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あなたの番になりたかった  作者: 片山絢森
5.人間の国で(結)

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27/32

27.婚礼の日


    ***

    ***



 ――あれから二年の時が流れた。


「よい……しょっと」


 干し草の束を下ろし、アイナはふう、と息をついた。

 後ろでくくった髪がさらりと揺れる。


 この二年でアイナの背は伸び、顔つきも少し大人びた。二年前は短かった黒髪も、背中の中ほどまで伸びている。


 化粧をするわけではないが、しょっちゅう村を訪れるジェイドが保湿剤だの軟膏だのを持ってくるため、肌はいつもすべすべだ。さすがに使い切れないため、家族や村の女性達にも分けているが、全員に行き渡ってもまだ余るほどの分量だった。


 番のいるジェイドがなぜこんなに頻繁にと思っていたら、その番であるシェーラの望みと、シェーラの父親への挨拶という事だった。


 なんでも、彼はまだ娘を手放す事を渋っており、ジェイドが精力的に説得中らしい。「あれで可愛いとこあるんだよ、あの人」と笑っていたので、意外と仲良しなのだと思う。


 竜の国はおおむね平和で、変わりがないという事だった。


 シェーラがアイナに会えなくて寂しがっていて、シェーラがアイナとお喋りしたがっていて、シェーラから手紙や贈り物の言づけがあって、シェーラがアイナの安全と平和と幸せを願っている――というところまで聞くと、ジェイドはついでのように付け加えた。


「兄上も変わりないよ。大丈夫」

「……そうですか」

 よかった、と短く告げる。ジェイドは華やかな顔を少し曇らせた。


「あのさ、アイナ。……やっぱり一度くらい、竜の国に行ってみない?」

「……ジェイドさん」

「ずっとじゃなくていいんだ。一か月……ううん、数日でもいい。アイナさえよかったら、僕が君を連れていくよ。帰りももちろん送るから……どうかな?」

「ありがとうございます。でも、いいんです」


 行きません、と首を振ると、ジェイドはへにょりと眉を下げた。


「そっか。……そう言うと思った」

「ごめんなさい、ジェイドさん」

「いいよ。でも……その、本当にいいの? アイナは多分、兄上の……」


 ジェイドの視線は、アイナの胸元に向けられていた。

 そこにはギルフェルドからもらった竜の鱗がきらめいていた。


 竜人が自らの鱗を渡すのは、特別な意味を持つという。親子や兄弟でもありえない、大切な相手へと渡すものだ。ジェイドもシェーラに贈っていて、それが初めてで最後だと。

 ギルフェルドはそんな事、一言も言っていなかった。


「兄上はいつも通りだけど……変わらないように見えるけど、でも本当は、アイナに会いたいと思ってる。本人は絶対言わないけど、そのはずだ。僕が持ってくる贈り物だって、シェーラからだけじゃなくて、兄上も相当……あ」

「大丈夫ですよ、ジェイドさん」


 分かってますと苦笑すると、ジェイドはほっとした顔になった。


 あれはいつの事だったか。高価な贈り物の数々に、いくらなんでも分不相応すぎると断ろうとしたところ、「出所は兄上だから問題ない」と、ジェイドがうっかり口をすべらせたのだ。直後に青ざめていたので、よほど厳重に口止めしたのだろう。誰にも言わないと請け合うと、ほっと胸をなで下ろしていた。


 そこまで秘密にしなくてもいいのにと思うけれど、ギルフェルドの気遣いなのだろう。

 それとも、けじめという線引きなのか。


 後者なら少し悲しいけれど、そう思う資格はない。何せアイナは、自分でその権利を手放したのだから。


 あの後、自分の生まれ故郷に帰ったアイナは、家族からの大歓迎を受けた。

 ガルゼルに連れられて獣人の国へ行った後、一度も帰らなかったのだから当然だ。途中からは連絡も滞るようになり、心配していたという話だった。


「竜人さんってのが来てくれて、無事でいるのは分かったけどね」

「それがまた、村じゃ見たことがないほどのいい男でね。あたしたち家族にも、何か困ったことはないかって聞いてくれて。ほんとにありがたかったのよ」

「目の色がすっごく素敵でね。藍色と金色が混ざってるの!」

「声も低くて色っぽくて! 前の男より断然いいわ。ああ、うちの父さんと交換したい」


 母親をはじめ、姉二人と妹が口々に言う。それはギルフェルドだろうと思ったが、彼女達の気安さに目まいがした。


 ――その人、獣人の中でも特に位が高い竜人の、おまけに第一王子なんですけど……。


 だが、アイナは結局口をつぐんだ。世の中、知らない方がいい事もあるのだ。


(……それにしても)


 下の姉と妹はともかく、上の姉はどうなのだろう。もうすぐ大事な日だというのに、困ったものだ。

 そんな事を思い出していたアイナは、ジェイドの声に我に返った。


「そういえば、半月後だっけ? 上のお姉さんの結婚式」

「そうですね。もうすぐです」

「僕からも何か贈るよ。人間の結婚祝いって、どんなものを贈り合うの?」

「どうでしょう……。うちの村なら、花とか、でしょうか?」


 何せ貧しい村だったので、野山で摘んだ花を贈るのが精いっぱいだったのだ。それを聞き、「花か」とジェイドは頷いた。


「当日には大きな花束を贈るよ。楽しみだな、本当に」

「ありがとうございます。きっと姉も喜びます」


 ジェイドが飛び立っていくと、アイナは小さく息をついた。


 ちなみにジェイドを「さん」呼びするのは、本人の強い希望あっての事だ。「シェーラさん」「アイナさん」と呼び合うのがうらやましかったらしく、土下座する勢いで頼まれた。

「シェーラとお揃いで嬉しい」とはにかんでいたあの人が、ザグート家を壊滅させかけた当人だとは未だに信じられない。


 ジェイドが飛び去った方角を見ると、白い鳥が飛んでいた。

 空は綺麗に晴れている。竜の国も青空が広がっているだろうか。


 ――ギルさま。


 胸の内で呟いた名前は、誰にも知られずに消えていく。


 ――会いたい。


 戻りたい。帰りたい。

 戻りたい。帰りたい。


 一目でいいから、顔が見たい。


 ――でも、できない。


(私は、ただの人間だから……)


 シェーラのように、覚悟を持った娘なら、彼の隣に並ぶ事ができるだろう。美しく、教養もあり、貴族の姫君という身分もある。何より彼女は心やさしく、ジェイドと同じ立場で物事を見る事ができる。まさに王家の一員にふさわしい。


 対して自分は身分もなく、教養も、美しさも持ち得ない。竜の城に来た当初、読み書きもろくにできなかったくらいだ。今思い返しても恥ずかしい。何ひとつ満足にできない、未熟な自分。


 ――何よりも、覚悟が。


 彼の隣に並ぼうという覚悟が、自分にはなかった。

 ギルフェルドもそれを分かっていたからこそ、共にいる事を望まなかったのだろう。


(でも……)


 本当は思っていた。

 それでもいいから、あの手を取りたかったのだと。


「アイナー、そろそろ戻っておいでよ。夕飯、できるよ」

「あ、はーいっ」

 下の姉が呼ぶ声がして、アイナははっと我に返った。


「竜の国から戻ってから、しょっちゅうぼんやりしてるね。もう大分経つのに、そんなにいいところだったの?」

「……うん、いいところだったよ」

 草道を歩きながら、アイナは小さく頷いた。


「綺麗で、広くて、いい香りがして……やさしい人がいっぱいいた」

「そっか。そりゃよかったね」

 にかっと下の姉が笑う。


「あんたがそうしたいなら、会いに行きなよ。行きたい場所へ行って、会いたい人に会っておいで」

「……できないよ、そんなこと」

「なんでさ。誰も止めないよ」

「それでも、駄目なの」


 彼が望んだのは、アイナが家族と共に暮らす事だ。

 アイナは人間の国に戻り、人間の中で生涯を終える。それが彼の望んだ事だ。それならば、それくらいは叶えないと。


 国が違う。種族が違う。立場が違う。寿命が違う。


 どれひとつとっても大変な事なのに、すべてだというのだからどうしようもない。彼はアイナを手放して、はっきりと決別を選んだ。それを受け入れたのはアイナだ。


 ――だから、もう二度と、会う事もない。


 家に戻り、アイナは家族と食卓を囲んだ。

 皆で集まり、一緒になって笑い合う。そこには辛い事も悲しい事も存在しない。狼の国にいた時、喉から手が出るほど欲しかったものだ。


 ――そして、ギルフェルドが与えてくれたもの。


 寝る時は家族全員で、ぎゅうぎゅうになって眠る。誰かの寝息を聞きながらまどろむのは、ひどく安心できる事だった。


 そうやってしばらくの時間が過ぎた。


 上の姉の婚礼支度が忙しくなり、アイナも手伝いに駆り出された。ジェイドが持ってきてくれた差し入れの中に、美しい布が入っていた。花嫁衣裳を仕立てるのに十分な量で、姉はそれを使い、ため息が出るほど美しい婚礼衣装を仕立てた。アイナも手伝ったが、それは姉によく似合っていた。


 花嫁衣裳を仕立てても、布はまだ余るほどあった。

 驚いた事に、アイナにも新しい服を作ってくれた。純白の軽い布地でできたそれは、花嫁衣裳にも劣らない出来栄えだった。

 こんなに立派なものをと固辞するアイナに、姉達は笑って取り合わなかった。


 聞けば、アイナが眠った後や、家を不在にしている時、こっそりと縫い進めていたらしい。「あんたにぴったりだと思ってさ」と笑う二人に、アイナは呆れつつも礼を言った。


 そして、婚礼の当日が訪れた。


 夜明け近くにアイナは目覚めた。

 理由はない。ふと目が覚めたのだ。

 家族は皆寝入っている。起こさないように注意して、アイナはそっと部屋を抜けた。


 今日は姉の大切な日だ。家族で簡単に食事をして、村の中央で式を挙げる。花婿は隣村の男性だ。大柄な体格に見合わず、気弱でやさしい人だった。

 彼は姉にぞっこんで、アイナの事も可愛がってくれる。妹や弟も彼の事が大好きだ。きっと姉は嫁いでからも幸せに暮らせる事だろう。


 そういうアイナにも、実は縁談の話が来ていた。


 竜の城から戻った後、いくつか打診が届いた。すべてに首を振ると、やがて、降るように縁談が持ち込まれた。いくらかは竜人との縁をつなぎたいためだろうが、残りはアイナを見染めたものだった。


 読み書き計算に加え、シェーラから教わった立ち居振る舞いが、故郷では新鮮だったらしい。それにも首を振り、アイナは独り身を貫いていた。

 田舎ではそろそろ、嫁ぎ先を決める年齢だ。


 近くの桶で顔を洗い、身支度を整える。朝食の前だったが、アイナは新しい服に袖を通した。

 軽やかな生地が肌を覆い、ふわりと裾が広がる。


 花嫁衣装に比べて布地は少ないが、十分すぎる出来栄えだ。遠目なら、アイナが花嫁に見えるかもしれない。本物の花嫁衣裳と比べたら、さすがに見劣りするだろうけれど。


 ふと、花の香りがした。

 何気なく外に続く扉を開けて、アイナは目を見張った。



 ――目の前に、花があふれていた。


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