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32:1 - 微かな臭気の中にて

ダーティーエア(dirty air)

:直訳で“汚れた空気”、レース用語においては車両の通過などによって流れが乱れたコース上の空気のことを指す。

レーシングカーは空力により高速で動く車体を安定させているため、この乱れがあるとバランスを崩してハンドリング等に多大な影響を及ぼす。

 臭い。俺もよく知ってる、都市ガスみたいな独特のイヤな匂いが鼻先をかすめた。気がする。



 思考がストップしそうになる。防火用の窒素ガスが? 充満? あと数十秒で……。そりゃ、今まで何とかして色々と切り抜けて来はしたがこんな時間制限まである状況はさすがに想定してない。何よりこの状態でこんなのどうにも出来るハズが……というところまで思考が乱れたところで、イヤイヤ待てと俺はかぶりを振る。ここでお前がパニックになってどうする。確か『土壇場こういうときにこそ活躍してる』とか言われてたろ? 落ち着けよ、俺。

 そうやって手早く気を取り直すと、俺は周りを見渡す。まぁ、やっぱり——


「オラとっとと窓ブチ破れや!」


「出来るワケねーだろ、クラフトの窓だぞ⁉︎ 拳銃(ハジキ)程度でどうにかなるモンじゃねーよ!」


「おい何だこりゃ……」


「クッソ! お前ら下がれ、とにかく撃ち抜くぞ‼︎」


「ママこっち! 急いで、早く‼︎‼︎‼︎」


 ——他も他でパニックだったが。ただ、さすがにアリアドネ号クルーとか各陣営のトップ層だとかは比較的まだ冷静さを保っていた。でもだからって、下っ端連中とかはそうもいかない。

 イスルギ組のチンピラたちは窓を何とかこじ開けようと窓ガラスの枠を叩いたり銃弾を撃ち込んだりしている。ちなみに解説しておくと、宇宙船クラフトの窓やら壁というのは、宇宙空間そと船内なかの圧倒的な気圧差を耐え抜いて尚かつ外部からの衝撃にも耐えなければならないワケで、つまりそんなもんで開くハズも穴が空くハズもない。マダム・バタフライのメンバーたちも判断は早いが半狂乱の状態で、ミセスをまた引き摺って船橋ブリッジから距離を置こうと目的地も無く走り出している。ただ、基本的に荒事あらごと担当のヤクザ連中冷静に様子をうかがっている者が多い。……いや待て、誰かいなくないか? 結局いくら殺られた……?


「ダメみんな、落ち着いて‼︎ 焦っちゃダメ‼︎‼︎‼︎」


 泣きそうな顔でラッシュが周囲を制止しようとするが効果はない。そしてそうこうするうちにも重たい鉄の扉が開くみたいな音がしてダクトがうなりを上げ始める。エレベーターが上昇していくように重々しい音は高くなって、顔に感じる風の勢いが強くなった。防火用の整備システムが正常に作動して、窒素ガスを迅速に充満させるための換気を開始したってワケだ。ちゃんと作動したとこ悪いがこういうときに正常に作動されると忌々しさがどうしても勝ってしまうのはまた別の話。

 ダクトから響く隙間風みたいな不快な音が大きくなっていく。このダクトを通って汚れた空気は人工葉緑素の保管槽にまで輸送され、そこでフィルターによるちりの除去・葉緑素による光合成が行われて空気の洗浄および循環がおこなわれるのだが……ってことは。


「おいラッシュ!」


「あぁもう‼︎ 誰も聞く耳持ってくれな——


「ラッシュ‼︎‼︎‼︎ お前自身も聞いてくれ、な? 窒素って無味無臭だろ、今のは確かなのか」


「たっ、確かに信じづらいかもだけど間違いないと思う! けど今は説明してるヒマ無い……無いのに……どうしよう……」


 時間は依然として残されていない。というかそもそも数十秒程度しか残されていないのにもう一〇秒は使ってしまった。事態はますます切羽詰まり、ラッシュは焦りとパニックで既に涙目。ただ俺の顔をじっと見つめるしか出来ないようだった。

 要は、パニック状態なのはこいつも同じってワケだ。

 またそれに説明が不十分以上に、そもそもこれがラッシュの勘違いという線も捨てきれない。ガスが満ちてきているのは確かだが、コイツが現状の把握を間違えていないとは言い切れないワケで。大体消火用の窒素ガスなんてそんな危険な代物ではなかったハズだし。


「分かった、じゃあ対策だ。このダクトの先にある保管槽の人工の葉緑素って要は機械だろ? このへんの操作やらハッキングとか出来ないか?」


 しかし俺は、その事なかれ的な可能性を丸まんま無視することにした。理由はラッシュの必死さと、それ以上にそもそも“コイツが目に涙を浮かべている”という事実からだ。この表情が出るのはいつも、決まってコイツ自身が『確信』しているときだと経験が告げている。“このままだと確実に事態が悪くなっていく”という不安や絶望、そういうのが含まれた表情。つまり場当たり的な勘違いなどではない『理性』の存在を確かに感じたのだ。断じて年下女の涙にほだされたとかではない。

 しかしそんな俺に対してラッシュは急に表情が曇り、明らかに怪訝けげんな顔で反応する。


「人工葉緑素? 確かに機械ではあるけど、そもそも光合成と窒素には何の関係も……」


「違う、そうじゃない! まずガス放出してる給気口からダクトへの気流つくってるシステムを逆回転させる。つまり気流を“ダクトから給気口に”流すんだよ。保管槽フル稼働で酸素濃度上げて、その気流で窒素ガスを押しのけさせるってどうだ? ラッシュ、イケるか」


「「……乗った‼‼‼」」


 さすがに無茶か? と思ったものの、予想に反して前向きな返答。それと、反応したのは話を聞かせていたラッシュだけではなくイスルギも特大のリアクションで応じた。そして二人はそれぞれ手近な天井を這っている排気ダクトにしがみついて蹴りを入れ始める。

 片や筋力に優れるシャモ系鶏人種(チキンブリード)、片や瞬発力に優れるドーベルマン系犬人種(ドッグブリード)だ。金属の板でできたダクトはものの数秒でひしゃげ、人一人くらいは余裕で入り込めそうな空間が廊下の天井に口を開けた。


「おし、ラッシュちゃん・アキに続いて全員ダクトの中に入って進め、急げ‼ 今この場で助かる方法だ、お前ら慌ててコケたり誰か押しのけたりすんじゃねェぞ! イヴさん、アンタは全員がダクトに潜るための補助役頼んでいいか」


「わかった!」


 イスルギが進んで指示役に回ってテキパキと皆を統制していく。さっきまで暴れていたチンピラたちも逃走していたキャバ嬢たちも大人しく従っている。イスルギ自身が一番この場にいる人間を動かす力があることを熟知しているのだ。しかし町長(?)としてこれにどうこう感じるヒマも無く、俺とラッシュはそれぞれダクトに潜り込む。目指すは人工葉緑素保管槽、俺たちはモグラみたいな匍匐ほふく前進で突き進んだ。

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