010_1700 それが彼らの宿命Ⅵ~戦術的撤退~
レストランシップ『曙光』の乗客たちは、一時混乱の極みに達した。しかし荒々しくも冷静な言葉と威嚇射撃により、船内は機関駆動音が大きく聞こえる静寂に満ちている。
そんな船内の、地下一階に相当するD甲板の廊下で、レオナルド・ラクルスはお化け屋敷の子供そのままの様相で、辺りを警戒しながら歩いていた。
襲撃者たちの目は、乗客の多いレストランに向けられている。もう少しすれば漏れがないか、彼らは船内を見回るだろう。幸運にもそんな合い間の時間で、彼は誰にも見つかることなく、樹里を探していた。
わけのわからない状況で、全く知らない大人と一緒に放り込まれるよりも、多少なりとも知っていて、頼りになりそうな者の側にいることを選ぼうとした。
そうして歩いていると、聞き覚えのある声をかすかに聞いた。
「――つぁ……!」
「……? お姉さん……?」
声が聞こえたのが女子トイレであるだけでなく、先ほど樹里に『ついて来るな』と言われたこと、そして声が苦痛に喘ぐものだったことに、確認するのを躊躇する。
しかし少年を決して、恐る恐る扉を薄く開けて、覗き込んだ。
「……!」
やはり樹里がいた。化粧台に腰かけて撃たれた脚を洗面台に乗せ、太腿から噴き出す血で白い陶器を真っ赤に染めていた。
それだけはない。彼女は持って来たテーブルナイフを逆手に持ち、傷口に突っ込んだ。
「――ぐ!?」
「ひっ……!」
レオが見ていることも、小さな悲鳴をこぼしたのも気づかない。彼女は歯を食いしばって、ナイフで体内の異物をかき出す。
「がっ……ぁぁああああぁぁぁぁっ!」
傷が広がるのも、肉がこそげるのも、新たに血が噴き出るのも構わない。
やがて取り出されたものが、洗面台の中にカランと音を立てて転がった。
「はぁ……! はぁ……! ぐぅぅ……っ!」
樹里は脂汗を流しつつ痛みに喘ぎながら、やはりレストランから持って来たボトルワインを流し込んで傷口を洗う。そしてテーブルクロスを無理矢理引き裂いて包帯を作り、太腿にきつく巻いて傷口を隠す。
《治癒術師》と呼ばれる彼女らしからぬ、乱暴で凄惨な応急処置だった。
野獣じみた姿を曝す樹里にレオは怯んだが、しかし弱々しく声をかけた。
「ジュリお姉さん……」
「レオくん……!? なんでここにいるの!?」
樹里は脂汗に濡れた顔を驚きに染めて振り返った。
トイレに恐る恐る足を踏み入れつつ、レオは問う。
「ケガ、大丈夫ですか……?」
「こんなの、大したケガじゃないよ……」
「でも血がいっぱい出て……」
「でも他にどうしようもできない……」
「ボクの発作を止めたみたいに、《魔法》で治せないんですか……?」
「今はできない……」
その質問が、幼いながらも精一杯の心遣いから、彼自身の不安をかき消すためのものに変わっていく。
「これからどうなるんでしょう……?」
「わからない……」
「どうするつもりなんでしょう……?」
「部長は拘束されるだろうし、次は多分、私を探して船の中を調べる……」
「どうするんですか……?」
「一番いいのは、状況が変わるまで隠れてることだけど……」
レオナルド・ラクルスという少年にとって、木次樹里と言う少女は、大人を長杖一本で吹き飛ばす強さと、誰かを癒す優しさを兼ね備えた《魔法使い》と思っている。
映画のヒーローのような能力を持つ、子供らしい憧れを抱ける相手。どこからともなく危機に助けに現れてくれるなんて、夢想と重ね合わせられる、夢と希望が具現化した人物と。
だから彼女ならば、こんな時でもなんとかしてれると、子供らしく無邪気に悪意なく無意識に思っていた。
しかし違う。樹里は――総合生活支援部の部員たちは、自身をそんな風に考えていない。今なら尚のこと。
当然ではある。貴賓室での会話や傷の痛み、船の乗客を巻き込んだ後悔で、心をささくれ立たせても不思議はない。
「《魔法使い》なのに、どうにかできないんですか……?」
子供ではそんなことに考えが及ぶはずもなく、決定的な言葉を放った。
「……そうだよ」
苛立ちが限界に達したように、不貞腐れたように、樹里はぶちまけた。
「《杖》がなければケガも治せない! こんな事件が起こってもなにもできない! レオくんの体だってどうにもできない! さっきも言ったでしょう!? 《魔法使い》なんて呼ばれていても、私たちはなにもできないの!」
更に、心の奥底に眠る澱を噴き出させた。
「私に夢や希望を押しつけないで!!」
「……………………」
怒鳴られただけでない。自分の憧れを完全否定され、レオは固まる。その少年の目に、樹里はハッとした。
「あ……ごめん」
樹里も謝罪したが、もう遅い。広くもない化粧室に水のような重い空気が満ちている。
気まずげに視線を逸らす彼女の姿に、レオナルド・ラクルスは理解した。
不屈のスーパーヒーローでも、無敵の超人でもない。
銃弾を跳ね返すことなどできず、傷つけば血を流す。
博愛精神や無償の正義など持つ存在でもない。
まだ大人になりきれていない、ただの少女でしかないことを。
△▼△▼△▼△▼
「……!」
不意に樹里のスカートのポケットで、マナーモードの携帯電話が震える。後悔の念から逃げるように確認すると、つばめからメールが届いていた。
内容は、今回の事件の詳細だった。ケースを背負っていた、大剣を持つ《魔法使い》がローデリック・セリグマンという名前であること。警察や海上保安庁も事態を知ったこと。そして十路がこの船に向かっていることが、端的に記されている。
(どうしよう……堤先輩と合流するのを待って動いた方がいいのかな――っ!)
樹里は唐突に洗面台から飛び降り、脚の怪我に構わず化粧室のドアを蹴り開けた。
すぐ外には男が立っていた。着ているのは七分袖のウェスタンシャツに、ヴィンテージ風のデニムパンツ。一見すれば乗客として乗り込んだ外国人観光客だが、男が手にしたのは、樹里が撃たれたのと同じ銃なのだから、客ではない。
どうやら船内に隠れている者がいないか、シージャック犯たちの探索が始まったらしい。樹里は大声を上げていたのだから、気づかれないわけがない。
しかし相手が様子を窺おうとした矢先、先に樹里が気付いて扉を蹴り開けため、反応が遅れた。
その隙に、中途半端な拳を男の首筋にぶつける。
破裂音が鳴る。男は巨人の手に捕まれたかのように、一発だけ明後日の方向に発砲して、声無き悲鳴を上げて硬直する。
数秒後、薄く焼け焦げた臭いを発して、男は音を立てて床に転がった。
「今の……なにが起こったんですか?」
「……スタンガンだよ……これだけは隠し持ってたから……」
シージャック犯たちに仲間が減ったことをすぐには知られぬよう、片腕で倒れた男を女子トイレに引きずりこみつつ、樹里は説明する。
彼女の手には、掌に隠れるほど小さい『プラスティック製の赤い物体』が確かにある。一般販売されているスタンガンは、筋肉を一時的に麻痺させる程度でしかないのに、意識を刈り取っているのだから相当なハイパワーだ。
(まずいなぁ……今のは不意打ちだから倒せたけど、このままじゃ絶対に追い込まれる……)
ひとまず気絶した男を個室に押し込み、落ちていた拳銃を掃除用具置き場に放り込みながら、樹里は迷う。
素人基準ならば彼女も相当な戦闘能力を持っているが、十路のような『玄人』ではない。能力があっても使い方がわからない。無関係な一般市民も巻き込まれている今、下手に動くと問題を悪化させてしまう。
(人質がいなければ……せめてレオくんがいなければ、私ひとりで全滅させられるんだけどなぁ……)
不意に荒々しい声が響く。トイレの扉の隙間から外を覗くと、通路の奥からまたひとり男が現れた。英語から察するに、仲間を探しているらしい。
気絶した男を隠しても意味なかった。感電させた時の、銃の暴発を聞きつけられたか。
これからの行動。レオをどうするか。樹里は刹那で決断した。
「こっち!」
「わ!?」
樹里はレオの手を引いてトイレを飛び出した。不意を突かれた男が誰何の声を上げるのに構わず、傷ついた脚でエントランスまで走り、吹き抜けの階段を駆け上がった。




