20話:藍色の世界
「そりゃお前、土台ができたんだろ」
フェイに相談してみたら、そんな答えが返ってきた。
「土台」
「そ。家が無きゃ、冒険には行けねえもんだろ?」
……なんか、先生も前、同じようなこと、言ってた気がする。
多分、僕の中には浮島がある。
それは、僕自身だ。僕しか知らない僕が作り出した僕の場所であり、僕自身でもある。そういう感覚。
どこにも属せない僕はぷかぷか浮かんで、でも、それは決して、嫌なことじゃ、なかった。
孤独は気楽だ。誰にも理解される必要が無くて、誰にも傷つけられずに済んで……それは僕が生きているために必要なことだったと思う。
だから僕は、浮島だ。ふわふわ何処かへ流れていきそうな、それでいて、どうせ何処かへ流れても誰も困らないような、そういう。
……けれど、いつの間にか、浮島は虚空じゃなくて、湖に浮かぶようになったような気がする。
水は僕をゆったり受け止めてくれたし、時々波を立てては楽しませてくれる。浮島を守ってもくれるし、『ここで浮いていていいよ』って言ってくれる。
そうして、浮島が水の上に浮かんでいることを実感したら……湖の周りの広い広い大地が、見えるようになってきた。視界が開けて、色々なものが見えて、冒険に出たくなる。
多分、これが、フェイの言う『土台ができた』ってことなんだろう。
僕はここに居る、っていう感覚があるし、ここに居てもいい、っていう感覚もある。……すごく、不思議なかんじだけれど、そう思うのだからしょうがない。
「つまり、トウゴがこの世界に慣れた、ってことか?」
ええと……うん。そうかもしれない。僕、もうこの世界にすっかり慣れてしまった。森暮らしは楽しいし、絵に描いた餅が餅になるのもお馴染みだし……あと、人が妙に僕に優しいのに、慣れてしまった。
フェイは明るくてさっぱりしてて、僕みたいなのを面白がって面倒見てくれるし、ラオクレスは落ち着いていて、僕が困っている時にさっと導いてくれる。
クロアさんは僕が知らないものをたくさん持っていて、教えてくれる。リアンとアンジェは……なんだろう。純粋に懐いてくれているのが、嬉しい。小さい体で色々なことをやっているのを見ると、僕もわくわくしてくる。そしてライラは僕と同じものを、僕と違う視点で見ている人だ。だからこそ、色々な事を教えてくれる。
……皆、優しい。人だけじゃなくて、鳥も馬も優しいし、管狐だって鳳凰だって龍だって、本当に皆、優しい。
それに慣れてしまうのは……その、少しだけ、怖い。温かい場所から寒いところへ出たら、余計に寒さが身に沁みるっていうのは、よく知っている。一度好きになったものが無くなってしまうのはとても辛いって、僕はもう、知っている。
もし、浮島が浮かんでいる湖の水がすっかり消えてしまったら、その時僕はどうなるんだろうか。また空中にふわふわする浮島に戻るんだろうか。それとも、消えてしまった湖の底に転がったまま過ごすんだろうか。
……いいや。考えないことにしよう。大事なものを失うことなんて、もう考えたくない。
今、ここで、支えられてるっていうことだけ考えていよう。
いずれ来るかもしれないことは、その時に考えよう。それから……いずれ来るかもしれないことができるだけ来ないように、頑張ればいい。隠したり、守ったりして……。
「なんつうかさ。お前、結構変わったよな」
「……えっ」
不意に、フェイにそう言われて、僕はちょっとびっくりする。
「な、何が?」
「ん?……顔とか?」
かお……?え、顔、変わった?整形とかしてないんだけれどな。ええと……。
「俺は嬉しいぜ?なんつうかお前、最初に会った時よりもにこにこしてるようになったし」
「最初、むすっとした顔してただろ。お前」
「……自分の顔は見えないからよく分からないんだけれど」
「ん?そっか。まあ、してたんだよ。ぶすっ、というか、むすっ、というか、しーん、というか……それが、絵を描く時には、こう、にこにこキラキラしててさ」
フェイは思い出すようにそう言う。……そういえば、彼と出会ってから、もうすぐ1年くらいになるのか。早いなあ。
最初にフェイと会った時から、確かに僕は随分変わった、かもしれない。
最初にこの世界に来た時は、1人で絵を描いている分には誰にも迷惑を掛けないから、って思って絵を描いてた。けれど今は、絵を描いていていいよ、って許されながら、何なら望まれながら、絵を描いている。……とんでもない変化だ。にこにこキラキラとやらもするよ。うん。
「それでさ、俺、トウゴは好きなもんに触れてる時ににこにこするんだな、って気づいたんだよ。絵とか、ハムとチーズ挟んだパンとか。……で、今はお前、絵を描いてる時じゃなくても、パン食ってなくても、俺とかラオクレスとか、クロアさんとか、リアンとアンジェとか、ライラとか……まあ、あとは馬とか鳥とかと一緒に居る時も、にこにこしてるだろ」
……してるんだろうか。そんなに僕、にこにこしてる?どちらかというと、無表情な方だと思っていたんだけれど……そうか。そんなに変わったのか。僕。
「俺はそれが嬉しい!お前が俺を気に入ってくれたのも嬉しいし、それ以外でもにこにこするようになったのが嬉しい!」
「……それはどうも」
なんというか、面と向かって言われてしまうと、複雑な気分だ。ちょっと恥ずかしいような気がする。……僕、もうちょっとむすっとしていた方がいいだろうか。
「要は、俺達とか、この森とかが、お前の家になったんだよな?だからお前は安心して、冒険に出られるようになったってことだろ?いいことじゃねえか!な!」
……けれど、フェイにそう言われてしまうと、なんだか、こう……照れくさいし恥ずかしいのだけれど、頷くしかない。
そうだ。僕は、冒険に出られるようになった。色々なことをしてみたくなって、色々な場所に出かけてみたくなってる。
それは、ちゃんと家ができたからだ。浮島が空中をふわふわするんじゃなくて、どっしりと、柔らかい水に支えられるようになって、それで周りの大陸が見えてきたからだ。
それは、本当のことだから……多分、これでよかったんだ。
「……あ、これ、マズローの3段目、かなあ」
「ん?なんだそれ」
考えていたらふと言葉が出てきてしまってフェイが反応したので、僕はざっと、五段階欲求説を説明した。
そして改めて、僕自身でも考える。
マズローの5段階欲求説の、3段目。所属と、愛の階層。それが満たされると承認の欲求になるし、承認されたら、自己実現したくなる。
僕はこの世界に所属して、それから、ええと……その、あの、愛して、もらってる。すごく、ありがたくて、申し訳なくて、ちょっと照れくさいことに。
だから、なのかもしれない。だから僕は、評価なんてものが欲しくなってしまったし、僕の絵を見て好きだと思ってくれる誰かのために、絵を美術館に飾っておきたくなってしまった。
……そして、それがちょっと満たされた今、僕は、なんだか色々なことがやりたくなってしまっているんだ。
そうか。そういうことだったのか。自分の状態に納得がいって、余計に楽しくなってきた。
成程。こうなるのに評価とか、その、愛、とかが必要だっていうのなら……確かに、必要なんだろう。今、僕、すごくいい状態だから。
……所属して、愛してもらって、評価までされるっていうことがこんな事だなんて、思いもしなかった。くすぐったくて、暖かくて……元気が出る。すごく。今までにないくらい、元気が出ている。
うん。そうだ。僕、すごく元気だ。冒険に出たい。色々なことをやってみたい。それこそ、絵に限らず、色々なことを。こんなにも世界の広さが嬉しかったことは無い。
……これは、土台ができたから、なんだ。
1段目から4段目までが、できたから。僕には、僕が帰る家があるから。
「……フェイ」
「ん?どうした?」
フェイの顔を見上げると、フェイは僕を見てにんまり笑っている。その顔を見ているのはなんというか、ちょっと気恥ずかしいのだけれど、でも、やっぱり言うのって大事だと思うので。
「その、ありがとう」
何が、とは言えなかった。言っていったらキリが無いし、それを言葉にする技量は、僕には無い。『いつか、貰ったもののお返しをしたい』って言う自信も、僕には無い。
貰ってばかりで、返せないと思う。きっと。……だから、これはまだ、言えない。
……けれどフェイは、にやりと笑って、僕の頭をわしわし撫でた。
「おう!いいってことよ!……楽しみにしてるからな!お前が色々やってくれるの!」
多分、伝わった。全部じゃないだろうけれど、欠片だけでも、何かが伝わった。それが嬉しくて、僕もちょっと、にやにやしてしまう。
「よーし、いいぜ、トウゴ。そうやってにこにこしてろよな!」
「うん……」
にこにこしようと思わなくたって、どうせにこにこしてしまうと思う。だって、僕には帰る場所があって、そこで支えてもらえて、だから僕は冒険に出られて……それが心底楽しいんだから!
その夜、色々なやりたいことをひたすらリストアップしていった。
色々な場所に行って絵を描いてみたい。色々な人の絵を描いてみたいし、色々なものの絵を描いてみたい。
彫刻もやりたい。デザインにも少し興味がある。やってみたい。あと、テキスタイル。ライラが藍染めをやっているから、そっちにも興味が出てきてしまった。
工作もしてみたいな。芸術にまでいかないようなやつでもいい。ただひたすら、木の欠片を丸っこくなるまで磨き続けてみたいし、金属の板を鏡になるまで磨いてみたい。それから筆記具とか画材とか、自分で作ってみるのも楽しいかもしれない。竹のペンとか、存在は知ってるんだ。作ってみよう。
それから、それから……目指す第一歩は、魔法画だ。
僕、描いてみたいものがある。
それは……王城にあった壁画みたいな、ああいう、大きくて壮大な絵。
僕、ああいうのを描いてみたい。
けれど、いざ、壁を前にしても何も描けないかな。そもそも壁を用意しないといけないから、建築から始めないといけないのかな。
幸い、建築物は描けば出る。じゃあ、どういう建物を建てるかも考えなきゃいけないし、そのデザインもしなきゃいけない。
そして何より、そこに描く壁画だ!ああ、何を描こう?広い広い壁に、大きく壮大に絵を描けるとしたら……描きたいものがありすぎて、どうしようもない!
……結局、僕はその日、ほとんど眠れなかった。
やりたいことも作りたいものも行ってみたい場所も、あまりにも多すぎて、一晩じゃ足りなかった。
窓の外を見て夜明け間近になっていることを知って、慌ててベッドに潜り込んだのだけれど……。
……窓の外は、藍色の濃淡だけで描かれたみたいな、そういう景色だった。空は藍色で、草木の影は黒に近い藍色。微かに白む空の端っこは薄い藍色で、その光に照らされたものが、少しだけ、色づいて見える。……そういう景色だ。僕がライラから貰った絵の具で描いたみたいな、そういう。
「いい景色だなあ」
ひんやりしたような色の景色を眺めて、僕はまた、わくわくし始める。
……藍色は、これから始まる世界の色だ。そんな気がする。
「ということで、そろそろ魔法画を本格的に教えてほしいんだけれど……」
翌日。僕は当然のように寝不足気味だった。けれどとりあえず、ライラに相談する。第一歩の為にも、まずは本格的に魔法画の練習をしなくては。
……けれど。
「えっ、あんた大丈夫なの?魔法画って、結構、魔力使うのよ?」
ライラはそう言って……僕の顔を心配そうにのぞき込んだ。
「その、無理はしちゃ駄目よ?魔力もそうだけれど、体力も使うわ。なんていうか、集中するからかしら。小さなキャンバス1枚分でも、描いたらもうそれ以上動きたくない、みたいな状態になるし、大きめの絵なんて、描いたら数日は魔法画なんて描いてらんないし……あんた、農業で体力、使い果たしちゃうでしょ?その後で魔力も体力も使って、大丈夫なの?」
……ええと。
駄目、かもしれない……。




