045_0040 【短編】灯に暈ける祭の追憶・伍 陰中陽
「元気そうであるな」
並び歩くオルグが、微笑の声で語りかけてくる。
「まだそんな言葉が出てくる時間は経っていないと思いますけど」
緊張した声よりは幾分緩ませて、ナージャは返す。
祭の明かりが存在する通りを、二人は人波にまぎれるように、並んで歩く。
浴衣姿のオルグの風体は、祭の場において変哲ない。
ただひとつ、長さ一メートルにも届かない、古代織の布に包まれた棒を左手に提げている以外は。
とはいえ、それだけでは変わった持ち物程度にしか、誰も大した注意は払わない。中身に気付きながらも、ナージャも触れないことにした。
「しかし、久しぶりであるな」
「いえ、ですから――」
時を経ていないと繰り返そうとしたが、オルグの言葉は違う意味だった。
「こうして二人で並んで歩くのは、いつ以来か」
「そういう意味ですか……そうですね……」
思い起こす。埋もれたとはいえタイムカプセルほど土を被っていない、目印もハッキリした記憶であったため、簡単に掘り起こすことができた。
「……一年半前ですね」
「なにで出歩いたのであったか?」
「うわ、ひどいですね。祖国防衛者の祝日をお祝いしたのに、忘れたなんて」
「あぁ……そういえばカーネーションなど、久方ぶりにもらったのであったな」
「修交館学院に潜入する直前でしたから、手抜きになっちゃいましたけど、ちょーっと奮発してお高いレストランまで予約して、デートしたじゃないですか」
日本人には馴染みない固有名詞を混ぜて、日本語で会話し、人波の切れる方向へと二人は並び歩く。
その足取りの中、ナージャは連鎖的に掘り出してしまった、別の記憶を反芻する。
一〇年前、オルグがやって来たのは突然だった。
当時の彼の容貌は、せいぜい白髪頭が今よりも濃い程度で、大して変わらなかった。鍛えられた大きな体躯。刈り揃えられた髭。厳つい顔と全身から発せられる威圧感。
森はもちろん、都市部近郊にも出現し、人々から恐れられる熊のような大男だった。
とはいえ、児童虐待で心を凍らせる術を手に入れていたナージャは、別段感想を持たなかった。恐ろしいともなんとも。
だから言葉で促され、手渡された携帯電話のようなものを、素直に受け取って、言われるままに操作した。
瞬間、頭の中が弾けた。少なくとも幼い彼女はそう感じた。
目ではなく、耳ではなく、皮膚触覚でもない。なのに周囲の全てを理解してしまう、《魔法使い》独自の第六感覚が起動した。
そして理解できた。理解してしまった。
自分は人間では――少なくともただの人間ではないのだと。
そこに優越感も恐怖もなかった。ただありのままの現実を受け止めただけだ。
数日後、ナージャには全く事情がわからないまま、ほんのわずかな荷物を持って、オルグに手を握られて家を離れた。
グローブのような手は、まだ小さかった少女を完全に包み込むほど大きかった。
あの頃を思い出した。
彼がいたから、自分の今があるとも思う。
今のオルグは、好々爺としている。皺の刻まれた髭面を綻ばせれば、殺伐とした世界での生き様は、微塵も見受けられない。
ナージャには元々、戦士としての覇気が薄い。そもそも彼女の色彩は目立つために、非合法諜報員としては不向きな人材だ。
一般人にまぎれることなど容易だ。身長と容姿で目立っているが、それ以上はきっとない。
(お爺ちゃんが引き連れて歩く孫娘としては、ちょっと変かもしれませんけど)
こうして並んで歩いていれば、二人はどう見られるだろうか。それを想像して、ナージャは微笑する。
「なにを考えておる」
「つまらない想像ですよ」
そして気を取り直し、顔も引き締める。
「それで」
本来ならば驚くべき、彼女にとっては些細になってしまった話の経緯が見えないため、時系列順に疑問を消化していくための疑問をぶつけていく。
「なぜ師匠が日本にいるのか疑問ですけど……そもそもあの後、どうなったかも知らないのですけど」
あの後――決別のために修交館学院で戦い、オルグたちを現行犯逮捕した後は、警察や行政機関に連絡しただけだ。
国際問題に発展しかねない問題を含んだ後始末は、政府や関係省庁に一任してしまい、支援部は直接関わっていない。
加えてナージャ個人は、意図的に耳を塞いだ。
「政府間交渉が諸々とあったが、全員帰国した。作戦に参加していた兵たちは退役除隊し、『行方不明』ということになってる」
「それはどういう意味で? まさか北極海行きですか?」
「いいや。新しい身分と仕事が与えられた」
「ヌルい処分ですけど、仕方ありませんか」
裏社会への同意を見せてから、ナージャは気づく。
他人事のように評する自分は、完全に支援部側の人間になってしまったのだと。
そして当然のように、今後の危険性について考えが巡る。
支援部員たちを恨みを抱く特殊部隊兵がいても不思議ないが、わずかでも理性が残っていたら挑まないだろう。
あの作戦――《魔法》を封じたのに敗北した《魔法使い》に対して、今度は数段劣る装備で《魔法》を使える状態の《魔法使い》に再戦を挑むなど、正気の沙汰ではない。
完全に見捨てられて軍から放逐されたなら、正気を失うかもしれない。
だが、再就職先が用意されている好待遇なら、そうなる可能性は低いだろう。
「師匠の処分は?」
「完全な隠居爺になっただけだ」
「なにをおっしゃいますやら。軍上層部相手に、一時部下だった方々に、それだけの好待遇を引き出したのはあなたでしょう?」
「最後の仕事と思うたまでだ。お主ら相手の作戦は、個人的な付き合い故に引き受けたが、もうご免だな」
ナージャも正確には知らない。
年老いても衰えていない、実力者というだけではない。オルグは特別顧問という肩書きで、軍に強いパイプを持っていた。
そんな老人が、果たして大人しく隠居生活などするかと、どうしても疑ってしまう。
そして特別な装備が与えられたからとはいえ、《騎士》などと呼ばれた者に安寧があるか、疑わしい。
つけ加えると、言葉を信じるならば、これからの時間は任務や作戦ではなく私事ということか。
明確ではないが時間も限られていることだから、ひとまず納得することにして、ナージャは当初の疑問に立ち戻った問いを発する。
「帰国して、なぜあの家に? どういう経緯で、あの人の現状をご存知になったんですか?」
父とは呼ばない。実家とは言わない。
「お主の近況をプラトンに伝えぬわけにはいかぬだろう」
だからオルグの返答を、義理堅く残酷なことだと鼻白んでしまう。
「それで入院したと知ってな。胃ガンだそうだ。幸い手術は成功し、転移は認められないそうだ」
オルグと父に、面識そのものはある。
一〇年前、幼いナージャに《魔法使いの杖》を渡し、寒村から連れ出してサンクトペテルブルグへ導いたのは、彼だから。事前の説明と直接の出迎え、少なくとも二度は顔を合わせている。
そして以後、オルグが保護者のような形になって預けられていたため、交友があっても不思議はない。
ただし、どういう交わりがあったか具体的なことは、ナージャは知らない。
「ナジェージダのことは、結局プラトンには話してはいない。入院している病人に、娘が国を裏切ったなどと、話せるものではない」
「……………」
彼の選択に対して、ナージャはなにも反応しなかった。
話してもよかったとは肯定しない。病人相手に鞭打ちを望むほど非情でもない。
父に話さなかった感謝もしない。そんな親思いの娘ではない。
疑問も返さない。ならば娘の近況をどう伝えたのか、興味もない。
「あの人たちは?」
だから別の疑問をぶつけた。戸籍上、母と姉となった人々のことを、積極的に知ろうと思わないが、話の流れで一応と。
「プラトンといつから話していない?」
しかしオルグは別の疑問をぶつけてきた。回答への拒絶ではなく、回答に必要な疑問として。
「超心理学研究所で生活し始めてから、顔を見せたことも、連絡したこともありません」
「となると、一〇年も前になるのか……」
「それがなにか?」
「タチアナとは離婚し、エカチュリーナを連れて出て行ったそうだ。お主が家を出て間もなくな」
義母も義姉も、知らぬ間に赤の他人に戻っていた。
話の様子から察するに、きっと父は、それ以来ずっと一人なのだろう。
「そういう言葉は聞かなんだが、どうやらプラトンは、お主を守れなかったことを悔いているようだ。ナジェージダに会うことがれば『すまなかったと伝えてくれ』と、言付けを頼まれた」
「…………」
今更なにを。
そう思ってしまうが、さすがに口に出さなかった。肉親の意での家族ではないオルグ相手に、それを言っても仕方ない。
まだ子供扱いされるとはいえ、大人に足を踏み入れかけた今なら、ナージャも理解を示すことができる。
実母を亡くした父は、きっと寂しかったのだろう。
そして彼女たちを迎え入れたのだろう。
ナージャのなにが彼女たちには気に食わなかったのか知れない。
ただ、なにか理由があったから。そして止まることをしなかった。
誰かほんの少しだけ余裕があれば。
誰かほんの少しだけ優しかったら。
誰かほんの少しだけ早く気付いていれば。
きっと些細な違いがあれば起こりえなかった現在。
母の早世は運命という言葉で片付けるなら、その後に起こりえた諸々も運命と言って片付けられるかもしれない。
だが、なかったことにはできない。
時の流れは薄めたに過ぎない。綺麗さっぱり押し流してしまったわけではない。
だから暗闇は、よく閉じ込められた物置を思い出してしまう。
だから彼女は、暗闇を極度に恐れるようになった。
だから敵意は、顔を歪ませ怒鳴り散らす義母と義姉を思い出す。
だから戦うともなれば、誰かを傷つけようとすれば、足が竦んで体が縮まる。
そのせいで通常の《魔法使い》とは異なる力を得て、利することがなかったとは言わないが、そんなものを望んで得たわけはない。
自分はどこか壊れているのだろう。
それはやはり、幼い頃の経験によるものとしか思えない。
「あの人にそんなことを言われても、困っちゃいますね」
だから微苦笑で選んだ、この返事が限界だ。
直接ではなくても、知らなかったかもしれなくとも、父が守ってくれなかったという過去だけで、一生許せないと思ってしまっているから。
やんわりと父の後悔と、その先にあるだろう望みを、拒絶する。
「家族を大事にした師匠には、許せないことかもしれないですが、器の小さいわたしには、これ以上は無理です」
「我が家族を大事にした、か……」
ナージャの言葉に、オルグが自嘲の笑みを浮かべる。懐古と後悔が半々のブレンドで。




