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あなたの番になりたかった  作者: 片山絢森
5.人間の国で(結)

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28.再会


 辺りを埋め尽くすほどの一面の花が、所狭しとひしめいている。

 野に咲く花かと思ったが、そうではない。都でもお目にかかれないほどの見事な花が、家の前を埋めていた。


「な……何? え、えええっ?」


 ちょうどその時、太陽が昇り始めた。

 差し込む朝日を浴びて、花々がキラキラと輝き出す。

 よく見ればその花びらには朝露がついており、たった今摘んだばかりのもののようだった。


 驚きに立ちすくんでいたアイナだが、ふとある事を思い出した。

 そういえば、ジェイドが花束を贈ると言っていたか。


 彼の仕業かと思ったが、よく見れば別の場所に大きな花束が置かれている。そちらは大輪の花を合わせた豪華なもので、やや風合いが違っていた。

 花束には綺麗な紙が挿してあり、ジェイドの名前が記されている。


 ――では、この花は誰のものだろう?


 花を踏まないように注意して、アイナはようやくそこから抜けた。

 姉の結婚祝いだろうか。それにしても、すごい人がいるものだ。これを運ぶだけでも相当な労力を使っただろうに。


 せめて声をかけてくれればと思ったが、その誰かは名乗らずに行ってしまったらしい。もしかすると、姉に惚れていた男かもしれない。姉は村でも評判の美人で、村の男に人気があった。


(でも、なんだか……違う気がする)


 無意識に歩いていたアイナは、いつの間にか村の外れへと来ていた。

 この先は緑が広がる高台だ。こんな時間、誰もいるはずがない。


 そう思っていたのに、足は勝手に丘へと向かう。

 よく分からなかったが、まあいいかとアイナはあきらめた。

 久々に高台から昇る朝日を眺めるのもいいかもしれない。


 ――だから、それに気づくのが遅くなった。


 その人影を目にしたのは偶然だった。

 村を見下ろす場所で、人影は静かに立っていた。


 艶を帯びた黒髪に、軽やかな薄青の衣。銀糸の織り込まれた袖が風になびく。

こちらに背を向けているせいで、顔は見えない。けれど、その姿には見覚えがあった。


 まさか。


 アイナは束の間棒立ちになった。


 まさか――まさか、そんな。

 無意識に駆け出すと、衣の裾がはためいた。その姿はまるで白い鳥が飛び立つようだった。


 足元が汚れるのも構わず、必死になって高台を目指す。足音に気づいたのか、人影がこちらを振り返った。


 ああ、とアイナは思った。


(ああ……)


 ――ああ。



「……ギルさま!」



 駆け寄ったアイナに、ギルフェルドは大きく目を見張った。


「……アイナ?」

「はい、そうです。ギルさま」


 ギルフェルドの声はかすれていたが、そんな事はちっとも構わなかった。

 息を弾ませ、アイナは彼の前に立った。


 ギルフェルドは目を見張ったまま、身じろぎもしない。ひどく驚いているのは分かったが、その理由は測りかねた。


 呼吸を二十数えても、彼はその場から動かなかった。

 やがて、ギルフェルドが口を開いた。


「……髪が伸びたな」

 久々に聞く彼の声は、記憶と同じものだった。


「会うつもりはなかった。ただ、顔が見られればと。驚かせてすまない」

「いえ、そんなことは……」


 どうして。

 どうして、ここにいるのか。


 胸がいっぱいになり、何も言葉が出てこない。

 喉が詰まる。息が苦しい。どうやって呼吸をしていたんだっけ。そんな事すら思い出せず、ただ目の前の男を見つめる。


 二年ぶりに会う彼は、あの日と同じ姿をしていた。

 竜人は年を取りにくいのか、未だに若々しく凛々しいままだ。二十代半ばほどの外見は、時を止めてしまったようにさえ見える。


 ――でも、少し痩せたかもしれない。


 きちんと食べているのだろうか。何か困った事が起こっている? それともまさか、もっと別の理由があるのか。


 できるなら彼を取り巻く苦難が、ひとつでも取り除かれるようにと祈る。それくらいしか、今のアイナにできる事はない。


(ギルさま……)


 会いたかった。


 ずっとずっと、会いたかった。


 込み上げてくる涙を飲み下し、ぎゅっと唇を噛みしめる。さぞかし変な表情になっているだろうが、そんな事に構ってはいられない。


(気づかないで)


 会いたいと思っていた事に気づかないで。

 会えて嬉しいと思っている事に、どうか気づかないで。

 泣きたいほどに嬉しいなんて、どうか、どうか、気づかないで。


(だって)


 無理なのだ。

 アイナは竜人でもなければ、特別な力があるわけでもない。地位や名誉があるわけでも、今は彼の番でもない。種族も国も、寿命さえ違う彼とともに生きる道など、どう考えてもありえない。何よりも、彼がそれを望んでいない。


 何ひとつ並び立つ資格などないのに、一緒にいたいなんて言えない。それはアイナの我がままだ。そんな事を言えば、きっと彼を困らせる。


 ――違う、そうじゃない。


 彼の口から拒絶されたくないのだ。そうすれば、つながったままでいられるから。


 揺らぐ視界に瞬くと、ギルフェルドの表情が目に入った。

 以前と同じ、静かなまなざし。


 けれど、どうしてだろう。今はその奥に何かの感情が揺らめいて見える。

 押し込めて押し込めて、それでも爆発しそうな何か。

 彼の瞳に映る自分は、どんな表情をしているのだろう。

 そう思ったところで、ギルフェルドの手にした花に気がついた。


「あの花は……ギルさまが?」

「……ああ」

 ギルフェルドがぎこちなく頷く。


「ありがとうございます。とても綺麗でした」

「婚礼だと聞いた。本当はもっとたくさん用意したかったのだが、家が埋まるのはまずいと思った」

「十分です。やりすぎですよ」

「そうか」


 アイナが笑うと、彼もふっと微笑んだ。瞳の奥の何かは相変わらず揺らめいていたが、それでも笑顔はやさしかった。


 姉の婚姻まで気にかけてくれるとは思わなかったが、嬉しいのは本当だ。どれだけ姉が喜ぶか、その気遣いに感謝するかを述べようとして、胸が詰まって言えなかった。

 言葉は貼りついたように出てこない。ただ胸の前で手を握り、彼の事を見つめるだけだ。


 ギルフェルドの瞳は、相変わらず揺らめいている。

 かすかに瞬く、小さな炎。

 そう思ったのはどうしてだろう。


「元気そうだな。見違えた」

「はい」

 はっと気づき、アイナは慌てて返事をした。


「ずいぶん大人びた。ファナが見たら驚くだろう」

「そう……でしょうか」

「二年も経てば当然か。人間が年を取るのは早い」

「……そうですね」


 頷くと、胸がツキリと痛みを帯びた。


「相手の男は、お前にやさしくしてくれるか?」

「はい」


 アイナの姉の夫となる人物は、家族全員と仲がいい。


「何か困ったことはないか」


「ありません」


「家族は息災か」


「はい」


「暮らしに不自由はしていないか」


「大丈夫です」


「お前を苦しめる者はいないか」


「いません」


「お前を悲しませる出来事はないか」


「ありません」


「辛いことや、苦しいことや、痛みを覚えることはないか」


「――ありません」


 答えるたびに、胸の奥がじわりと熱くなる。

 目の前に花が降ってくるようだった。


 一枚一枚、向けられる言葉が花びらとなり、アイナをやさしく包み込む。いつの間にかギルフェルドがそばにいて、アイナを間近で見下ろしていた。


「婚礼の日に泣くものではない」

「あ……すみません」

 目元をぬぐわれて、自分が泣いていた事を知る。


「まさかとは思うが、この婚礼に不安があるのか」

「違います! そんなこと、あの」


 反射的に首を振ると、ギルフェルドが唇を引き結んだ。何かをこらえる顔になり、目を閉じる。


「それならいい。……幸せでよかった」


 どうしてだろう。その言葉とは裏腹に、ギルフェルドの表情が沈んでいる。微笑んでいるのに、深い悲しみに溺れているようだ。


 声のない絶叫にも似た絶望と、底知れない喪失感。心の深い場所を一瞬だけ撫でたそれは、瞬きよりも早く消えていった。


「その男は信用に足る者か」

「はい」

「お前も信頼しているか」

「はい」

「暴力や、暴言や、お前を困らせることはないか」

「ありません」


 姉の夫になる人は、本当に気持ちのいい人物だ。

 アイナが頷くと、ギルフェルドはそうかと呟いた。


「では、最後にひとつだけ。――何があろうと、お前を守ると誓える男か」

「はい……はい?」


 妙な事を聞かれると思った。

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