085_0090【短編】 イヌのきもち おとめのきもちⅩ~シバ・ドリル~
●柴ドリル(Shiba drill)
柴犬が首や頭をブルブルと震わせる瞬間を撮影したもの、それをSNSに投稿した際に用いられるハッシュタグ。
他の犬種では『ドリル』と区別する場合もあれば、やっぱり『柴ドリル』の場合もある。
つつがなく……と称するには問題起こりすぎだが、マイリー・シチュワートのライブリハーサルは終了した。
犯人を直接見た関係者には緘口令が敷かれたため、世間的にはちょっと暴走したファンが警察のお世話になったレベルの、有名人にありそうな騒動ぐらいに抑えられている。
現場の京セラドーム大阪では警察と散々に揉めたが、明日のライブは決行する。東京公演も失敗した以上、邪魔があっても成功させるしかない。
最高責任者であるマイリーがそう主張したからには、関係者はその方針に沿って動くしかない。
「疲れた……」
そのため十路は、ずっと護衛チームと打ち合わせをしていた。休憩時間も挟まず、食事も打ち合わせしながらで。
よって明日に備えてホテルの客室に入ったのは、深夜に程近い時刻になった。
ふたりというかひとりと一頭が入ったのは、リハーサル出発までマイリーが使っていた客室だ。狙撃犯が掴まったことで、ひと通りの調査が終われば、事件現場保全は解除されている。とはいえ床には弾痕が残り、断熱複層ガラスはすぐに交換できないためガムテームが応急処置がなされている。
だからなのか、明日早朝まで休憩にこの部屋を使うことが許されてた。養生されていて、隙間風が吹き込むこともないので、見た目はともかく一晩の生活に支障はない。
ちなみに、フロア丸ごと貸しきられているため、マイリーは他の部屋に移動している。護衛たちには客室が割り当てられるわけではないが、空いている部屋は護衛チームの面々も交代で仮眠室として使っている。
念のため、大型犬は電磁波を可視化する目で見渡したが、不審なレベルのものはない。
『……盗聴器や隠しカメラはないみたいですね』
「このクラスの客室は、コンクリートマイクでも盗聴は難しいから、普通に話しても問題ない」
盗聴対策だろう。そうは言いながらも、十路は見もしないテレビをつけて音量を上げる。
「これで朝までは、人間に戻って大丈夫だ」
そして大型犬のハーネスが外された。
(かゆいぃ!)
締め付けが外され血行がよくなり、背中や腋がムズムズする。でも骨格の構造上、前肢が届かない。
仕方ないので後肢で掻く。それでも満足できないので、床を転がりこすりつける。すれば毛並みが乱れ、これがまた落ち着かない。頭だけでなく体をブルブル振って誤魔化す。
学生服のジャケットを脱ぎながら見ていた十路が、しみじみと漏らす。
「すっかりイヌ化してるな……」
『仕方ないんです!』
人外である自覚はある。だがこんな風に人間としてのアイデンティティを疑われたくない。
「それで、メシどうする?」
『ペットフードは遠慮します』
「わかっとるわ。外で買ってくるから、なに食うかって話だ」
ちなみに十路も夕食を摂っていない。護衛チームは打ち合わせしながら、誰かが買って来たファストフード店のハンバーガーを食べていたが、彼は手をつけなかった。近くに敵の存在が予想されるため、毒や薬を警戒するのもある種当然だ。
『正直、なんでもいい気分なので、お任せします……』
献立を決める際、これが一番面倒な回答だとわかっている。樹里も家事をしているから、つばめに訊いてコレ返されたらイラッとする。『なに食べたい?』という気軽な質問には、『冷蔵庫の中身とスーパーの特売と旬と栄養のバランスを考慮し、尚且つ文句言わずに食べられて、あと大事なのは自分でも作れる料理の中で、食べたいものを考えて』という、他人に察しろというのは無理無茶無謀な深慮が省略されているのだ。今回の場合は食材や献立よりも、時間・場所の都合か。
ともあれ、大型犬はいい加減に頼み、バスルームへと入った。
△▼△▼△▼△▼
「ふへぇ……」
人間に戻って入浴する樹里は、口元まで湯に浸かり、ブクブク泡立たせ、思う。
(変身してるとはいえ、ハダカで歩くのに抵抗なくなってきてる自分が怖い……)
恥じらいをなくしたら、女として終わりではなかろうか。姉や同居人の有様を思い出してしまう。
イヌ化している間は、体重はむしろ人間時より増えているが、肉体を圧縮しているような感覚だ。湯船で手足を伸ばし、強張った筋肉を揉みほぐしながら、扉の向こうでゴソゴソした音がするのをボンヤリ聞いていた。
「悪い」
「いきなりなんですかぁぁぁぁっ!?」
なので素っ裸の十路が浴室に飛び込んできたのには、飛びあがる勢いで驚いた。
目線を逸らすためにも体を隠すためにも、樹里は慌てて反転する。羞恥心はまだまだガッツリ存在した。
「デカい声出すな」
十路の声音は真剣で、伊達や酔狂や性欲で突入してきたわけではないらしい。
「出ようとしたらマイリーが来た」
「それでなんで……!」
「全然濡れていない俺が対応して、俺以外が風呂に入ってたら、怪しまれるだろ」
背中を向けても、常時稼動している樹里の脳内センサーは、十路の動作を脳内に克明に描く。
乱暴に頭からシャワーを浴びる十路に、『そこまで気を遣うか?』とちょっと思わなくもない、情報漏えいへの対応以外を感じることができない。お互い裸で浴室にいるのに、ドキドキ感など欠片もなさそう。やはり乱暴に水気を払うと、樹里には一瞥もくれず出ていった。
(や? わかってますけどね? 情報隠蔽が優先ってのは重々。だけど私、女と思われてない気がするのは、気のせいでしょうか……?)
やはり胸なのか。バスト八〇の壁を突破しないとダメなのか。十路を満足させるおっぱいではないのか。南十星が言うように棒状の物体を挟めないから? Cカップでも寄せればなんとか谷間作れるが足りない?
複雑な乙女心と被害妄想で、しばし胸に手を置いて愕然としていたが、いつまでも落ち込んでいられない。十路が風呂に入り、ついでにイヌも洗っていた体裁は整えられたが、イヌ単体でいつまでも風呂に入っているのもどうなのか。
樹里は湯船で再度イヌに変身し、体を振って水滴を飛ばし、風呂から上がる。
「Why didn't you catch it?(なんで捕まえなかったの?)」
「impossible for Hollywood NINJA(忍者どころかNINJA相手に無理だ)」
「Then I should have killed it?(なら殺しちゃえばよかったじゃない)」
「Ask the killer.(俺の仕事じゃない)」
湿ってペッタリした毛皮でバスルームを出ると、バスローブを着た十路がやや感情が乗った声を吐き出していた。
背後でオロオロしているマネージャー氏を引き連れて、マイリーはどうやら昼間の働き、それも不審者を取り逃がした件で文句を言いに来たらしい。随分と物騒な文句だが。
昼間の襲撃者が支援部関係者であったことは、当然伏せてある。しかし倒れていた襲撃者だけでなく、他にも襲撃者が存在したこと自体は、運営会社スタッフにも見られた以上、隠し立ては不可能だった。
そのため護衛チームや事態は、複雑な見解をしている。二勢力の襲撃者がいて、お互い競うというか潰し合いながらマイリーを狙っているという、ナージャに会うまでの十路たちと同じ混乱に陥っていた。だからナージャに直接相対した十路から情報を得ようとして、打ち合わせが長引いた経緯もある。
「I am a Miley situwart! (わたしはマイリー・シチュワートよ!?)
「And...? It's all the same for me. 『Diva of the world』 and housewives.(だから? 俺にとっちゃ、世界の歌姫だろうとご家庭の主婦だろうと、護衛対象って意味じゃ同じだ)」
人間たちが真面目に話しているのに、ゴールデン・レトリーバーはどこ吹く風。足元をすり抜けて室内に入り匂いを嗅いでいたテンプラくんは、大型犬を見つけて舌を出した満面の笑みで近づいてくる。
大型犬はそれをノシッと前肢で押さえ込む。人間として遊び相手を務めるならまだしも、イヌ状態で相手する気はない。まだ毛皮が濡れているし、人間基準だとまた変なことが起きそうな気がするし、また張り飛ばす破目になるのは避けたい。
「If you're also a professional, don't get in the way of my work.(アンタもプロなら、プロの仕事の邪魔しないでくれ)」
話を打ち切るためだろう。十路は首にかけていたバスタオルを被せてきた。ワシャワシャされながら大型犬は思う。
(絶対敵作るよねー……)
彼女の身はなんとしても守るから、自分の仕事をしろ。
要はそういうことなのだが、そう理解するための情報はカットされ、なにより悪感情を向けられる言い方だ。
いや、その悪感情も、もしかしたら十路の思惑なのかもしれない。一般人の常識範囲内では、未然に防がれたとはいえ、何度も殺されかけて平然としているほうがおかしい。怒りで怯えを焼くように仕向けているとも予想できる。
「Lady...」
怒りに震えるマイリーは、尚もまくし立てようとした様子だったが、困り顔で同行し見守っていたマネージャー氏が口を挟む。
「Let's go. Tomorrow's makeup and dress meetings remain(行きましょう。明日のメイクと衣装の打ち合わせが残っています)」
マイリーの眉間には、皺が刻まれている。だが実際責任者としての仕事があるのだろう。テンプラくんを呼び寄せ、舌打ちを残しながら去っていった。
『わざわざ文句言いに来ただけですか……』
「ヒマじゃなかろうに……それでライブ失敗して、俺に文句言われても困るぞ」
『……ライブ演出の失敗でケガが発生した場合とかは?』
「当人と大道具の責任だな。演説中の大統領じゃあるまいし、護衛までステージに上がって庇えるわけないし、しかも人為的じゃなくて事故となれば尚更」
マイリーが去ってもなぜかタオルでワシャワシャされ続けていたが、話の区切りでようやく解放された。
そこでまたインターフォンが鳴った。まだマイリーが文句言い足りないのかと思いきや、十路が対応する女性の声は別人だった。
『ルームサービスです』
「頼んでませんが?」
『ペットのお食事のご用意は大変ではないでしょうか? ご用意させていただきました』
申し出ならともかく、押し売りのような真似を、高級ホテルの従業員がやるとは思えない。
だからこそ予感したのか、十路は扉を開く。
すると制服を着た女性従業員が、覆いを乗せたワゴンと共に入ってくる。さすがに食べ物の匂いが強いため、大型犬の鼻でも人物の匂いは特定できない。でも正体はわかる。
「しばらくこの部屋使えます?」
どちらかというと鋭い人相なのに、女性従業員は食事をテーブルに移すと、柔和なソプラノボイスで確認する。
「五時間ある」
「なら、着替えて出直しますね」
食事を届けに来ただけなのに、客室に長々といれば、誰かに不審がられてしまう。だから従業員らしくない顔見知りの言葉を残して、すぐに出て行った。
『相変わらずナージャ先輩の変装、すごいですね……』
「つっても、わかる人間にはわかるんだが……なんでホテル内で怪しまれず動けてんだか」
京セラドーム大阪で去り際、言い残していたので、ナージャが来るのはわかりきっていた。
とはいえ、こんな方法で接近してくるとは思っていなかった。従業員同士なら顔見知りで、誰かに化けたらバレそうだし、全くの別人に成りすましても不審に思われるだろうに。どうやってスタッフに料理させて、ここまで運ぶことができたのか。
「まぁ、外に出ずとも、警戒せずに飯食えるのはありがたい」
『だけどこれ、料金どうなってるんでしょう……? 高級ホテルのルームサービスなんて、絶対お高いでしょう?』
「請求されても経費で落ちる。部活中だし」
従業員が持ってきたのは、サンドイッチやハンバーガーだが、ファストフードやコンビニのものと違う。挟まれている具材も分厚い、ちゃんとしたレストランで作られた、腹持ちもいい食事だった。
さっそくフライドポテトを摘まみながら、十路が確かめる。
「予想外の方法でナージャが来たけど、木次は格好どうするんだ?」
『どーなんでしょうね……ナージャ先輩、つばめ先生から私の部活参加も聞いてるんですかね?』
「仮に聞いてて人間の姿で会ったら、イヌの姿見られてるし、正体バレるぞ?」
『うぅ、まだ誤魔化せるイヌのままでいます……』
そんなことを話していたら、バルコニーに黒い影が降り立った。着替えるだけとはいえ早い。
『来ましたよー』
夜間迷彩の長袖防刃シャツに、下半身のラインを浮き立たせるパンツ。その上からタクティカルベストをつけ、左脚には《魔法使いの杖》を入れたホルスターを装着している。裏仕事をする際の格好で、外壁を《魔法》で越えてナージャが登場した。
人知れず夜闇を移動するため、服の中に入れていた白金の長い髪を出してなでつけながら、室内に入ったナージャは、早速お座りしている大型犬に目を留める。
「それで? このワンコ様、前に十路くんが預かってた子ですよね? なんでいるんです?」
「今回の部活に必要だから借りた」
「そういえばこの子の、名前聞いてませんでしたね」
「ナカガワマックスJPイセシマ・キングジョージ五世。略してナマイキ」
しゃがんだナージャは垂れ目をニヘラと三日月にして、十路の誤魔化しを完全無視する。
「ふーん。ジュリちゃんって言うんですねー」
『正体わかってるなら、まどろっこしい真似しないでください……』
「《ヘミテオス》の権能を見せて、しかもその姿も見るの二度目ですよ? ついでに無線使ってとはいえ十路くんと話してましたよね。バレてないって考えるの危ないですよ」
バレるまで大型犬の正体を見破れなかった十路が、そっと目を逸らしたのを視界の隅に確認した。
ナージャは口角を上げたネコ科の笑みを浮かべ、目を輝かせる。
「つまり木次さんは今日ずっと牝犬プレイしてたってことですね!?」
『言わないでください! 考えないようにしてるんですから!』
「えー? 性別メスのイヌに変身してたのかって訊いただけですよー? 木次さんはなーに変態チックな想像したんですかー?」
イジりに付き合う気はないし、バレてるなら隠しても今更だと、大型犬はバスルームに戻ってバスローブを身にまとう。ノーブラノーパンだが、この際気にも留めない。
再びリビングに戻ると、十路とナージャは食事をつまみながら、既に情報交換を行っていた。
「ナージャはライブ当日の行動、理事長から指示受けてるか?」
「いえ? 特には。なので今までと同じように動くつもりでした」
「なら俺の指揮下に入ってくれ。理事長への報告込みで」
「十路くんが交渉してくださいよ」
「俺よりもナージャがフリーで動けるから、頼みたいんだが。なにか追加の指示があれば、それ含めて」
「明日事が動きますかね」
「日本国内でマイリーを仕留めたければ、嫌でも動くだろ。でなければ、これだけ失敗してて襲撃を繰り返す理由がない」
「日本でなければいけない理由があるんでしょうか?」
「アメリカだと不都合って理由が一番だろう」
「……わたしのこと、バレてませんよね?」
「正体はともかく存在はバレてる。京セラドームで関係者に見られてるから、さすがに隠せない」
「なら、相手が《魔法使い》をどの程度と想定してるか、ですね」
「俺たちも《魔法》を見せてないから、過小評価も過大評価も、どっちも考えられる」
「んー……騙し合いは理事長先生に相談して、お任せしましょう」
「じゃあ当面で、理事長に相談しても変わらない部分の相談なんだが」
「十路くんはどう動きます?」
「俺たちは明日、不審物捜索で一足早く会場入りするし、その後入場検査も担当するから、切り離される」
「ふぅん……マイリーさんが乗る車って決まってます?」
「お決まりのセンチュリー。マネージャーの運転でイヌと一緒に乗ってる。なんだ? 俺たちがいない間、フォローしてくれるのか?」
「そうせざるをえないでしょう?」
「ならプラスもうひとつ、今夜中にナージャに頼みたいことがある。疑わしいヤツのあぶり出しなんだが、そっちでなにか掴んでないのか?」
「ん~……遠巻きに警戒しないといけなかったので、内部事情はあまり調べる余裕なかったです。なにかあるとすれば……マイリーさんがライブやらないといけない理由ですかね?」
「ん? 金の問題とか、テロ組織にケンカ売ってる反骨精神以外に?」
「はい。というか、護衛に参加してて、十路くんたちは聞いてないんですか?」
「半部外者の遊撃やってるから、知らない情報はあると思う。それで、なんだ?」
「ライブ中に、サプライズの新曲発表をやるみたいですよ。わたしは偶然知りましたけど、かなりシークレットな情報みたいです」
「イベントスケジュールの空白はそれか……フォーに調査頼んだほうがいいかもしれんな」
「まぁ、それも理事長先生についでで相談しましょう。それで、わたしは誰になにをすればいいんです?」
「トラッカー持ってるか?」
「今回は持ってきてないですよ。電波法に引っかかりますし」
「なら、連中のスマホにアプリ仕込めるか?」
「さすがにちょっと骨ですね」
「最低でも責任者ふたり。できれば保険でマイリーにも仕掛けたい」
「ん~……警戒してるのは移動時間ですか?」
「ナージャが宿泊地とライブ会場で暗殺阻止してるからな。だから次狙うとすれば移動中かな、と」
「ん゛~~~~……使いたくない手段を使わなきゃいけないです……? トラッカー代わりにもなりますけど……」
十路は元特殊作戦要員、ナージャは元非合法諜報員だ。片や破壊工作メイン、片や諜報活動メインと異なるが、ふたりとも似たような裏仕事をしていた。だから改めて齟齬を確かめもせず、言葉を省いても通じ合い、話がトントン拍子に進んでいる。
「むぅ……」
傍で聞いてて理解できない樹里には、なんだか面白くない。
それに気づいたか、十路が簡単に説明した。
「俺たちの行動は、基本変わらない。だけど事が起こると踏んでるから、その時にすぐ動ける準備をする」
ステーキが挟まれたサンドイッチを飲み込んで、ナージャが口を挟む。
「まぁ、十路くんたちと合流できたのは、わたしとしてもよかったです。なにせ見せ掛けの事件を起こすのに、誰かに中らないかビクビクしながら撃ってましたから、もう御免です」
「をい。ヘッポコ剣士。ならこの部屋を狙撃した時、俺たちに中ったかもしれないってことかよ」
「だからわたしは剣士やってるんです」
手を叩いてパン屑を払い、ナージャは立ち上がる。
「あ。ひと仕事終わったら、わたしも一晩、ここに泊めてもらってもいいです?」
「ベッドルーム三つもあるから別に構わんが、朝早いぞ。それと証拠残すなよ? DNAレベルまでは求めんけど、ナージャの髪でも残ってたら怪しまれる」
「憧れのレジデンスぅ~♪ 仮眠とはいえ最高の寝床のために、頑張っちゃいますよ~」
あれで必要な情報交換は終わったのか。ナージャは目出し帽で顔と髪を隠し、出る気配を見せる。
「とりあえず、やるだけのことはやってみます。なので十路くんと木次さんは、遠慮なく乳繰り合っててください」
「ちち――!?」
「高級ホテルで一緒に一夜を過ごすんですよ? 乙女が夢見る初体験のシチュエーションじゃないです?」
今度のイジりは十路が止めた。ただ単に効率を優先させただけかもしれないが。
「三二階から蹴り落とされたくなければ、とっとと行ってこい」
「はいはーい」
ナージャは素直に《魔法使いの杖》を操作しながらベランダに出て、柵を乗り越え飛び降りた。《魔法》を使えばどうとでもなるとはいえ、動作には全く躊躇がない。
ふたりが取り残され、気まずい空気が流れる。いや十路の平坦な声から察するに、そう感じるのは樹里だけか。
「乳繰り合わんぞ。明日早いんだし」
「わかってますよ!?」
早くなかったら、乳繰り合っていたのだろうか。
疑問に思ったものの、肯定されたらどう返していいかわからないため、樹里は口にはしなかった。




