【番外編】めざめ
番外編。主人公・小夜、高一時代。(注:緒方以外の男性と小夜の恋愛です)
「クラスマッチの打ち上げだって。小夜、行く?」
「私パス。このクラスのメンツであの合コンみたいなノリはちょっときつい」
「あー…、うん。確かにそれはある」
「ああいうのより、私、もっとストイックそうなのがタイプだし。バイク屋のお兄さんとか」
「はあ?何それ」
大岡はあきれたような顔で笑い、『じゃあ今日は私らだけで「305」行こう』と笑った。
高校一年生の梅雨が終わったころだった。
「小夜」なんて呼ばれるのは久しぶりで、小夜はようやくそれに慣れつつあった。
最初は小夜も大岡のことを「美咲」という名前から「ミサ」と呼んでいたけど、いつのまにかかわいげもそっけもない名字呼びになった。
小夜にはこっちのほうが大岡っぽくてしっくりくる。
そういえば、あれから自分のことを名前で呼ぶ人はいなかったな、と思った。
小学生のあのとき。蝉が鳴いていた、汗で湿った手で、ぎゅっとワンピースを握って、彼に唇を寄せたあの夏。
あれを最後に、私はずっと「牧田さん」だ。
小夜はイヤホンを外しながら、今まで何回もなぞってきた記憶をもとの場所におさめた。
バスの中はいつの間にか乗客がまばらになっている。
大岡とはしゃいだ熱の名残に、窓から吹き込んでくる夜風が涼しい。
「305」は学校近くの繁華街にあるビルの一室で、こじゃれた造りのイタリアンレストランだった。ビルの305号室なので、そのまま店の名前が「room 305」になっているのだ。
小夜たちはそこで、何を祝ってるのかもよくわからない(クラスマッチは二回戦敗退だったし。強いて言うなら自分たちの今に、だろう)祝杯をあげて(制服だから無論ノンアルコールだけど)、ばかみたいな話や真面目な話やえげつない話なんかをして笑い合った。
なんせ、明日が終業式なのだ。
夏休みなのだ。
どうせ夏休みになったって、毎日学校で夏期講習があるから結局は普段と変わりないのだけど、明後日から夏休みだと知って浮かれない学生がいったいどこにいるだろうか。
「で?今日話してたバイク屋ってなに」
「は?」
「知ってるってば。小夜の家の前のバス停、向かいにバイク屋あるでしょ。言っとくけどうそついたらわかるよ」
「なぁーに、それ」
くすくす笑いながら小夜はジンジャーエールでのどを潤し、大岡は残っていた最後のエスカルゴを指でつまみ、ソースをからめて口に放り込んだ。
バイク屋のお兄さんというのはもちろんそのままの通りで、バス停の向かい、小夜の住むマンションから歩いて3分のところにあるバイク屋で働いている。
ここまでが大岡に話したことだ。でもまだそれから先はだいぶあって、閉店の片づけをしていた彼が、誤ってバスから降りた直後の小夜にぶつかったのがそもそものきっかけだった。
テストの日だったせいで、小夜はたまたまコンタクトを外して眼鏡をかけていた。
もちろんお定まり通り眼鏡はぶつかった拍子に彼がふんで割れてしまった。
これを、大岡が聞いたらひどい出会いだ、とでも茶化すのだろうが、きっかけなんてなんでもいいいのだ。
その後、お詫びに近くのスターバックスでコーヒーをご馳走になってからというもの(眼鏡も弁償してくれることになった)、小夜はバイク屋のお兄さんがお気に入りなのだった。
彼は野間君といった。
すっかり暗くなった夜道を、まばらな街灯がどうでもよさそうに照らしている。足取り軽く、バスの出口の段差を降りる。
バイク屋のシャッターは閉まっていて、つなぎのまま肩にバッグをかけた野間君が軽く片手をあげた。
「おかえり、牧田さん」
「ただいま」
小夜の方がずっと年下なのに、彼は小夜を名字で呼ぶ。そういう野間君の持つ奇妙な真面目さも小夜は好きだった。
グレーのつなぎで野間君は手を拭って、小夜の頭をぐしゃぐしゃにした。
野間君の大きくて骨ばった手は小夜の頭蓋骨によくなじむ。
石けんの香りにまじって、機械油のにおいがかすめた。
今日、会う?後でよかったら俺から電話するけど。
「じゃあ、家で待ってる」
小夜はそう言うと、彼の手からするりと逃れてあっさりまわれ右してしまった。
階段をあがり、玄関に上がって靴を脱ぐ。
電話がかかってくるのはきっと12時過ぎだ。そしたらそっと家から抜け出さなくてはいけない。
野間君はさっきと同じグレーのつなぎ姿で、マンションのエントランスの前に立っているだろう。
お客さんなんかめったに来ないよ、と愚痴とも冗談ともつかないことを言いながら、バイク屋の前を通って、近所の居酒屋に入るだろう。
私はウーロン茶、野間君はビールを飲んで、もしかしたら部屋に来ないかといわれるかもしれない。
いや、「好きならキスして」というかもしれない。
もし、そう言われたら小夜は野間君の頬ではなく、唇にキスするだろう。深く。長く。
小夜って呼んでくれませんか。
今日はそう頼んでみよう。
小夜は思う。
もし、今でもあの団地に住んでいたら、今でもあの彼と一緒にいたなら、皆が寝室にこもったあと、家から抜け出して、夜露に湿ったシロツメクサの上のあの木の下で腰を振ることがあったかもしれない、と。
小さな頃は隠れて息を忍ばせていたあの場所で、今は息を乱すことになっていたかもしれない、と。
-THE END-




