075_0000 【短編】ファム・ファタールをもう一度Ⅰ ~即死~
闇だった。
ごく普通の生活をしていれば、真の闇を経験した人間は多くはない。部屋を暗幕で閉じようと、どうしても透かして光が入ってくる。街灯が一切ない場所だろうと月や星があり、意外と明るい。
夜と闇は、『暗い』と『真っ暗』は、全くの別物だ。
視覚が人間にとって、どれほど重要なのかを思い知る。
彼はそれを知っている。任務で地下施設に入るなど当たり前、対尋問訓練でも経験した。そして視覚以外の感覚に馴染みある《魔法使い》ともなれば、常人よりも耐久性が高い。
そんな彼でも、こんな不快感は経験したことがない。
呼吸が自然と荒くなる。束縛はないはずなのに体を一切動かすことができない。
知り合いに軽度の暗所恐怖症持ちがいるが、こんな感覚なのだろうか。そんな関係ないことを意識的に考えていないと、パニックになりそうになる。
△▼△▼△▼△▼
「おーい。兄貴ー」
「う……?」
やや舌足らずな声に、沼から這い出るような覚醒を自覚しながら、堤十路は重い瞼を開いた。
すると女性とも少女とも、綺麗とも可愛いとも言い切れない整い方の、中性的な顔と至近距離で見詰め合うことになる。
「どしたの? うなされてたよ?」
従妹にして義妹である、堤南十星が顔を覗き込んでいた。
意識だけでなく、体が重い。それもそのはず、彼女は寝そべる十路の腹に座っていた。
「……とりあえず退け」
「こうなる前に起きるのが兄貴だろーに」
ベッドを降りながら南十星がこぼすとおり、いつもの十路だったら彼女が部屋に入った時点で目覚めている。自衛官時代は非常呼集訓練で叩き起こされ、任務中ともなれば気を張った状態で体を休めていたため、変化を感じたら即座に覚醒する精神と体に鍛えられている、はずだ。
(イカンな……ちょっと『普通の学生生活』に馴染みすぎてる……)
殺伐とした日常からひとまず離れ、とりあえず高校生として暮らし始めて半年以上。生活環境が変わったことで、変化しても不思議はない。
民間の超法規的準軍事組織、総合生活支援部員は、命や身柄をいつ狙われても不思議ない立場にある。いくらミサイル直撃にも耐える強固なマンション暮らしだろうと、平和ボケは危険を覚える。上体を起こした十路は、首筋といつも以上にボサボサな頭をなでた。
「で? なとせ? トレーニングか?」
雨の日だろうと毎朝五時起きしてランニングに出かけるのが、彼女の生活スタイルだ。十路は十路で自主トレしているが、たまに彼を誘いに来るので、同行することもある。
向かいの部屋で生活し、十路の部屋の鍵も持っているが、そこまでプライベートに踏み込みはしない。
なのに彼女がここにいるのは、それくらいしか考えられなかった。
「いや。あたしのカッコー見て、なぜそう思うよ?」
目元をこすり、欠伸で出た涙を拭うと、ようやく視界がハッキリする。
ブラウスの襟元を緑青色のコードタイで飾り、ジャンパースカートにジャケットを重ね、栗色の髪をワンサイドアップにまとめた南十星も、ハッキリ見える。
彼女の格好が意味することを考えて数秒後、十路は目覚まし時計に振り向く。
時刻は八時を過ぎていた。
「ヤバ……」
つまり十路は寝坊し、学校に遅刻しそうだった。
Tシャツ・ボクサーパンツ姿のままベッドを降りると、ハンガーに掛かったままの学生服一式が投げつけられる。
「フダンどーりに起きて、ガッコ行こうとしたら、なーんか兄貴の部屋が気になってさ? 念のため覗いてみたら、まだ寝てんだもん」
制服をパスした南十星はキッチンに消えた。冷蔵庫を開け閉めする音に続き、レンジの開け閉め、なにか調理する音がする。
流し台に熱したフライパンを放り込んだ音の後、手抜きサンドイッチを手に南十星が戻ってくる。十路が身支度を整えている間に、一分もかからず時短メニューを拵えた。
南十星の料理はもう見慣れ始めているが、化学兵器生産者だと思っていた妹が、こうも手際よく料理するのを目の当たりにすると、成長したものだと思ってしまう。
「なに? 疲れてんの?」
「そうかも……変な夢も見たしな」
温めた食パンに具材を挟んで折っただけのサンドイッチをかじり、一緒に渡されたペットボトルのスポーツドリンクで流し込む。早食いは自衛隊員の基本スキル、十路はあっという間に胃に収めてしまう。
「そういやなとせ? レギンスは?」
手を叩いてパン屑を払い、投げ出したままの学生カバンを足で拾いながら問うた。特段の意味はなく、気になったから訊いただけでしかない。
南十星のジャンパースカートは、戦闘時の着用を念頭に置いた特別仕様だ。防弾繊維で作られている上、蹴りを使えるよう深いスリットが入っている。
動けば際どいところまで脚が丸出しになるため、南十星は常にレギンスを穿いているのだが、今日は太ももの素肌を隙間から見せている。
「へ?」
南十星はスカートの前をめくって、大胆に下半身を確かめる。ピロッと無造作にスリットを広げる手つきは、彼女が全く自覚ないことを物語っている。
直後、予想外の光景に十路は固まった。活発な彼女はよく陽に焼けているが、その部分は陽に当たるはずないので、彼女の肌本来の白さが目に飛び込んだ。
レギンスどころか、その下もなかった。
「ぬぉ!? パンツ忘れてた!?」
世間一般では家族でも男が風呂上りにパンツ一丁で家の中をうろついていたら嫌がる年頃だろうに、南十星にそんな素振りはない。あまりにもオープンすぎて、むしろ十路が小言を言う。
そんな南十星も今回ばかりは、さすがに慌てて股間を隠した。
「どうやったら忘れるんだ……」
「いやぁ、あたし寝る時ノーパンだし」
「頼むから女子中学生の自覚を持てよ……」
『さっさと自分の部屋帰れ』の意を込めて、十路はシッシと手を振ると、南十星は素直に踵を返す。
と思いきや、尻を突き出して首だけ振り返る。
「兄貴、もっと見たい?」
イタズラ猫の笑顔で、またもピロッとスカートの後ろをめくる。
秋も深まり日焼けの境が曖昧になった脚どころか、引き締まった臀部も丸見え。それどころか本来下から覗き込まないと見えない、見てはいけない部分も見えてしまったような気がしなくもないような。
「とっととパンツ穿け!!」
「にはは。はーい」
なにが悲しくて、朝から妹の尻に、対幼児レベルの説教を怒鳴らないとならないのか。
今度こそ南十星が部屋を出ていってから、十路は頭痛を抱えて重いため息を吐いた。もちろん原因は羞恥心皆無なアホの子言動だが、もうひとつ。
「アイツ、まだ生えてなかったのか……」
胸も尻も目立つほど膨らんでおらず、私服なら小学生男児に間違われかねない小柄な体躯に、その危機感は薄々抱いていた。
兄を追うように彼女も神戸に来て以降、押しかけられて一緒に入浴したり、裸を見てしまったこともあるが、ジロジロ見るわけないので初めて知った。
処理してる可能性も考えなくはないが、それより『まだ』の可能性を高く感じてしまう。一四歳なので個人差も充分ありえるが、それでも。
第二次性徴期にあるべき下半身の変化、つまり毛が一切なかったことに、妹の成長が本気で不安になった。
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「こうなりゃサボるっつーのも手か」
「支援部員、普段から部活でよく公休取ってるから、サボるとなに言われるか」
「なら急ごー」
「おう」
修交館学院は山の中ほどにあり、支援部関係者が暮らすマンションはその麓に建つ。登校所要時間は五分ほど。遅刻間際とはいえ、普通に歩いても充分間に合う。ピークは過ぎたとはいえ、通学路の坂を登る学生たちはまだまだいる。
学生カバンを肩に担いで歩き始めると、スクールバッグを背負った南十星が腕を組んでくる。いや抱きついたと言うべきか。普通の少女が同じことをすれば引きずるか足を踏みそうだが、体幹が鍛えられた南十星は歩みを変えずに平然と並ぶ。
「どうかしたか?」
「なんとなくー」
普段しない行動に戸惑った。普通の兄妹なら互いが疎ましくなる年頃でも、南十星は平気でベタついてくるが、人前、しかも歩きながら体を寄せてくることはなかった。
十路が元自衛官だと理解しているから。雨でも傘を使わず、最低限片手は空けておく癖が身についているため、屋外で動きを妨げる真似はしない。
だが今日は。なんのつもりか。
疑問に思ったものの、十路は訊かずに好きにさせた。『らしい』ことはほとんどしてこなかった兄貴なので、こんな小さなワガママくらい、という気持ちになる。
《魔法使い》たちの部活動、総合生活支援部の常として、南十星も学内でも知られた存在だが、同時にブラコンとも知られているので、衆目を気にしても今更だ。
同時に不安にもなるが。十路も男なので、あからさまな好意を寄せられているのは悪い気はしないが、やはり『妹』だ。実妹でなくてもそう認識している。
ブラコンというより捻れた依存をしているのは、やはり将来を不安に思う。
「ねーねー、兄貴ー。週末映画観にいかない?」
「俺、受験生だって知ってるか?」
「わかってるって。息抜きイキヌキ」
香水やコロンをつけているわけでもないのに、連想するシャンプーの香りがショートヘアから鼻に届く。彼女の普段使いは、そこらのドラッグストアで売られている品ではないため、嗅ぎ慣れない匂いですぐわかる。
普段あまり女らしくはない南十星だが、こういうところに女らしさを感じる。
「久しぶりにデートしない? てなおサソイですよ」
「いつぞや、なとせの主演映画観に行った以来か」
オーストラリア在住中の頃は、バイトで稼いだ金でちょくちょく日本に来て、デートと称して十路を駐屯地から連れ出していた。
本来ならば彼女も《魔法使い》なのだから、そんな気軽に海外渡航し、他国の軍事的重要人物同士で会うなど、ありえない。南十星が二重国籍であることが絡んだ、複雑な大人の事情がある。
その二重国籍であることを利用して、《魔法使い》らしい血生臭い現実から遠ざけるために、オーストラリア人として生活させて、十路は自衛官として生きてきた。
それが今やなんの因果か。結局は日本に戻り、共に荒事をやっている。
彼女が普通の女子中学生としての人生を歩ませられなかったことに、十路は兄貴として不甲斐なさを感じてしまう。
「?」
野性的な勘で、そんなことを考えているのを察したのか。南十星は顔を見上げ、視線で『どったの?』と問うてくる。
もちろん十路が本音を素直に口にする、なんてことはしない。
「なとせも『黙ってれば』の類なのにな……と思って」
「黙ってればなにかね? ホレホレ」
ネコ科の笑顔はわかってて訊いている証なので、決して『美少女』とか『可愛い』なんて言葉はかけない。普段でも制御を諦めているアホの子なのに、図に乗るとなにをしでかすかわからないため危機感を抱く。
いや。特徴を列挙すれば、南十星は申し分ない妹キャラのはずなのだ。実は家事パーフェクト、天真爛漫明朗快活、思春期でも兄をウザがるどころかベタつき、なにより美少女。世の『お兄ちゃん』が求める妹キャラのはずだ。
だが『追記・アホの子』の一文で、全部ブチ壊してくれる。
人気を博しても、それは檻の柵越しに見る珍獣的なものであって、お近づきはたまた手を出すのは一考するべき相手だ。
彼女の性根はやはり子虎だ。ネコ可愛がりしたいだけで手を出したなら、爪を立てられ痛い目を見る。
「?」
その、爪がある動物独特の足音に気付き、十路は首を巡らす。
どこから現れたのか、足元を黒い子犬が並んで歩いていた。短い足をチョコマカ動かし、必死に遅れまいとしている。
歩みを止めると、少し行き過ぎた子犬は踵を返し、スニーカーにカリカリ爪を立てる。
黒い犬種は、極端に体毛が短い種か、極端に体毛が長い種の、両極端が多い。
しかし子犬はどちらでもない。とはいえ、そのあたりは飼い主のケアで変わるし、雑種の可能性もあるので、一概には言えない。
「どしたん?」
「いや、イヌが」
十路の足が止まったことに、キョトン顔をする南十星へ、顎で示す。
「……は?」
十路の視線を辿って足元を見てしばし、南十星は再び顔を上げて眉を寄せる。
「……は?」
明らかに南十星は、子犬の存在を感知していない。
まるで意味がわからない。
直後、水風船が破裂したような音と共に、視界が赤黒くに染まったのも、意味がわからない。
刹那の間を置いて、超高速の飛翔音を捉え、更に衝撃波で体があおられたことで、ようやく理解に至る。
大口径火器による狙撃だ。
肉体はあおられるままに地面に倒れながら、脳内には疑問が埋め尽くす。
山の南側中腹に建つ修交館学院までの通学路は、狙撃のことも考えられている。木々に阻まれて標的の確認が難しく、狙撃ポイントを確保できる高所は離れて限られている。
なのに撃たれた。
「なとせ……!」
引きずり倒した南十星の結末は、頭の隅で予感している。同時に否定をしたいがために、十路は視界を塞ぐ生臭い液体を袖で乱暴に拭う。
瞼を開き、真っ先に飛び込んできたのは、首から上が存在しない南十星の体だった。大量の血が噴き出して、坂道を下っている。
《魔法》実行時ならば真っ二つにされても死なない彼女だが、《魔法使いの杖》と接続していない時に、しかも頭部を吹き飛ばされて、生きていられるはずはない。
十路は意識しないまま絶叫した。




