28.再会
辺りを埋め尽くすほどの一面の花が、所狭しとひしめいている。
野に咲く花かと思ったが、そうではない。都でもお目にかかれないほどの見事な花が、家の前を埋めていた。
「な……何? え、えええっ?」
ちょうどその時、太陽が昇り始めた。
差し込む朝日を浴びて、花々がキラキラと輝き出す。
よく見ればその花びらには朝露がついており、たった今摘んだばかりのもののようだった。
驚きに立ちすくんでいたアイナだが、ふとある事を思い出した。
そういえば、ジェイドが花束を贈ると言っていたか。
彼の仕業かと思ったが、よく見れば別の場所に大きな花束が置かれている。そちらは大輪の花を合わせた豪華なもので、やや風合いが違っていた。
花束には綺麗な紙が挿してあり、ジェイドの名前が記されている。
――では、この花は誰のものだろう?
花を踏まないように注意して、アイナはようやくそこから抜けた。
姉の結婚祝いだろうか。それにしても、すごい人がいるものだ。これを運ぶだけでも相当な労力を使っただろうに。
せめて声をかけてくれればと思ったが、その誰かは名乗らずに行ってしまったらしい。もしかすると、姉に惚れていた男かもしれない。姉は村でも評判の美人で、村の男に人気があった。
(でも、なんだか……違う気がする)
無意識に歩いていたアイナは、いつの間にか村の外れへと来ていた。
この先は緑が広がる高台だ。こんな時間、誰もいるはずがない。
そう思っていたのに、足は勝手に丘へと向かう。
よく分からなかったが、まあいいかとアイナはあきらめた。
久々に高台から昇る朝日を眺めるのもいいかもしれない。
――だから、それに気づくのが遅くなった。
その人影を目にしたのは偶然だった。
村を見下ろす場所で、人影は静かに立っていた。
艶を帯びた黒髪に、軽やかな薄青の衣。銀糸の織り込まれた袖が風になびく。
こちらに背を向けているせいで、顔は見えない。けれど、その姿には見覚えがあった。
まさか。
アイナは束の間棒立ちになった。
まさか――まさか、そんな。
無意識に駆け出すと、衣の裾がはためいた。その姿はまるで白い鳥が飛び立つようだった。
足元が汚れるのも構わず、必死になって高台を目指す。足音に気づいたのか、人影がこちらを振り返った。
ああ、とアイナは思った。
(ああ……)
――ああ。
「……ギルさま!」
駆け寄ったアイナに、ギルフェルドは大きく目を見張った。
「……アイナ?」
「はい、そうです。ギルさま」
ギルフェルドの声はかすれていたが、そんな事はちっとも構わなかった。
息を弾ませ、アイナは彼の前に立った。
ギルフェルドは目を見張ったまま、身じろぎもしない。ひどく驚いているのは分かったが、その理由は測りかねた。
呼吸を二十数えても、彼はその場から動かなかった。
やがて、ギルフェルドが口を開いた。
「……髪が伸びたな」
久々に聞く彼の声は、記憶と同じものだった。
「会うつもりはなかった。ただ、顔が見られればと。驚かせてすまない」
「いえ、そんなことは……」
どうして。
どうして、ここにいるのか。
胸がいっぱいになり、何も言葉が出てこない。
喉が詰まる。息が苦しい。どうやって呼吸をしていたんだっけ。そんな事すら思い出せず、ただ目の前の男を見つめる。
二年ぶりに会う彼は、あの日と同じ姿をしていた。
竜人は年を取りにくいのか、未だに若々しく凛々しいままだ。二十代半ばほどの外見は、時を止めてしまったようにさえ見える。
――でも、少し痩せたかもしれない。
きちんと食べているのだろうか。何か困った事が起こっている? それともまさか、もっと別の理由があるのか。
できるなら彼を取り巻く苦難が、ひとつでも取り除かれるようにと祈る。それくらいしか、今のアイナにできる事はない。
(ギルさま……)
会いたかった。
ずっとずっと、会いたかった。
込み上げてくる涙を飲み下し、ぎゅっと唇を噛みしめる。さぞかし変な表情になっているだろうが、そんな事に構ってはいられない。
(気づかないで)
会いたいと思っていた事に気づかないで。
会えて嬉しいと思っている事に、どうか気づかないで。
泣きたいほどに嬉しいなんて、どうか、どうか、気づかないで。
(だって)
無理なのだ。
アイナは竜人でもなければ、特別な力があるわけでもない。地位や名誉があるわけでも、今は彼の番でもない。種族も国も、寿命さえ違う彼とともに生きる道など、どう考えてもありえない。何よりも、彼がそれを望んでいない。
何ひとつ並び立つ資格などないのに、一緒にいたいなんて言えない。それはアイナの我がままだ。そんな事を言えば、きっと彼を困らせる。
――違う、そうじゃない。
彼の口から拒絶されたくないのだ。そうすれば、つながったままでいられるから。
揺らぐ視界に瞬くと、ギルフェルドの表情が目に入った。
以前と同じ、静かなまなざし。
けれど、どうしてだろう。今はその奥に何かの感情が揺らめいて見える。
押し込めて押し込めて、それでも爆発しそうな何か。
彼の瞳に映る自分は、どんな表情をしているのだろう。
そう思ったところで、ギルフェルドの手にした花に気がついた。
「あの花は……ギルさまが?」
「……ああ」
ギルフェルドがぎこちなく頷く。
「ありがとうございます。とても綺麗でした」
「婚礼だと聞いた。本当はもっとたくさん用意したかったのだが、家が埋まるのはまずいと思った」
「十分です。やりすぎですよ」
「そうか」
アイナが笑うと、彼もふっと微笑んだ。瞳の奥の何かは相変わらず揺らめいていたが、それでも笑顔はやさしかった。
姉の婚姻まで気にかけてくれるとは思わなかったが、嬉しいのは本当だ。どれだけ姉が喜ぶか、その気遣いに感謝するかを述べようとして、胸が詰まって言えなかった。
言葉は貼りついたように出てこない。ただ胸の前で手を握り、彼の事を見つめるだけだ。
ギルフェルドの瞳は、相変わらず揺らめいている。
かすかに瞬く、小さな炎。
そう思ったのはどうしてだろう。
「元気そうだな。見違えた」
「はい」
はっと気づき、アイナは慌てて返事をした。
「ずいぶん大人びた。ファナが見たら驚くだろう」
「そう……でしょうか」
「二年も経てば当然か。人間が年を取るのは早い」
「……そうですね」
頷くと、胸がツキリと痛みを帯びた。
「相手の男は、お前にやさしくしてくれるか?」
「はい」
アイナの姉の夫となる人物は、家族全員と仲がいい。
「何か困ったことはないか」
「ありません」
「家族は息災か」
「はい」
「暮らしに不自由はしていないか」
「大丈夫です」
「お前を苦しめる者はいないか」
「いません」
「お前を悲しませる出来事はないか」
「ありません」
「辛いことや、苦しいことや、痛みを覚えることはないか」
「――ありません」
答えるたびに、胸の奥がじわりと熱くなる。
目の前に花が降ってくるようだった。
一枚一枚、向けられる言葉が花びらとなり、アイナをやさしく包み込む。いつの間にかギルフェルドがそばにいて、アイナを間近で見下ろしていた。
「婚礼の日に泣くものではない」
「あ……すみません」
目元をぬぐわれて、自分が泣いていた事を知る。
「まさかとは思うが、この婚礼に不安があるのか」
「違います! そんなこと、あの」
反射的に首を振ると、ギルフェルドが唇を引き結んだ。何かをこらえる顔になり、目を閉じる。
「それならいい。……幸せでよかった」
どうしてだろう。その言葉とは裏腹に、ギルフェルドの表情が沈んでいる。微笑んでいるのに、深い悲しみに溺れているようだ。
声のない絶叫にも似た絶望と、底知れない喪失感。心の深い場所を一瞬だけ撫でたそれは、瞬きよりも早く消えていった。
「その男は信用に足る者か」
「はい」
「お前も信頼しているか」
「はい」
「暴力や、暴言や、お前を困らせることはないか」
「ありません」
姉の夫になる人は、本当に気持ちのいい人物だ。
アイナが頷くと、ギルフェルドはそうかと呟いた。
「では、最後にひとつだけ。――何があろうと、お前を守ると誓える男か」
「はい……はい?」
妙な事を聞かれると思った。




