宿題
心なしか、日中の暑さが和らいできた気がする今日この頃。
もうじき夏休みも終わる。
今日は特に予定もない。そこで僕は、きょう一日で残っている夏休みの宿題を一気に片づけようと計画していた。小学校の時は、七月時点でほとんど終わらせていたので、この時期まで宿題が残るのは初めてだ。中学校でレベルが高いというのもあるだろうけど、それ以上にみんなといっぱい遊んで宿題をやる暇がないくらい充実していたからかな、と思う。
「……ふぅ」
僕は一息ついて、椅子の背もたれに身体を預けながら、大きく伸びをした。うん。いいペース。まだ始めたばかりだけれど、これなら今日中に終わらせられそう。
僕は何気なく視線を部屋にさまよわせ――違和感を覚えた。
あれ? クローゼット近くの白い壁に、なんか黒い物が見えた気がするんだけど。えーと。たぶん気のせいだよね。うん。きっとそうだ。
僕は自分自身にそう言い聞かせつつも、もう一度、恐る恐るその場所に目をやった。
その場所に黒い物はなかった。――けれど、少しだけずれた場所に黒い物が張り付いていた。楕円形の物体の先端から伸びる二本の細長いものが、ぴくぴくと動いている。
「…………」
僕はそっと席を立ち、足音をたてないよう部屋を出て、ゆっくりと開け放しの(夏なので)扉をしめた。
ほんの一瞬だけ引いた汗が身体中から、どばっと出てくる。
「どうしたの、優ちゃん。真っ青な顔して。生理はちょっと前に終わったんじゃなかったっけ?」
友達と遊びに行くと言っていた絵梨姉ちゃんが、ちょうど向かいの部屋から出てきて、少しだけ化粧をした顔をきょとんとさせながら言った。
「絵梨姉ちゃん、一生のお願い。一日だけ部屋を貸してっ!」
「つい最近も聞いたような気がするんだけど、優ちゃんの一生のお願い。また友達が遊びに来るの?」
「ち、違うよ。最近はみんなも普通に呼べるようになったし」
「そうなんだ。それは良かったわねー」
「うん。ていうか、絵梨姉ちゃんだって、僕の友達と何回か会っているよね」
と話していて、論点がずれたことに気づく。
「じゃなくて、奴が出たんだっ。黒い悪魔が」
「ああ。ゴキ? そういえば昨日あたしの部屋に出たんだよね。逃げられちゃったけど」
てことは、あれは絵梨姉ちゃんの部屋から出てきたのか。
そんな視線を感じたのか、絵梨姉ちゃんが口をとがらせる。
「言っておくけど、あれ黒かったでしょ。チャバネはともかく、黒いのはノラよ。このあたり田舎だし、野生の奴がどこからか紛れ込んだんでしょ」
「そ、そんなぁ……」
「まぁ安心しなさい。チャバネと違って、一匹見かければなんとやら、じゃないから、アレさえ退治しちゃえば良いんだから」
少しだけほっとする。そんな僕に向けて、絵梨姉ちゃんがしたり顔で告げた。
「ただしね。奴は飛ぶのよ」
――そんな知識、知りたくなかった。
「もう子供じゃないんだから。優ちゃん一人でもちゃんと対処できるでしょ」
そう言い残して、絵梨姉ちゃんは家を出ていってしまった。雪枝さんも不在。この家にいるのは僕だけだ。
絵梨姉ちゃんから部屋を使ってもいいと言われたけれど、さすがに夜まで一緒に眠れないから、僕の自室に戻らなくちゃいけない。奴がいる部屋で寝ることなんて耐えられない。ならば、日が出ている今、殺( や)るしかないのだ。
僕はもう男の子じゃないから、虫を怖がってもおかしくはない。
けれど絵梨姉ちゃんの言う通り、もう中学生なんだ。虫くらい自分で対処できないと恥ずかしい。
僕は一階に降りて冷蔵庫から麦茶を取り出して一服する。そして覚悟を決めると、古新聞を手に取って、戦場(僕の部屋)に足を踏み入れた。
恐る恐るクローゼット近くの白い壁に目をやる。
……奴の姿は、なかった。
そうだ。ノラだけに、きっと別のどこかに行っちゃったんだ。
うん。きっとそうに違いない。そう決めた。
と、自分の中で納得したときだった。
僕の視界の先を、黒い何かが横切った。普通に立っている僕の目の前を横切るというのは、飛んでいるわけで。
「わきゃぁぁっっ!」
――くじけた。
「お願いっ。助けて!」
逃げ出す直前、携帯電話を持ち出したのは幸いだった。僕は一階に避難するとすぐ、夢月ちゃんに電話した。
「どしたの? もしかして夏休みの宿題?」
「えっと、まぁ。そんなところ……」
まぁ嘘は言っていない。何となくゴキのこと言うのも恥ずかしいし。一緒に宿題しているときに奴が現われて、夢月ちゃんが何げなく退治するっていうのがベストかも。
なんて思いが口に出たわけじゃないのに、夢月ちゃんが低い声で言った。
「……もしかして、ゴキ?」
「ぎくっ」
今度は思わず声が出てしまった。自分の天然ボケ体質が憎い。
「危ないところだったね、優希。もし知らずに私を呼んでいたら、友情がなくなるところだったよ」
「そ、そんなにっ」
「私の虫嫌いを舐めるなよ。むちゃくちゃ叫ぶぞ。『きゃぁぁぁっ』って」
「……それはそれですごく聞きたい気がするけど、友情が崩壊しちゃうので止めておくね」
「うん。それが賢明だね」
まぁそのボケ体質のおかげで、友情崩壊しなくて良かった。
未遂で済んだおかげか、夢月ちゃんはそんなに怒った様子もなく、別の案を口にした。
「だったら、柚奈に言ってみれば。柚奈ならゴキだって平気だよ」
「……それは嘘だね」
「うん」
悪びれずに夢月ちゃんが返事した。まったく……
夢月ちゃんとも柚奈ちゃんとも長いからね。何となく分かるよ。
「それならさ。香穂莉はどう? 意外と動じそうにないじゃない?」
「ああ、なんか分かる気がするかも」
僕の頭の中に、和室に和服姿で正座している香穂莉ちゃんが浮かぶ。
その側を過ぎる黒い影。香穂莉ちゃんは動じることなく、脇に置いてある箸を手に取り、一閃。箸の先で掴んだ黒い物を、そのまま目の前のお茶碗に入れて、何事もなかったかのように、和菓子を口にする――
「そうそう。そんな感じっ」
僕と夢月ちゃんはそんなことを話しながら笑った。
「――で、私に電話してきたと」
「ごめんなさいっ。ちょっとした冗談というか悪ふざけですっっ」
絶対零度の声を携帯越しに耳にして、僕は慌てて謝罪した。友情崩壊するところだったよ。
「……まぁ確かに、お二人ほど苦手ではないかもしれませんが……ただ私、今は外出先ですので、優希さんの家まで行くのは無理ですよ」
「そんなぁ」
香穂莉ちゃんは彩ちゃんに連絡取ってみると言ってくれたけれど、正直期待できない。無邪気なところがあるけれど、やっぱり女の子だし……と思って、不意に気付いた。
女の子がだめなら――男の子に頼めばいいんだ!
☆☆☆
「もしもし?」
「稔くん? 僕だけど」
「ゆっ――栗山か? ど、どうした」
稔くんの妙に戸惑った声が聞こえる。外出先での連絡の取り合いではなく、こうやって電話したのは初めてかな。驚いている様子だけど、こっちは非常事態なのだ。
「もう稔くんしか、こんなこと頼めないから」
「だから、何を?」
「そ、そんなの、僕の口から恥ずかしくて言えないよ」
「は、恥ずかしい?」
ゴキブリが家に出たこととか、中学生にもなって退治できないこととか。
「だっ、だったら、別に俺じゃなくて、家に人に頼んでも……」
「今、うちには僕しかいないんだよ」
「そ、そうなのかっ?」
なぜか声が裏返る稔くん。とにかく僕はお願いして電話を切った。
しばらくして、稔くんが来てくれた。暑いのにしっかりとした恰好だった。一方で僕は、Tシャツにキュロットのミニというラフな恰好。しっかりした服に着替えたかったけど、怖くてクローゼットを開けられないのだから仕方ないよね。
「で、その、お願いっていうのは……」
「えっと、実は」
僕が事情を説明すると、「ああ、そうだよな。まぁ予想してたよ。ゴキブリだとは思っていなかったけど……」とぶつぶつ呟かれた。――予想されてたの?
「というわけでお願いね」
僕が稔くんに武器(新聞紙)を渡して、戦場(僕の部屋)に送り出そうとしたら、急に稔くんが慌てた声を出した。
「ちょっと待て。俺一人で栗山の部屋に入るのって、いろいろ問題あるだろ」
「そう? 僕は気にしないけれど」
と言ったものも、確かに当事者の僕が外でのうのうと待っているのは、いくらなんでも失礼だよね。
というわけで、二人で部屋に入ったんだけど。
稔くんがぽつりと呟く。
「……これはこれでやばいかも」
「うん。二人だとやっぱり暑いね」
「…………」
奴を逃がさないため、部屋の扉は締め切っているから、二人で入ると、暑いのだ。普段は窓を開けていればそれほど暑くないので、この部屋にはクーラーが付いていない。
どこに隠れているのか、奴の姿は見えない。探したけれど見つからない。こうなったら、奴が出てくるのを待つしかない。持久戦だ。
とはいえ、待っている間は特にすることがなく、手持ち無沙汰になってしまう。
とてもじゃないけれど、カードゲームする雰囲気じゃないし。
「えーと、しりとりでも……する?」
「……あ、ああ」
僕が提案すると、稔くんも頷いてくれた。
僕たちは向かい合うようにして床に座った。
「じゃあ、俺から。……ゴキブリ」
何でよりによって、その単語からかなぁ……
「……りんご」
「ゴキブリホ○ホイ」
「……いちご」
「ゴキジェ○ト」
「……鳥かご」
もう意地である。
「ゴキブリコロリン。――あ」
「わーい。勝った」
喜びつつも、何やっているんだろうと疑問が頭によぎる。そのときだった。
稔くんが急に真剣な目で僕を見つめてきた。無言のまま、顔をゆっくりと僕に向けて近づけてくる。
――そういえば、稔くんを部屋に呼んだのって、今日が初めてだっけ。
なぜかそんなことが頭に浮かぶ。
稔くんの手が僕に向けて伸びてくる。
そして――脇に置いてある新聞紙を素早く掴んだかと思った瞬間、床に向けて一閃した。
部屋に派手な音が響く。
「……やったの?」
体勢的に、稔くんに寄りかかられるような状態になりながら、僕は聞いた。
「……あぁ」
「良かった……ぁ」
ゴキブリを倒したことで興奮しているのかな?
髪の毛にかかる稔くんの息が、やけに荒く感じた。
後処理をしていると、僕の携帯電話が鳴った。絵梨姉ちゃんからだった。
「優ちゃん? 今、みんなでドラックストアのキヨマツに来ているんだけど、ついでだから、殺虫剤買ってこようか?」
「あ、大丈夫。稔くんが退治してくれたから」
僕が電話越しで説明する。
すると長い間があいて、絵梨姉ちゃんが言った。心なしか冷たい口調で。
「……まぁ、優ちゃんにそういう意図がないことは分かるけれど、あまり良くないよ、それ。傍から見ると『ちょっとしたことで男を呼び出して、パシリで使っている、やな女、面倒くさい女』って受け取られかねないよ」
がーん。
「どうした?」
「み、稔くん……」
電話を切った僕は潤んだ目で、稔くんを見上げながらつぶやいた。
「僕って、面倒くさくて、やな女、かなぁ……」
「……は?」
稔くんはきょとんとして――それから、何かツボに入ったのか、笑い出した。
「面倒くさいというより、……面白い?」
「面白い……?」
それは少なくともマイナスのイメージではなさそうだ。
良かったぁ。
僕がほっと一息つくと、玄関から元気のよい声が聞こえてきた。
「お待たせ-。香穂莉ちゃんから聞いて、対G用最終兵器猫、にゃんころもちを連れてきたよ」
彩ちゃんだった。にゃんころもちとは、彩ちゃんちの飼い猫だ。にゃんころ、まではわかるけど、なぜ「もち」がつくのかは、誰もわからない。
右手にペットかご、左手にも重そうなバックを持って二階に上がってきてた彩ちゃんは、僕と稔くんを見比べる。
そしてぽつりと言った。
「……もしかして、お邪魔だった」
「なっ――、そんなわけないだろっ」
なぜか声を荒らげる稔くん。
「なーんだ。二人きりだから、てっきり、イチャラブしてたのかなーって思ったのにー」
「いっ、いちゃらぶっ?」
今度は僕が声を上げる番だった。
言われてみれば確かに、傍から見るとそう思われても仕方ないかも。稔くんの様子がおかしかったのも、もしかして、意識していた?
思わず頬が熱くなる。
「そ、それより――」
僕は必死に話題を変えようとする。
「彩ちゃんの、ペットかごじゃない方の荷物は、なんなのかなっ?」
結構ずっしりしてそうで気になっていたんだけど。
「あ、これ? 宿題一式だよー。せっかく優希ちゃんの家に行くんだから、ついでに優希ちゃんに力を借りようかなって」
あ。
それで思い出した。宿題のことを。
僕は稔くんを見た。
こう見えて、彼は文武両道なのだ。真面目だし、もう宿題は終わらせているはず。
その仕草で、彩ちゃんも僕の宿題状況を察したのか、同じように祈るように、稔くんを上目づかいに見つめる。
「……はぁ」
稔くんが諦めたかのように、ため息ついた。
夏休みもあと数日。こうして僕(と彩ちゃん)は、夏休みの宿題という難関を退けたのであった。
これで夏休み編が終了となります
どうでもいいですが、G関係の話はなぜか執筆が捗ったりします




