085_0040【短編】 イヌのきもち おとめのきもちⅤ~オープン・ビッチ~
●オープン・ビッチ(Open bitch)
繁殖可能な雌犬のこと。
ビッチを変な意味に捉えてはならない。
そして当日の朝。JR大阪駅の多目的トイレにて。
『これで過ごせと……』
偽造の鑑札と防刃ベストを兼ねたハーネスを着けられた大型犬は、愕然とした。
「イヌ用の服って、市販品はほとんど小型犬サイズだった。オーダーメイドなんて時間ないし、これくらいしか選択肢なかった」
ヘッドセットを着けながら十路が返す。さすがにイヌに変身したまま人前でしゃべるわけにいかないので、樹里は無線電波を飛ばすことになる。
ちなみに平日かつ部活動なので、彼は学生服を着用している。
『肝心な部分が全然隠れてないですけど!? 特に下!?』
「ないのが普通」
所詮犬畜生はその程度の扱いなのか。アダムとイブも知恵の実を食べるまでイチジクの葉で隠してなかったくらいだ。知性なき獣は下半身丸出しがお似合いという神からのメッセージか。
いやイヌの下半身を覆ったら、排泄が不便になる。当人というか当犬が気に入っているならそれでいいが、そもそもペットに服を着せるのは人間のエゴだ。
「イヌ用のオムツがあるらしいから、買ってこようか?」
『…………』
うら若き乙女になんと酷な提案なのかと大型犬は嘆くが、残念ながらペット業界は、人間が動物化することまで考慮して製品開発していない。大型犬は泣く泣く諦めて、下半身を露出することになった。
「身も蓋もないこと言えば 今の木次を見たところで、誰も気にせんぞ」
『や、わかってますけどぉ……』
「というか、既に一度、イヌのふりして出てきただろ」
『それもわかってますけどぉ……せめて先輩には複雑なイヌ心をわかってほしいんです!』
「ムチャ言うな」
無情だった。乙女心の理解も怪しそうなこの男に、動物心理を求めるのは最初から間違っているが。
「しばらくこれに入って、移動中に折り合いつけるか?」
『う゛~……』
どこかから借りてきた、ペット用キャリーケージを見せられたが、首を振る。
盲導犬や聴導犬でなければ、公共の場にペット連れで入れないため、必要な処置だとはわかっている。でもやはり進んで入りたいものではない。
ふたり分の空間制御コンテナを重ね置いて、ケージをキャリーバッグのように転がしながら、十路はリードを掴んで大阪の街を歩き始めた。仕方ないので大型犬もついていく。
「……俺たち、すげーイケナイことしてんだよな」
『言わないでください! 考えないようにしてるんですから!』
「でもちっともエロくない」
『エロかったら大問題です!』
実情 (主観的事実)は、日中の主要駅周辺で下半身丸出しの少女を四足歩行させて、リードで引き連れている変態行為。刑法一七四条違反・公然猥褻は議論の余地なし。
でも実状 (客観的事実)は、イヌのお散歩でしかない。
(それにしても……前に変身したのは休みの学校だったから、あんまり気にならなかったけど――)
大型犬は別のことを考えて、変態行為 (主観)を思考の隅に追いやる。
(イヌで街中歩くの怖っ!)
以前幼児化した時にも体験したが、大人サイズで設計された世界は、小さくなると恐怖を覚える。
ただでさえ視点が低い。誰かとすれ違う時に膝蹴りを食らう錯覚を覚える。
大型車でなければ人間の視線よりも車高が低いが、イヌだとボンネットやタイヤの高さ。しかもマフラーも近くて、排気ガスの匂いがダイレクトに襲いかかる。
「わんこだー」
「!?」
信号待ちをしていたら、母親に手を引かれた子供に、いきなり頭を触られた。
子供に悪気はないだろうが、かなり心臓に悪い。人間同士でも、見知らぬ者にいきなり頭を触られたら、驚くだろう。引っぱたいて振り払うかもしれない。
「勝手に触るの、やめてもらえませんか?」
故に散歩中のイヌに触りたい時は、飼い主に確認するのは絶対条件。許可を得た後、しゃがんでイヌの視界に手を入れて触れることを知らしめて、下から触るのが鉄則だ。
「グルウ゛ゥゥ……」
でないとイヌも自己防衛するので、噛まれる可能性もある。
躾られた大人しいイヌでも、『無礼』を働かれればその限りではない。唸られたり吼えられるのは、事故が起きる前に手を引っ込められる分、まだマシと言える。そんなことを知らない親子連れに悪態を吐かれたが。
十路たちにも非がある。大型犬を人通りの多い場所で連れ歩くのは、マナー違反とされる。中身は常識ある女子高生なので、無闇に暴れたりその辺にマーキングしないが、知らない人間には恐怖を覚える者もいる猛獣未満なのだから。
『自分で言い出したことを、早々に覆すのもアレですけど……挫けそうです』
「早く合流場所行こう。人出が限られてる分、多少はマシだろ」
『関係者に会う前に、ホテルの中で変身すればよかったんじゃ……?』
「無理だ。こんな目立つデカいイヌがいきなり登場したら、さすがに誰かが怪しむ」
そんなことを小声と無線でぼやきながら、高層ビルの狭間を歩いて数分。梅田貨物駅跡地の再開発エリアに建つビルに到着した。
下層は商業施設のため、少々遠慮しながらエレベーターに乗り込み、ホテル入居部最下層のフロントへと赴く。
『狭いですぅ……』
「持ち運びできるヤツは、これが一番大きいサイズだったから、我慢してくれ」
ビルに入る前に移動用ケージに入ったものの、さすがにペット連れでの入場はフロントで咎められた。
だが十路が支援部の身分証明書を出して説明すれば、つばめが事前に話を通しているため、それ以上はない。
案内のベルボーイと共にエレベーターに乗って上層へ。いわゆるエグゼクティブフロアと呼ばれる階層か、ここにも小規模ながら高級さが比較にならないラウンジがある。屯していた外国人男性たちが、十路の到着で立ち上がって警戒する。
どうやらフロア全体が貸し切られているのだろう。気にしていない十路が専用フロントでまた身分証明書を出して話を通すと、身体検査は受けることになる。空間制御コンテナの中身で多少揉めたが、他人には開けることはできず、《魔法使い》の機密事項なので、強引でもスルーさせた。
やや不足ながら十路の安全を確認したら、警備責任者を名乗る外国人男性が、ケージの前にしゃがんで大型犬を覗き込む。
「Why did you bring dog?(なんで犬まで?)」
「We decided necessary. Have you heard about that?(必要と判断したからですが、誰かから聞いていませんか?)」
「Police dog?(警察犬?)」
「No. She is Security dog.(警備犬です)」
警察業務を手伝うイヌは、一般には全部『警察犬』と呼ばれるが、厳密には鑑識の業務に携わる使役犬を呼ぶ。
しかもほとんどは警察で飼われてはおらず、有事の際に嘱託で出動する一般家庭のペットだ。
他に警視庁警備部と千葉県警成田空港警備隊にしか所属していない警察犬がいて、こちらは『警備犬』と呼ばれる。
更に警察だけでなく、自衛隊で同じような業務に従事する使役犬も『警備犬』と呼ばれる。
そして実際に働いているシチュエーションによっては『麻薬探知犬』『爆発物探知犬』『災害救助犬』とも呼ばれる。
このように日本語だと微妙に面倒くさいのだが、とにかく警察とは直接関係ないが、同等の訓練を積んだイヌという設定を十路は短く伝えた。
「She is smart, can do math.(彼女は賢いですよ。数学もできます)」
十路は近くにあったメモにペンを走らせ、大型犬に見せてくる。
――lim(x→0)x^x=?
「…………」
普通は高校一年生が数学Ⅲを学んでいるはずないが、高等数学必須の《魔法使い》なら知ってて当然。極限や対数やロピタルの定理を理解していれば、暗算すら必要ない。
なので大型犬は、答えがわからず言葉を詰まらせたのではない。
『あのー、先輩? 答えが一だからワンって鳴くの、英語圏でも通用するんですか?』
「あ」
イヌの鳴き声を英語表記すると『bowwow』『ruffruff』になる。言語や文化の違いというより耳が違う。日本語の母音はあいうえおの五音だけなのに、英語はその五倍以上。『あ』に該当する音だけでも四種類ある。それを聞き分ける耳なのだから、欧米人は『ワン』と認識できない。
ならばとケージの扉を勝手に開き、首を伸ばして十路が持つペンを口で奪い、大型犬はメモ用紙に書き加えてみた。
でも『ほらやっぱりダメじゃん』『なにがしたいんだ?』的な白けた空気が流れる。線ではなくアラビア数字の一だと認識されるかも怪しいし、やはり問題の正解がわかる人間がいない様子だった。
「《魔法使い》のギャグは高尚すぎたか……」
『や。多分違います』
『先輩の冗談は笑えません』『余計なことしなくていいです』とズバリ言ってしまうのは、心根優しい彼女にはできなかった。




