」
森の町に戻ると、そこでは既に、クロアさん達が空の遠くを眺めながら、慌てていた。
「トウゴ君!ねえ、あれ、何かしら?」
「僕もフェイも分からない」
そして、クロアさんに聞かれてしまったので、僕もフェイも揃って首を横に振ることになる。
「……そうよね。でも、良くない何かだっていうかんじはするのよ。私、そういうのに敏い方じゃないけれど」
「僕もだよ。あれ見てると、ざわざわする、というか……嫌なかんじだ。結界がびりびりするっていうか、肌がひりひりするっていうか……」
僕が答えると、クロアさんはちょっと気遣わし気に僕のことを見た。いや、大丈夫だよ。別に。本当にひりひりしているわけじゃない……と思うし。多分。
「今、ラージュ姫が王家から持って来た文献、読んでるわ。該当箇所がありそうだから、って」
クロアさんがそう言うのと同時に、ラージュ姫がこちらに向かって走ってくる。抱えている本は分厚くて大きくて、何かの図鑑のようだったのだけれど、装丁が丁寧で、かつ古めかしくて……由緒正しい本なんだろうな、と思わされた。
「トウゴ様!よかった、こちらにいらっしゃっていたのですね……」
ラージュ姫は僕の前で息を切らしながらそう言って、そして、本を僕に差し出した。
「ここです。栞を挟んであるページの……」
ここまで随分走ったみたいだ。彼女が住んでいる家からお菓子屋さんまで、ちょっと距離があるから。
ぜえぜえいっているラージュ姫にお疲れ様、と声を掛けてから、僕は本を受け取って、栞が挟んであるページを開く。そこに横からフェイが覗き込んできて、反対からクロアさんが覗き込んできて、上からラオクレスが覗き込んできた。ちょっと、狭い狭い狭い。
……狭いけれど、ぎゅうぎゅうになりながら、僕は該当箇所を読む。
どこが該当箇所かはすぐに分かった。そのページには挿絵が付いていたから。
挿絵はモノクロ(というか、インクが色褪せていてセピア調)だったけれど、挿絵が示しているものはすぐに分かる。……空に濃い灰色が滲んでくる様子だ。
そして、その説明に、こうあった。
『魔王を封印する力がいよいよ弱まり、魔王が復活するその時、魔王の復活を喜ぶ闇が空を覆い尽くすのだ』と。
それから僕らは、慌てて準備した。
町の外に出ようとしていた人達を全員、町の中に入れた。それは骨の騎士団や森の騎士団、壁の門番達が手伝ってくれて、おかげで、町を出ようとしていた行商の人とか、帰ろうとしていた観光客とかは、すぐに森の町へ引き返してくることができたみたいだ。
そして、避難してきた人達を収容するために、宿を全面開放。他にも人が見ていない間にちょっと宿を増設したりして、なんとか、避難してきた人達が全員収まりきるぐらいのキャパシティを確保した。
子供達は優先的に、森の騎士団の詰め所の地下……今は誰も入っていなくてがらんどうになっている地下牢に避難させる。そこが一番、頑丈で安全なはずだから。
……それから、僕はすぐ、森の結界を強く保つ。
何があるか分からない。これから、何が、どのぐらいの強さで起きるのか、まるで。
それが怖い。
……静かに、静かに、空は灰色に染まっていった。そして、いよいよ、森の上空まで空が灰色に染まった時。
ごう、と、森が揺れた。
凄まじい風と、風以外の何か。多分、何かの魔法。そういったものが吹き荒れて、凄まじい嵐になって、森の町を襲う。
結界に守られて、それでも尚、強い風が僕らに吹き付けてくる。
「くそ、なんだこれ!」
フェイはそう言いながらレッドドラゴンを出して、僕らごと、風から守ってくれた。レッドドラゴンの大きな翼が頼もしい。
……そうして、風を遮られながら見上げれば。
「……魔物だ」
結界の外に、魔物が居た。
それも、すごく沢山。
……結界全部を覆い尽くすぐらいの数の魔物が、居た。
魔物がこぞって、結界を叩く。
びり、と体が痺れた。……けれど意識して切り離せば、大丈夫だ。僕は森で森は僕だけれど、結界の感覚まで共有しなくていい。大丈夫だ。大丈夫。
「くそ、結界があってもこれかよ!ってことは、森の外は……」
フェイが青ざめたけれど、その時にはラオクレスがもう、アリコーンに乗って上空へ舞い上がっている。ラオクレスは結界の内側から、魔物達の隙間を通して壁の外の様子を見て、それから地上に戻ってきた。風に煽られながら、それでもちゃんと着地できてよかった。
「……森の外には何事も無いようだ。ここだけが狙われているらしい」
ラオクレスは少しほっとしたような様子でそう教えてくれた。よかった。レッドガルドの町とかには被害が無いみたいだ。それは、何より。
でも、だとしたら、どうしてここだけ……?
「やっぱりこの森、何かあるのよね?」
クロアさんがそうぼやくと、僕の頭の中で巨大なコマツグミがいつもの如く、キョキョン、と鳴く。そうだね、きっと何かあるんだね。何が在るのかは分からないけれど……。
「魔物が狙う何かがここにある、ということなのだろうけれど……うーん、それ以外だと、トウゴ君の強い魔力に惹かれて、ぐらいしか考えられないわね」
「まあ、トウゴ目当てで魔物が来てても、おかしくはねえけど……」
……クロアさんやフェイの推理でいくと、僕が原因でこの魔物の襲撃、っていうことになる、のかな。それはすごく申し訳ない。
「トウゴ。お前、大丈夫か?」
「え?」
ちょっと申し訳なくなっていたら、フェイが僕の事を心配そうに見ていた。
「ほら。前、結界破られた時はその、お前……」
「大丈夫だよ」
前回のことを思い出してちょっと苦い気持ちになりながら、僕はフェイにちゃんとそう伝える。
「前回は後れをとった、というか、その、自分と結界が上手く切り離せなかったっていうか……そういうかんじだったけれど、今は大丈夫だ。ちゃんと意識してるから。それに、結界もちゃんと強化してあるし」
前回みたいなことにはならない。それに、全力は、尽くせてる。大丈夫だ。
「僕は大丈夫だ」
皆を安心させるべく、僕はそう伝える。
大丈夫だ。大丈夫。だから、心配しないでほしい。心配させたくない。怖いって思わせたくないし、思いたくない。
「ん。よし!んじゃあそのまま頼むぜ!」
フェイは僕ににやりと笑ってみせて、ちょっと強めに、僕の背中を叩いた。ばしり、と衝撃が加わって、気合が入る。
よし。……意識し直して、ちゃんと、結界を保つ。
びりびりするけれど、でも、大丈夫だ。意識して、集中していれば、このくらい……。
……それから、随分、時間が経った、ような気がする。
僕はずっと、結界の維持に集中していて……段々、頭がぐらぐらしてきた。疲れてきた、のかな。勉強のし過ぎの時とか、テストの終了5分前にまだ問題を解いている時とかに似ている気がする。
「……トウゴ。ねえ、お水か何か、持ってこよっか?」
「う、うん。お願い……」
ライラが僕を心配そうに見つめて、それから、ちょっと行って、すぐに水の入ったコップを持ってきてくれた。それをありがたく飲んで、ちょっと落ち着いて、また、揺らぎかけた結界の維持に集中した。
……予想以上に、長引いてる。そして、予想以上に、僕は、消耗していた。
「くそ、もう5時間になるぞ……一体、いつまで」
ラオクレスが苛立ったようにぼやいて、それから、はっとして口を噤んだ。僕が気にしないように、気を遣ってくれてるんだろう。
「……いや、大丈夫だ、よな。魔王の魔力っつったって、流石に、一過性のもんだろ。だから、この空の灰色が消えるまでの間、耐えれば……」
フェイはそう言いながら、空の端の方を睨んで……それきり口を噤んで、ただ、じわり、と額に汗を浮かべた。
……空が青く戻るまで、耐えていればいい、らしい。けれどそれがいつになるのかは分からない。
だって、僕の目にも、空の端は……延々と続く、濃い灰色に見える。
「ほら。お水。……森の中の水晶の湖から、リアンに汲んできてもらったから」
ライラに差し出された水を飲む。すると少しだけ、意識がはっきりしたように感じる。
それから遅れて、かすかに甘い水の味が分かるようになってきて、また少しだけ、元気になった。
……もう、8時間になる。
昼前から始まった空の異変と結界への攻撃は、もう、8時間で……僕は、そろそろ、疲れてる。その、ちょっとだけ……。
「トウゴ様……」
「大丈夫だよ。大丈夫だから……」
ラージュ姫が泣きそうな顔で僕の手を握ってきた。それが温かくて、ちょっとだけまた元気が出る。
「あの、ラオクレスは……」
「騎士の皆は門のところで戦ってるわ。結界の内側から矢を射掛けて、少しでも魔物を減らそうとしてるみたい」
少し周りを見回して、そういえばラオクレスもマーセンさんもインターリアさんも居ないな、と思っていたら、クロアさんがそう教えてくれた。
そっか。大丈夫かな。危ない事は、しないでほしいけれど、でも、すごく助かる。
魔物が減れば、攻撃が減って、そうすると、僕は楽ができる。
「トウゴ、頑張って!頑張って!」
「アンジェにもお手伝いできること、ない?」
カーネリアちゃんとアンジェはこれまた泣きそうな顔でおろおろしているのだけれど、その気持ちが一番嬉しい。
……ちなみに、お手伝いなら、他の生き物達にしてもらってる。多分。
多分、龍が力を貸してくれてる。結界の中に、ちょっと涼しいのが混ざってる。僕じゃないものが混ざっててちょっと変なかんじだけれど、でも、今は助かる。
……それから、鳥なら今、僕の横で羽毛を逆立てて、まんまるになりながら頑張っている。すごく力んでいる。ええと、ありがとう。
「くそ、俺も……」
「だ、駄目」
フェイが居ても立っても居られない様子で立ち上がったから、僕は慌てて、フェイの服の裾を掴む。
「……ここに居て、ほしい」
フェイは多分、戦いに行くつもりだったんだと思う。人一倍正義感も責任感も強いフェイだ。森の中に密猟者が入り込んだら自分がその退治に来ちゃうようなフェイだ。だからきっと、彼は戦いに行こうとしたんだろうけれど……でも、フェイは、駄目だ。レッドドラゴンに乗って外に出て行く気がするから。だから、ここに居て、もらわなきゃ。
「う……わ、分かった。大丈夫だ。な?ここに居るから」
フェイは僕が何を考えたか分かったんだろう。焦りと申し訳なさがぐちゃぐちゃになった顔で、僕の頭をわしわし撫でる。
……僕にもっと力があれば、こんな風に皆を焦らせたり心配がらせたりすることも、なかったんだよな、と、思う。
それがすごく申し訳なくて……でも、今、僕にできる精一杯を、やるしかない。
後ろ向きになってる暇なんて無い。ただ、前向きに、精一杯……。
……その時だった。
「ひゃ」
へ、変な声、出た。
……いや、だ、だって、しょうがないだろ。急に、ぱったり、結界への攻撃が止んでしまったんだから。それで……そ、その、急に、結界を撫でられた、っていうか……すごくくすぐったかったんだから!
唐突なくすぐったさとか、急に力が抜けたこととか、なんか色々混ざって、僕はその場にぺたりと倒れることになった。う、うわあ……。
「うお!?ど、どうした、トウゴ……?」
「く、くすぐったかっただけだよ!それから……なんか、結界への攻撃が、止んだ……みたいだ」
弁明しつつ、でも、今は恥ずかしがってる場合じゃない。
起き上がって、立ち上がって、門の方へ見に行く。歩こうとしたら少しふらついたけれど、大丈夫だ。
……僕は急いで門の方へ向かって、そして。
「トウゴ!大丈夫か!?」
ラオクレスが、僕を迎えに来た。
「うん。そっちは……」
「見ろ。魔物が、去っていく」
……ラオクレスが指さす方、門の外では、魔物達が町の結界から離れて、どこかへ去っていく様子が、見えた。
や、やった……。
「トウゴ」
「だ、大丈夫。気が抜けた、だけ……」
座り込んだらラオクレスが心配してくれたけれど、大丈夫だ。
なんか……耐え抜いた、って思ったら、途端に、気が抜けて、力が抜けて……一気に、疲れてしまった。
ああ、僕、結構限界だったんだな、と、分かる。
「……よくやったな」
「うん」
ラオクレスが僕にそう言って、そして、いつもみたいに頭を撫でるんじゃなくて、背中を軽く叩いた。
……子供扱いじゃない『お疲れ様』なんだな、と思って、ちょっと嬉しくなる。
「おお、トウゴ君!大丈夫か?随分と長丁場だったが」
「大丈夫です」
マーセンさんも近づいてきて、僕を労ってくれる。それがやっぱり、嬉しい。頭はぼんやりするし、痛むし、体調は全く良くないのだけれど、でも、やりきった達成感がじんわりと僕の体をあたためてる。
「大丈夫、とは言っても、もう休んだ方がいい。後始末は俺達がやる」
「うん。ありがとう」
ちょっと申し訳ないけれど、今はお言葉に甘えさせてもらうことにしよう。
僕は立ち上がって、休むべく、森の方へ戻りかけて……。
その時、ふと、振り向いた。呼ばれた気がして。
……振り向いて見た門の外。魔物が溶けて黒い靄みたいになって消えていく中。
見覚えのある姿が、ある。
うつ伏せに倒れている格好は、一仕事終わった徹夜明けにリビングのソファで行き倒れて寝てしまった時と同じようだったし、動かない指先に握られているボールペンには見覚えがある。
少しよれたシャツも、くしゃくしゃになってる髪も、よく知ってる。
「先生」
僕は、門の外へ駆けた。
倒れた先生の元へ。
「先生!」
呼ぶけれど、返事は無い。先生は動かない。
「先生、先生……」
ようやくたどり着いて、近づいても、先生は動かない。
僕は倒れた先生の傍に膝をついて、すぐ、先生の体を起こす。顔を見たくて。確認したくて。
……僕が先生の肩に手を掛けた、その途端。
「……え」
ふっ、と、先生の姿が、掻き消えてしまった。
消えてしまった。まさか、魔物と一緒で、黒い靄になって?
僕はもう何も考えられなくて、疲れ切った頭と体は動かなくて、ただ、ぼんやり、周りを見回す。
……何も無い。荒れてしまった大地があるだけで、何も。
「せ、んせ……」
呼んでも、返事は無い。
……ただ僕は、座り込んだまま、失ってしまったかもしれない恐怖と、見間違いだったんじゃないかという期待と、でもここに居て欲しかったのにという落胆と、色々がごちゃ混ぜになった状態で、ただ、荒れた大地をぼんやり眺めて……。
「トウゴ!逃げろ!」
ラオクレスの声が後ろから聞こえて、アリコーンの嘶きと蹄の音が聞こえて……でもそれより先に、僕の視界が灰色に染まる。
一瞬だけ見えたのは、大きな、灰色の手。
そしてそれが見えた次の瞬間、僕はもう、意識を失っていた。




