090_0820 招かざる来訪者は二日目来たるⅩ ~魂拳-Soul Punch-~
Самбоとは元来、『самооборона без оружия(武器を持たない自己防衛)』の略称、徒手格闘を意味する造語だ。
サンボ単体だとスポーツ格闘技を示すのだが、軍隊格闘術として発展したものが、社会体制崩壊以前の旧ロシア軍で採用されていた。それをバエヴォエ・サンボと呼ぶ。英語ならばコンバット・サンボ、日本では和製英語風に訛ってコマンド・サンボの名で知られている。
スポーツ・サンボは投げからの押さえ込み、関節技で勝敗が決まる。柔道やレスリングに近い格闘技だ。
実戦的なコマンド・サンボは更に、打撃技はもちろん、刃物を持った相手への対処法、立った状態から関節技で締め落とす、骨をへし折り目を抉るなど、危険な戦闘技術へと進化している。ルール無用ならば最強の格闘技とも呼ばれていた。
現役時代、特殊部隊の隊長をしていたオルグならば、当然修得している。
「ぐべっ!?」
その一端を南十星は身をもって体験した。受身は取ったものの、武道場の床板に叩きつけられてしまった。畳敷きの柔道場ではないのでメチャクチャ痛い。
幸いオルグと距離が離れたため、追撃はなかった。だから遠慮なく南十星は時間を使って息を整え、顔をしかめながら立ち上がり、ブラウスのボタンが飛んでしまったのを確かめる。
「痛っつ~……やっぱ力じゃおっちゃんに勝てねぇ」
南十星は柔道やレスリングなど、組み合う格闘技には弱い。小柄な少女なのだから、男に組みつかれたら逃げられない。大の男相手でも腕相撲で勝てるが、それはテクニックの領域なので、純粋なパワーではやはり敵わない。
そもそも彼女の格闘技は映像作品のアクションが元で、見栄えする打撃技が主体のため、泥臭く見えてしまう組み合いはほとんど訓練していない。
「言いおるわ……」
顔をしかめるオルグは、噛み合わせを確かめるように、髭に覆われた顎を掴んで動かす。
「まさか、あの状態から蹴るとは思わなんだ……」
南十星の小柄さは、場合によっては長所にもなる。大柄な相手だと、死角にもぐりこみやすい。しかも一八〇度の開脚ができる柔軟性も持つ。
胸倉を掴まれた瞬間にむしろ懐に飛び込み、超至近距離で体をひねりながら頭上にあるオルグの顎を蹴り上げるなど、普通考えられないカウンター攻撃も可能とする。
もっとも、同時に掴まれた手を外すのは不完全に終わった。威力充分の投げ技は阻止できても、力任せに投げ捨てられてしまった。
互いに痛みが引くのを待ってから、ゆったりと構え直して、再び相対する。
「なー、おっちゃん」
「なんだ」
どちらも本気ではない。間を空け、六割ほどの力で突きや蹴りを繰り出しながら会話する。
「なんであたしに付き合ってくれてんの?」
「……なんとなくだ」
「そか」
南十星はそれで話を終わらせたつもりだが、オルグはあまりにいい加減な答えとでも思ったか。迷う間を置いて話を続ける。
「……ナジェージダの場合、剣はまだしも、徒手格闘は素直すぎる」
「そーかなぁ? 組手でワケわからんうちに殴られたりすっけど」
「システマがそういう技だからだろう」
ナージャが修めるロシア軍隊格闘術は、戦闘技術なのは間違いないが、格闘術とは呼びがたい部分がある。サバイバル技術と考えたほうが理解しやすいか。
特定の型や技と呼べるものはないのに、徹底的に脱力した状態から多才な攻撃を繰り出す。どんな相手にも、どんな状況にも対応し、戦法を変えられえる強みを持つ。
反面、実践的――たまたま持っていた道具、近くに転がっていた物を武器として使い、生き残る戦い方が想定されているため、徒手空拳の動きは限られている。
「やっぱナージャ姉は、剣重視してっからね。当人的には素手は自衛できりゃ充分なんじゃね?」
「なのだろうな。まぁ、それは構わぬのだが……面白くない」
オルグが腰を入れたストレートを放つ。
「堤南十星……汝の技術は、殺人拳だ」
体をひねり、胸前で突きを通過させた南十星は、同時に上段回し蹴りを繰り出す。
簡単に腕でガードされてしまったので、軸足で跳び、回し蹴りの勢いで体を回転させて、二段目の旋風脚に繋げる。
間合いを詰めようとしたオルグの出鼻は挫けたが、仰け反って避けられた。
「そりゃそーっしょ。実際殺す・殺さないはさておいて、殺せる技術が必要だったから、これまでやってきたんだし」
実の両親も義両親も死別してしまい、オーストラリアの伯父の下に旅立つ際、義妹を守るために兄は国家の犠牲になった。
その恩を返すためには、軍事とは無関係の一般人として生きてきた彼女では、格闘技術を磨くしかなかった。
「しかし完成はされていない……危うい」
「そりゃね。自己流だし」
「そうではない。完全な殺人拳だ」
「殺人鬼になりたいわけじゃないよ? だけどあたしの目的のために、大量殺戮しなきゃいけない時が来たら、あたしはやるつもりで技を磨いてきた」
殺される覚悟も、殺す覚悟も、最初から持っているつもり。
でなければ、日本に帰ってきていない。
「でなに? 人を活かす拳にしろとかってセッキョー?」
「言って聞くと思っておらぬ」
「なら、殺人鬼になる前に、あたしを止めようっての?」
「ふむ……」
いつしか口が先になって手足が止まっていたが、オルグはファイティングポーズを完全解除し、顎を撫でる。
「それよりも、見たいのであろうな」
「なにを?」
「今のままの汝がどこに行きつき、どうなるのか」
「だからあの時、あたしらと戦わなかったわけ?」
先日の部活先で、罠を食い破った南十星とナージャは、市ヶ谷とオルグに邂逅した。
だが本格的な戦闘はなく、彼らは去った。機関銃での掃射や焼夷ロケット弾と、全くの手出しがなかったわけではないが、それ以上はなかった。
なんのために顔出ししたのか、ナージャとも部会でも話したが、結局はオルグたちの目的はわからなかった。
「汝の最高の技は?」
オルグは是とも否とも答えなかった。戦うことになるなら同じなので、南十星も返答にこだわることなく問いに返す。
「んー? 威力ならプロレス技だろうけど、おっちゃん相手にゃ無理だし。技術的な意味なら大振りの蹴りかなぁ? やっぱ当てんのムズいし」
「勁はどこまで使える?」
オルグに形意拳の型稽古を見られたのだから、やはり誤魔化しは無意味だった。
後ろ回し蹴りや飛び蹴りなどは、当てるのが難しく技術が必要なのは事実だ。しかし避けられたら大きな隙になる魅せ技など、最初から狙って使うものではない。命を賭けた実戦ともなれば尚更。
実用範囲内となれば、発勁が南十星が使える最高技術と言える。
「分勁・零勁までは無理だけど、寸勁はできるくらい」
格闘未経験者に『勁』という概念を説明するのは、非常に難しい。だから気功といったオカルトとよく一緒くたにされる。
要は効率的かつ理想的な体の使い方で、十全の力を発揮し相手に伝える技術で、スポーツ科学で研究できることだ。ただ腕を突き出すだけよりも、腰を入れて放つボクシングのストレートが速く重いのは想像できよう。そういう打撃は『体重が乗っている』といった言い方をする。言うなればそれが勁だ。
ただし中国武術の場合、流派で原理が全く異なるため複雑で、短打の拳法となると見た目わかりにくい。寸の動きで板や瓦を割るのはまだ簡単でわかりやすく、達人ともなれば分の身じろぎやゼロ距離密着状態から相手を吹き飛ばす。
「ま、あたしの戦い方には、役に立たないけどさ」
無手では大事だが、《魔法》を併用した南十星の次世代白兵戦闘には、あまり意味をなさない。手足が届かなくても熱力学推進で衝撃波を放てば、あるいは触れる必要がある《魔法》も接触すれば効果が発揮されるのだから。手足を伸ばすスピードはともかく、威力は必要ない。
「そーゆーおっちゃんもどーなのさ? 剣とコマンド・サンボだと、あんま相性よくないじゃん」
剣道ではなく剣術、それも古式の流派ならば、太刀が使えない時にも戦う想定の技がある。
しかし脇差・短刀などを用いた組討、素手でも打撃技で、取っ組み合いは捕手術・相撲など、戦場の技とは異なる形で発展した傾向がある。武芸十八般に含まれるが、武士はやはり武器を用いて戦う者、といった見方が窺い知れる。
オルグが修める剣術・初実剣理方一流は、甲冑を着けた状態での抜刀術がある珍しい剣術だ。常在戦場の気概を感じるが、やはり柔の技まではカバーしていないし、活かすのは難しかろう。
「おっちゃんも半分日本人らしーけど、カタナ振り回さなきゃなんねー理由でもあんの?」
そもそも現代軍事において刀剣での戦闘術を学ぶなど、精神修行以上の役割はないと言っていい。
もちろん趣味として修得しても不思議はないが、訓練によって余計なものを削ぎ落とし研ぎ澄ます、特殊部隊のリーダーにまでなった男が持つ技術としては、不適当に感じられなくもない。
「つまらぬ感傷のようなものだ……」
コマンド・サンボの時間は終わりらしい。オルグは背を向け、壁に掛けられている竹刀を手に取る。詳しく話す気はないらしい。
「だったらさ。なんでおっちゃんの手の内、あたしに見せてくれんのさ?」
竹刀に対応し、南十星は腕を交差させるように肘を突き出す。
「今度はシラットか……汝、本当になんでもありだな」
東南アジアの伝統的武術だが、世界各国の警察や軍隊の近接格闘術に取り入れられている。加えて特徴的な防御姿勢なので、オルグにはひと目で見破られた。
彼が手の内を見せる意図も、話すつもりはないらしい。
剣と拳、違いはあれど、同じく武術を志す者同士なら、技で感じ取れということか。
『――年度学院祭は、これにて終了します』
だがそこで、終わりを告げる校内放送が鳴り響く。




