040_0410 堤十路の受難な一日Ⅵ~おかしな関係 絶体絶命~
「あはは……恥ずかしいところお見せしちゃいましたね……」
店を出て明るい夜道を歩き、ヘルメットを引っかけたオートバイを挟み、それを押す十路と並びながら、力ない笑顔でナージャは明かす。
「わたし、暗いのダメなんです……こんな夜道くらいなら我慢できますけど、停電みたいに急に暗くなっちゃうと、パニックになっちゃって……寝る時でも小さい明かりをつけてないとダメですし……」
「暗所恐怖症か」
停電した時の、彼女の病的な怯え方に、十路は納得した。
暗闇は誰でも恐れる。人間は夜行性ではない上、七割以上視覚からの情報に頼っているから、それを封じられれば、見知った自分の部屋も未知の空間に感じてしまう。
だが、普通は大したものではない。子供ならば夜にトイレに行くのに難儀してオネショの原因になるかもしれないが、成長すれば克服してしまう。
なのにパニックになるほどの過剰反応をするならば、ショックや異常経験で傷を持つからだろう。
だから十路は一言だけの感想で話を流したのだが、ナージャは不思議そうに問う。
「理由とか、聞かないんですね……」
「俺を含めて、周囲がワケありばっかりだからな。情報が必要になれば話は変わるが、そうじゃなければ深入りしない」
誰かに深入りしないのは、十路の性格によるところが大きいが、暗黙の了解によるところもある。
総合生活支援部の部員たちは、国家に管理されていない《魔法使い》であり、そうなった経緯には、相応の事情があるだろうことは、誰でも予想できる。
だから部員たちは、容易には互いに踏み込まない。過去の経歴だけでなく、家族構成や誕生日、趣味嗜好といった一般的なことまで、情報交換しないことが数多い。
十路はそれで構わないと思っている。他の部員たちはどう思ってるか不明だが、コゼットは大人な理解を持ち、南十星は十路以上に冷淡でドライな部分がある。基本的な考え方は大差ないと予想する。
「誰かの過去や秘密に深入りするってことは、他人の面倒事を自分のこととして共有するってことだ」
《魔法使い》の場合、その面倒事は、常人の基準とは比較にならない。死にも繋がる世間の闇に通じてることも珍しくなく、無責任に『助ける』などと言って簡単に解決できることではない。
「だから必要もないのにそんな面倒、俺はやる気ないね」
「あはは~……そういうところは十路くんですね」
「当たり前だ。誰かを助けるなんて高尚なこと、精神的にも経済的にも余裕のある人間がやることだ。そして俺は自分のことだけで手一杯だ」
「…………」
トラブルご免を自称している通り、聞けば誰しも冷たく思うだろう言葉を吐いたのだが、なぜかナージャはニコニコとした笑みを向けてくる。
「なぜ俺はここで生温かい目を向けられる?」
「いえいえいえ。深い意味はありません」
などと言うが、どう見てもナージャの顔は、なにか言いたげな意味を持っている。日頃空気を読まない十路でも理解できる。
(部長の時とか、なとせの時とか、なかなか無茶したのは事実だけどな……)
彼女たちの過去が原因で起こった戦闘は、一部はナージャも知っているはずだろう。きっと彼女たちの苦境を助けるために戦った事実を引き合いにし、出した言葉とは裏腹な行動をしたことを取り沙汰して、ナージャはからかいたいのだろう。
しかし思惑に大人しく乗る十路ではない。空気を読む男ではない。視線を前に向け、オートバイを押し、無視して歩く。
「そういえば、結局うやむやになっちゃってましたね……」
夏休みなので学用品は持って来ていないのだろう。軽そうな鞄を後ろ手に持ち、ナージャは夜空を見上げながら足を動かし、口にする。
「わたしが《魔法使い》さんってお話」
少なくとも、彼女の側から出す必要のない話題を。
それに十路は覇気のない、いつもの平坦な声で応じる。
「普通に考えれば、俺の見込み違いだな。暗所恐怖症のスパイなんて、ギャグだ。そんなの採用する国家機関とかあったら、ちょっと頭おかしい」
「うぐ……」
なにか言いたげなナージャは無視し、心の中でだけ、十路は言葉を付け加える。
(普通に考えれば、な)
だから判断を迷わせる。
彼女の疑問に答えているようで、実は答えてはいない返事をするしかない。
「それに、俺たちになにかする気なら、部室に入り浸ってるナージャなら、チャンスはいくらでもあったはずだしな」
「それは、そうですね……」
たとえば差し入れ。料理研究部で作った菓子などを、彼女は遊びに来る時に持って来ることがある。そうでなくても、部室内でお茶を淹れる時には、かなりの頻度でナージャが淹れている。
そこに薬を混ぜれば、毒殺も不可能ではない。
だが、そんなことになっていない。生身で《魔法》が使える異能が関係しているのか、樹里の五感は野生動物並に鋭いため、よほど特殊なものでない限り、薬品が混ぜられていたら彼女は感知するはず。なのに樹里が警告したことは一度もなく、ナージャの手が加わった食品を平然と飲み食いしている。
「ついでに態度が変だ。くっついてくるだけなら、色仕掛けとか考えられるんだが、妙にウブいところ見せるし」
「う……」
先ほどのファミレスでも、ナージャがデザートに注文したパフェを、一口だけ十路が横取りしようとしたら嫌がられた。ただ食い意地が張ってるのではなく、それ以上に間接キスを嫌がられたからだ。そして顔を赤くしてグラスを抱え込むように一気食いし、アイスクリームの冷たさに頭痛でのたうち回っていた。
特殊な性癖でない限り、男はやはり女性に弱い。だから性的魅力を振りまいて、目標に近づいて情報を奪取するなど、諜報活動では基本だ。十路も特殊作戦要員の現役時代、そういう相手に近づかれた経験がある。
ナージャの外見は、それを行うだけの素質がある。しかし色仕掛け目的で近づいたスパイには、到底思えない。
もっともそれだけでは、ナージャが《魔法使い》でも、諜報活動員でもないという証明にはならない。十路たちを害する目的ではない可能性も、そして今のところは静観しているだけとも、充分に考えられる。
「どうしてわたしを怪しんでて、今日までなにも言わなかったんですか?」
「理由は色々だな」
もっともなナージャの問いに、十路は指折り数えながら答える。大型バイクを片手で支えるなど、冗談でもすることではないが、高度なバランサーを搭載するこのオートバイならば気にしない。
「近づく人間全員怪しむのは疲れる。先月の部活動まで確証らしいものはなかった。俺たちを取り巻く状況が変わりつつあるから、疑いを放置できなくなった」
横に振り向いて、いつもの無表情よりは少し微笑めいた顔で言う。
「それに友達だからな。やっぱり疑いたくはない」
ナージャはなぜか、少し寂しそうな笑みで応じる。
「友達、ですか……」
今は夏休み期間のため事情が少々異なるが、授業がある時はほぼ毎日顔を合わせて、行動を共にしていた。ナージャは友人知人の類が多く、留学生とは授業カリキュラムが一部異なるため、常に一緒というわけではない。しかし昼食は一緒が多く、休憩時間もかなりの割合で共にいる。放課後はいつも十路は部活動に出るが、ナージャが遊びに来るため、一緒と言えばいつも一緒。休日に共に出かけたことも数度はある。
しかし恋愛感情めいたものは、二人の間にはない。一緒にいる時は大抵はもう一人、和真もいる理由もあるが、少なくとも十路はそういう感情を抱いたことがない。
よく抱きついて、惜しげもなく肉感を伝えてくれるが、青少年らしい嬉し恥ずかしな感情など欠片もなく、ただ鬱陶しい。欠伸をしていれば口に飴玉を弾き入れられ窒息しかけるのを、ナージャが笑い転げながら見ているので、怒鳴ることもある。
とはいえ不快に感じて接したくないとは思わない。結局のところはいつも一緒で、悪ふざけを許容できる関係にある。
「…………いや、友達は違うな」
転入以来の彼女とのやり取りを思い出し、十路は平坦な声で訂正した。
「悪友だな」
「ちょっと感じ入ってたのに言い直すんですか!?」
ナージャが不満そうに返すが、それこそ心外だと十路は更に返す。
「だってナージャを友達って呼ぶのも、なんか変な気がするぞ?」
「え~? そんな変な関係ですか?」
「知り合って半年も経ってないけど、もっと長くなったら絶対に腐れ縁って呼ぶ間柄だろ」
「うわ~、ちょっと傷つきますね~。十路くんって絶対、わたしを女扱いしてませんし」
「それ言ったら、ナージャは俺を男扱いしてるのか疑問だけどな……そもそも文句言うなら、俺とどういう関係だと思ってるんだ?」
「…………友達?」
「その間と疑問形に、俺と同じ感情が表れてると思うんだが」
悪友以上、恋人未満。
友達付き合いと評するには、悪ふざけの割合が高く、ただのクラスメイトよりは明らかに近しいが、関係を越える一線を踏み出す予感は全くない。今の距離感がそこはかとなく心地よく、積極的に変えようという気にはならない。
「あ。わたしの家、ここです。送ってくれてありがとうございます」
住宅街の一角にあるアパートの前で、ナージャは足を止めた。
部屋の間取りはワンルームか、広くても1Kと推測できる、一言で表せば築年数の高い安アパートだが、十路自身の生活を基準にしてはいけないと思い直す。総合生活支援部の関係者が生活しているマンションは、住人の特異性他の都合で、間取りもセキュリティも異常だ。学生のひとり暮らしならば、このくらいのアパートが普通だろう。
「じゃあ、ここで別れ際のキスだな」
平坦な声で十路が言うと、光の少ない中でも、ナージャの顔が真っ赤に染まったのがわかった。
「え……!? えええええ、と、そのぉ~……!」
「真に受けてウブい反応されたら、俺が困るんだが」
「だから十路くんの冗談は笑えないんですよぉ!」
「……今のは俺が悪いのか?」
免疫のなさを棚に上げられ、釈然としないものを感じた十路は首筋をなでる。
恥を誤魔化すためか、ワタワタと意味なく動かしていたナージャの左手が、来た道を指差す。
「と、ところで、なんだか車に追いかけられてたみたいですけど……?」
「気にするな。俺の監視だ」
普段はスピードや機体状況を表示している《バーゲスト》のインストルメンタル・ディスプレイに、先ほどから追跡者の存在を小さく警告しているから、十路も少しだけ振り返る。
五〇メートルほど離れて、徐行運転をしていた黒いワンボックスカーが、路肩に駐車している。夜の上にフロントガラスはスモークが効いているため、どんな人物が運転しているか確認できないが、十路はおおよその見当はつけていた。
「多分、公安警察あたりだと思う。このところ部員全員に見張りがつくようになった」
「なにか悪いことしたんですか……」
「逆だ。悪さしないよう警告の意味で、あからさまな監視してるんだろ」
いわゆる公安警察――県警警備部公安課や外事課などは、過激思想団体や外国の諜報機関を捜査対象としている。そのため危険性と秘匿性が高い、秘密警察のような趣があり、刑事ドラマでは悪役的に描かれることが多いが、公共の安全維持を目的とする組織に違いない。
そんな組織が、公に認められているとはいえ、単独で都市を消滅させかねない危険人物たちを、警戒していないはずはない。今までもきっと監視していただろうが、先日の一般市民を巻き込んだ部活動で、警戒レベルを上げたのだろう。
とはいえ、十路は気にしない。他の部員たちも大して気にした風はなく、いつも通りの生活を送っている。
隠れて犯罪を行う予定はないので、気にしたところで仕方ない。ただの学生のような二人だけの帰り道に、監視つきとは無粋だとは思うが、少なくとも邪魔はされていない。
「大変ですね、《魔法使い》さんも」
「普通の学生生活を送ろうと思えば、仕方ない」
普通の学生は絶対に経験しない事態でも、十路は平然としているからか、ナージャは苦笑を浮かべて。
「それじゃ、また明日ですね」
彼女は手を小さく手を振り、階段を駆け上がり、アパートの一室の扉を開いた。
軽く手を挙げて見送り、ナージャの姿が消えるのを見届けて。
「――さて」
十路は戦闘モードにスイッチを切り替える。
【迎撃する気ですか?】
ずっと黙っていたイクセスが、様子を察して小さな声をかけてくる。
「俺はお断りしたいが……どうもキナ臭い気がしてならない」
【一時、短い無線が飛び交いました】
「この状況だと、戦るか戦らないかの確認か?」
ナージャと並んで歩いている道中、人通りの極端に少ない住宅地に入った辺りから、イクセスはずっと警告していた。
車の追跡だけではない。別の人間複数による追跡が行われていると。
「見張りだけなら勝手にしてろ。手出しする気ないなら、俺は帰る」
姿の見えない相手に、十路は言い放つが、なにも反応はない。
イクセスも詳細な警告はしてこないので、赤外線で隠れ潜んでいる相手を捉えているわけではなく、途切れ途切れに姿を発見し、不審な音しか捉えていないのだろう。
それでも一人と一台のどちらもが、勘違いとは言い出さない。正体不明の誰かが近くにいると考えて、警戒して感覚を研ぎ澄ます。
十路はオートバイのハンドルを片手だけ添えて右手を空け、ゆっくりとした足取りで歩き始める。背後の監視も離れたまま、徐行運転を再開したのをミラーで確認する。
そうして、表通りへの曲がり角に差しかかり――公安警察の監視から一瞬外れた、その瞬間に。
闇が躍動した。
「そっち頼む!」
家の塀を飛び越え、上から襲撃する影にヘルメットを投げつけながら、十路は叫ぶ。
【了解!】
幽霊バイク扱いされる可能性は多少考えたかもしれないが、気にしていられない。イクセスは即座に応じ、暗い住宅地を無人無音で疾走し、やや離れた路地から飛び出た影に襲い掛かる。
ヘルメットをぶつけても、怯んだ様子は見られない。ただ上から襲撃しようとした目測はずれただろう。影は奇襲の失敗にも関わらず、高所からの着地衝撃を感じさせない足運びで近づき、街路灯に反射する白刃を振るう。
対して十路は、胸元に入れていたペンを抜き、指で挟んで掌に乗せる。
部室で使っていた南十星に説明した通り、それは筆記用具として作られたものではない。タクティカル・ペン――護身武器として使える金属製のボールペンだった。
それを掌に構え、ナイフの刃に叩きつける。小さく火花が飛び散って、首を狙った軌跡を逸らす。
「!」
十路を無手だと思っていただろう。日用品の形をした武器の出現に、襲撃者が虚を突かれた息を呑んだ。
だがもう遅い。一度タクティカル・ペンを手放し、空中で持ち替えながら相手の横に回り、尖った先を鎖骨付近に振り下ろす。ナイフほど鋭利ではないが、それでも皮膚を破り、肉体に突き刺さる。
そのまま畳み掛けようと、足元への追撃をかけたが、襲撃者は反応して、刺さったペンをそのままに距離を取る。決して軽くはない傷を与えたはずだが、その動きに遅滞は見えない。
仕切り直されたことで、十路は軽く拳を握り締めて、襲撃者に備える。
相手の服装は変哲ない。一般人にまぎれるためだろう、タイトなジーンズにポロシャツという、ごく普通の格好だった。だが顔だけは、目出し帽で隠している。夜闇に浮かぶシルエットは、かなり鍛えられた人間のものだ。
薄手の格好だから、装備はあまり充実していないだろう。相手の出方を見守っていたら、襲撃者はナイフの握り方を替えた。距離があるにも関わらず、突き出す構えを見せる。
十路はその意味を、瞬時に理解した。近づいて対処するには遅いと判断すると、全速力で距離を開く。
「イクセス! 来い!」
減衰器付きの拳銃らしきものを持っていた、もう一方の襲撃者を吹き飛ばしたバーゲストに駆け寄り、頭から飛び越えた車体の陰に転がり込む
直後に甲高い音を立てて、《バーゲスト》のボディになにかが衝突した。飛翔体は、ライフル弾も防御可能な《使い魔》の複合装甲を貫くには至らなかった。
襲撃者たちは十路に一撃も加えられなかったことに舌打ちしたが、未練は見せなかった。それぞれ肩を押さえ、足を引きずりながらも即座に転身し、再び住宅街の闇に消えた。
確実に仕留められるチャンスを待つ、高度な戦闘訓練を受けた者の行動だった。だから十路は追跡はしない。相手が二人だけという保障はなく、下手に追撃すると痛い目を見る可能性が高い。
「……撤退したか?」
【反応は全て遠ざかってます】
イクセスに確認を取り、五秒にも満たない死闘を終了させて、ようやく警戒を緩めて立ち上がる。隠し武器による化かし合いは、十路が勝利したらしい。
十路は路上に残されたナイフの刃に近づき、身をかがめて拾い上げる。まっすぐな両刃で、切ることよりも突き刺すことを前提にした作りだ。ほぼ使い捨てである投げナイフは、刃と柄が一体成形で作られていることが多いが、それとは違い、ナイフの柄を外した刃そのままに見える。
刃を検める彼に、少なくない驚きと賞賛を込めて、イクセスが語りかける。
【よく相手の攻撃に反応しましたね?】
「独特なナイフだからな……もっとも、実物見たの初めてだけど」
距離に関わらず襲撃者がナイフの構え方を変え、鍔部分のレバーに指をかけたことから、十路は武器の正体に気づき、バーゲストの陰に飛び込んでやり過ごした。
それは近接戦闘中に奇襲するために、社会体制が崩壊して今は存在しない国で開発された。柄部分に仕込まれた強力なバネで刃を射出する、小口径拳銃よりも危険な一撃必殺のギミック・ナイフ。
【スペツナズ・ナイフなんて三〇年以上前のトンデモ武器を、一瞬で判断するなんて……】
「それよりどう思う? 今度はロシア特殊部隊が出張ってきたと思うか?」
【ナイフだけで関与を判断するのは危険では?】
「断定する気はないが、怪しすぎるだろ」
【仮に関係あるとすると、やはりナージャの正体絡みでしょうか? トージとの会話中に無線電波の発信を感知しましたし、その線は濃厚ですが】
「俺がナージャの正体を怪しんだから、仲間が手を出してきたのかもな……カマかけるタイミングをミスったか?」
【ヤブヘビは否定しませんが、ずっと静観してた相手とも思えませんが】
指に挟んだナイフの刃を揺らし、イクセスと検証しながら今後のことを考えつつ、路上のヘルメットを拾い上げて。
きっと短時間の戦闘に気づいていないだろう。再度接近してきた車の監視下に置かれたのを確かめて、十路は野良犬のようなため息をつく。
「どうであれ、また厄介なことになりそうだな……」
△▼△▼△▼△▼
「…………」
都市の喧騒が届く中では無音に近い、一瞬と呼べる交錯を見届けて、彼女は小さく息をついた。落胆とも安堵とも取れる、複雑な感情が混じったものだ。
扉の隙間から、男子高校生がオートバイを跨って走り去り、その後を黒いワンボックスカーが追いかけて消えるのを確認してから、彼女は動く。スカートのポケットから、細長い電子機器を出して操作して、耳に近づける。
【――Кто зто?(誰?)】
短いノイズの後、すぐさま相手がロシア語で応じる。スピーカーから聞こえてきたのは、少女の声だった。
「わたしです」
【……あぁ。そろそろ連絡してくるかとは思ってたけど】
相手は少し考えて――声紋照合に合致する人物を検索したのだろう。少女の声は、思春期に家族と話すような、どこか不機嫌そうな素っ気ないニュアンスに変わる。
【お父さんはいないよ】
「――っ」
その言葉に彼女は、鋭く舌打ちする。日中は朗らかな彼女らしくなく、苛立った冷たい顔が浮かんでいる。
だがそれはそれとして、彼女は無感情で日本を出す。
「なら、あなたにお聞きします。こちらの案件ですから、手を出さないという約定のはずでは?」
【《騎士》に怪しまれてたみたいだけど、なのにそんなこと言うんだ?】
少女の指摘に、彼女はまたも舌打ちする。
【詳しいことはどうなるか知らない。そして決めるのは、わたしたちじゃない。だけどこのままじゃ、あなたの仕事じゃなくなると思うけど?】
三度目の舌打ち。しかしそれ以上の反応はしない。
少女が言ってることに正当性があり、今のままでは言う通りになる公算が高いのは、彼女も自覚している。
無線連絡しながらローファーを脱ぎ、部屋に入る。朝、完全には照明を消さず、点灯管をつけたまま外出したので、明かりに困ることはない。
LED照明の普及で最近では珍しくなった、和風の蛍光灯をヒモを引っ張って点灯させると、部屋の様子が克明に見える。
なにもない部屋だった。六畳のワンルームに家具と呼べるものはない。家電製品もなにもない。流し台にはコップがひとつ、カーテンレールにハンガーがひとつ、あとはスーツケースと丸められた寝袋が置かれているだけで、恐ろしいほど生活感がない。
彼女が床に鞄を投げ出した時、話し相手が変わった。
【『あの人』に伝えておくことがあるかしら?】
今度は中年の域に達したと思われる、優しげな響きを持つ女性の声だった。最初から彼女が出てくれば、不快な思いをする必要もなかったのにと思いつつ、彼女は返す。
「いえ……結構です」
【そう? まぁ、あなたの上司じゃないから、そちらはそちらで相談した方がいいでしょうね】
親切だろう。そんなつもりはあるとは思えない。
しかし、ささくれ立った心で聞くと、そんな最後の言葉も嫌味に聞こえてしまう。
【近々、なにか話があると思うわよ】
余計な親切を最後に、通信は向こう側から切られた。
「……………」
そして電子機器を足に戻すことなく、手にしたまま彼女は脱力した。
本当ならば、話の終わり際に女性が言ったように、彼女の関係者に報告と相談するべき事態だろう。
だが彼女は、新たな連絡をすることなく崩れ落ちて、子供のように割座で肩を落とす。
「もうヤダ……」
そして胸に手を当て、心の底に溜まった澱を零した。




