085_0000【短編】 イヌのきもち おとめのきもちⅠ~カーミング・シグナル~
●カーミング・シグナル (calming signal)
あくび、よそ見、尻尾を振る、体を振る、立ち止まるなど、イヌの仕草の総称。
特に自身のストレス軽減のための仕草、相手に敵意がないことを示すボディーランゲージをこう呼ぶ。動物行動学的には、非音声だが言語として取り扱う。
ロックが解除される音に続き、扉が開く音がした。
靴を脱いでいるであろうゴソゴソした音と、フローリングを踏む足音に、明かりが洩れていることへの不審は感じられない。
そうして自室に入ってきた堤十路は。
「…………木次。なにやってる?」
動きを止め、ちょっと怯んだ声をかけてきた。
当然の反応だろう。部屋の真ん中で学生服を着たドデカいイヌが、グデ~っと伸びて転がっていれば。
たとえ彼が、木次樹里が普通の女子高生ではなく、肉体で既存どころか絶滅種の生物を再現できると知っていても、いきなりこんな姿を見せられたら引くに違いない。
『なんでもないですぅ……ちょっとだけそっとしておいてください……』
イヌの声帯ではしゃべれないので、《魔法》で音声データを作って出力したが、自然と涙声になってしまった。
大型犬が首の角度を変えてチラリと見上げると、言葉どおりにすることにしたのか、十路は学生鞄を放って着替え始めた。
なので『放置するな~。構え~』と長い尻尾で床をペシペシ叩く。男性を困らせ嫌われる、裏腹な女心だとわかっていても。
「で? どうした?」
本心が伝わったのか、元々そのつもりだったのか。ジャケットとネクタイだけクローゼットにかけた十路は、襟首を掴んで伸びる大型犬をズリズリ引き寄せる。
ベッドにもたれかかって座り込み、大型犬を抱え上げて足に乗せた。
完全にイヌ扱いだが、物理的には当然のこと。十路の膝(腿ではなく)を枕に、遠慮なく胡坐の上でグデ~ンと伸びる。
人間の時にはせいぜい頭を軽く撫でられた程度だが、イヌの今だと十路は結構遠慮なく触れてくる。服と毛皮の上からとはいえ、体を撫でられる感触は存外に悪くなく、このまま彼の手に身を委ねようかとも思った。
でも気になる。
『先輩……さっきから胸ガッツリ触ってるんですけど』
「……俺が触ってるのは腹なんだが」
『私の認識でもお腹ですけど……でも、胸です』
イヌの乳腺は腹部にある。個体差があるので多少上下するが、基本五対一〇個も装備。
動物が腹を見せるのは友好や信頼の証だが、イヌが腹を撫でられて喜ぶとは限らない。飼い主が喜ぶから甘んじて受け入れているという説が有力だ。
しかも人間の感覚だと、胸から下腹部にかけて撫でられる、男女関係でなければ訴えられる立派なセクハラ行為だ。
『イヌが触られて喜ぶツボは、大体首周りです』
「今の姿でレクチャーされると、すごく複雑なんだが……」
置き所に迷った風の十路の手が、大型犬の首の後ろに移動し、耳の付け根から首をくすぐられる。
『やっぱりダメです! ゾワゾワします!』
「どっちだよ」
項は他人に触られることがなく、神経が近くを走っていて敏感なため、女性が男性に触られたくない場所ランキング胸・尻に続く第三位。男性が背後から女性を抱きしめ項に唇を這わせたり耳の後ろにキスする、ティーンズラブ作品の表紙に多いっぽい気がするこの構図、現実にやったら肘を叩き込まれるかもしれない。
「んじゃあ、こっちなら?」
『あ゛ー!? そこ絶対ダメです!』
ミニスカートからはみ出る尻尾に触れられたので振り払う。毛並みに逆らう力が働いたので、それだけで肌がゾワつく。
本物のイヌでも厳禁だ。下手したら噛まれる。
常人に置き換えたら、どんな感覚なのかは説明できない。人間には存在しない器官なので。とにかく不快と想像して頂きたい。
「で? どうした?」
下手な場所に触れるのは止め、迷った末に十路は手を自分の首筋に置いて、そもそもの疑問に戻ってきた。
胡坐の中に収まってるからいいかと、樹里も説明する。
『さっき、なっちゃんとここでご飯食べてたんですけど――』




